●ぽんぽこ12-4 クマザサとシロクマ
ギンドロの群れの縄張りを渡る川の上流方向から、トンネルを掘って攻め込んでいたホッキョクグマとツチブタのタッグが、地中に張られた根の網にぶつかった。
まっ白な毛衣のクマ、ホッキョクグマ、いわゆるシロクマが、複雑に絡まり合う細っちょろい根を爪で引き裂こうと引っ張ったが、土よりも濃く広がっている根っこの網に穴を開けることはできなかった。
見かねたツチブタが硬い爪でトンネルの上部を掘り抜いて外の様子を確認する。
ぼこりと開いた穴から、ブタのような長鼻が出て、頭が抜けるとウサギのような大きな耳がぴょこんと跳ねる。カンガルーに似た尻尾で足元を支えて、ツチブタはくるくるとあたりに視線を向けた。
外には静かな緑の野があるばかり。地中の道を塞いでいる根は正面に生い茂る笹が原因らしかった。
のっそりと、ツチブタが地上に姿を現す。ロバの子供ほどの体長。アリクイみたいな顔つきの、灰褐色の毛衣をした獣。顔が似ているだけあって、アリクイと同じくアリが主食。けれどツチブタはアリクイの仲間ではない。ブタの仲間でもない。ツチブタ属、ツチブタ科をツチブタだけで占有している1属、1科、1種の珍獣。
長い耳をあちこちに向ける。ツチブタの聴覚はアリの足音が聞こえるほどに優れている。
獣も鳥もいない。あるのは植物のさざめきだけ。
笹が夜風に揺れて擦れる音が、かなり遠くからも聞こえてくる。
その笹は植物族。葉っぱの大きさや形はちょうどツチブタの耳と同じぐらい。短刀の刃のように薄い笹の葉には白い隈取り。切っ先は鋭い。隈笹だ。クマと言っても隈取りの隈のことで、動物の熊とは関係ない。ちなみに熊の笹と書く熊笹と呼ばれる笹もあって、ややこしいので混同されることもしばしば。
クマザサは笹であり、ようするに竹の仲間。竹は高い背丈を支えるために地中に強靭な根を張り巡らせる。それがいま、シロクマたちの進攻を阻んでいるのだ。
ツチブタはトンネルに戻ってシロクマに状況を伝える。
「いったん外を通るべきだな」
と、ツチブタ。根が届かない深さまでトンネルを掘って進む手もあるが、クマザサの茂っている範囲が広大すぎる。モグラの群れのなかでシロクマとツチブタは特に大柄な部類。掘る穴も太くなり、かき出した土を外に排出する作業の手間も多くなる。このふたりに限っては、地上での行動を中心に、壁にぶつかったら地中を潜る、という作戦をとっていた。
「じゃあ、一回外に出よう」
シロクマが暗いトンネルのなかで頷くと、反転して、土の茶色で汚れた体を外の空気が流れ込んでくる方へと向けた。
まずはツチブタ、続いてシロクマが地上に出る。
シロクマは、ぷはあ、と冷えた夜が揺蕩う外の空気を思いっきり吸い込んで、満足そうに呑み込んだ。
ばっ、ばっ、と土を払うと、白い毛衣にまだらな茶色が残る。ぶるんと身震いすると、やっと星明りに輝く純白を取り戻した。あたりには地中で眠っていたのを掘り起こされた土のにおいがほのかに漂う。
シロクマは密生しているクマザサの笹藪を見て、むう、と溜息のような声をもらした。これは手ごわい。硬そうな竹の茎には、鋭利な刃のような笹の葉がすらりと並ぶ。通り抜けるときにちくちくしそうで、想像すると身がこわばった。
目指している拠点はちょうどこの向こう側。回り道できないかと思わず左右を見回したが、クマザサはここら一帯に沼のような緑の原を敷いている。道を外れれば大きな時間のロスになってしまう。
ツチブタはひと足先に笹藪に足を踏み入れている。
「待ってよお」
シロクマもすぐに後を追う。
後ろ足で上体を持ち上げてみると腰の高さぐらいのクマザサがずっとずっと生い茂っている。四つ足で歩き出すと、鼻がなんとか茂みの上に出るぐらい。ツチブタは茂みのなかに沈んでいる。均一な景色に遠近感が狂う。遠くは見えるが、近くは見えない。そんな風景。
ぞくり、と背中の毛が逆立つような感覚に、シロクマはふり返った。だれかに見られているような。
だれもいない。
正しくは、いるのだが、いないも同然。
敵は近くにいる。クマザサの植物族。近くどころか敵の腹の上に乗っているような状況。けれどクマザサはただそこにあるだけだ。牙のような笹の葉も、角のような竹の幹も、注意していればこちらが怪我をすることはない。
正面を見るとツチブタが揺らす茂みが遠ざかっていた。慌てて笹をかき分けて、足を動かす。
本当に植物ばかりなのだな、とシロクマは緑のにおいに鼻をうずめる。ピュシスの一般的な戦略では、植物族は仲間の獣とセットで動くのが基本。植物族は動けない代わりに、共通の能力として、味方の能力上昇効果と、敵の能力低下効果の能力を持っている。近くの仲間を補助するのがシステム上、想定されている戦い方。単独でいる植物族など、路肩の石と変わらない。
クマザサは強い根っこを有効活用して、十分に足止めの役割を果たしているとは思うが、ここに獣がいたならば、遅延させるだけでなく、撃退できる可能性まで見えていただろうに、なんだか敵ながらもったいない戦い方だと感じる。
ばちん、と前方で音がした。
ツチブタが踏みつけた竹の枝が、立ち上がる反動で鞭のようにしなって、ツチブタの腹を叩いたのだ。
「ちっ」と、ツチブタは苛立たし気に、鼻を鳴らす。敵の攻撃扱いになったらしく体力がかすかに減った。カンガルーのような尻尾をぶんと振って、近くのクマザサに八つ当たり。けれどクマザサは平気な顔をして、なにも言わずにそこにある。
足元は笹の葉が被っていてほとんど土は見えない。ツチブタはシロクマをふり返って、
「笹の下に茎が隠れていることがあるから、踏まないように……」
と、注意しようとした瞬間、踏み出した後ろ足を置こうとした位置に、とりわけ白い葉があるのに気がついた。クマザサの葉には白い隈取りがあるが、それは骨のように全体がまっ白だ。
踏み下ろそうとしている足をずらす。すると、その白い葉は、すすす、と動いて追いかけてきた。足を下ろす動作はもう止められないところまできている。白い葉は吸い付くように、ツチブタの右後ろ足へ。
刺さった。ダメージ。右後ろ足に裂傷の状態異常。すぐに抜くと、白い葉ごと周囲の笹が盛り上がってきた。まっ白な葉は二枚ある。それは葉ではなく杭のようだった。杭ではなく獣の牙であった。笹の葉にまぎれて、三日月形のおおきな牙が生えているのだ。それが、ツチブタの足の一本を貫いた。
背中に笹の葉を背負った獣が、緑のなかから出現した。
それほど深く刺さったとも思えなかったが、妙に大きく体力が減っている。
「敵だ!」
ツチブタが仲間に敵の襲来を伝える。シロクマはすでに走り出していた。笹をまとった獣はふたりの中間。シロクマは獣の背中にクマの剛腕を振り下ろす。
獣は即座に反転。足を痛めたツチブタは捨て置いて、シロクマを迎え撃つ構え。
シロクマの殴打は笹にヒットしたものの、それは獣の体ではなかった。ただの笹の茂み。敵が笹をまとっているので見誤った。
獣はまるでギリースーツのように赤茶けた毛衣の背中いっぱいに笹を背負っている。森の天井へと反り返った牙。そしてブタ鼻。それはイノシシ。シロクマほどの図体の大イノシシであった。
血に飢えた瞳がシロクマを射抜く。突進。白い毛衣に牙を向けた。
シロクマは今度こそ攻撃を外さないように相手を慎重に捉える。だが悠長。大イノシシはまたたく間に距離を詰めてくる。
疾風迅雷の牙の突進が、シロクマを討つかと思われたそのとき、イノシシの足がぬるりと地面に沈みこんで、その勢いを殺していた。
足元には笹の葉の茂み。その下にはしっとりとした土の野。それがいまは、まるで潤いを失って、乾いた砂に変じると、流砂の如くにクマザサごと、上にいる大イノシシを呑み込もうとしていた。
大イノシシはちらとツチブタに視線を向ける。ツチブタの神聖スキルによる異変だと気がついたのだ。
その推察は見事正解。砂漠の神セトの力。セトは粗暴な軍神であるが太陽神ラーを混沌の大蛇アポピスから守る役割を持つ。しかし、後に兄である神オシリスを殺し、その息子ホルスに打ち破られることになる存在。セト神の頭はツチブタ。もしくはセトの獣という未知の獣であるとされている。
体勢を崩したイノシシの頭にシロクマが腕を振り下ろした。体重を乗せた強烈なクマパンチが脳天にクリーンヒットする。
手ごたえあり。大イノシシが崩れ落ちるように笹の原に沈む。
シロクマは倒れた大イノシシに確実にとどめをさすべくもう一発パンチを放つ。が、いま大イノシシがいたはずの場所にはなにも残されていなかった。
「消えた……?」
腕を振ってあたりを探り、さらには地面を覗き込む。地面にはツチブタのスキルで砂化した土に、濡れたような星明りが落ちているばかり。まさか溶けてしまったのだろうか。
一本痛めた足を引きずりながら、ツチブタがやってきて、
「仕留めたか」
「分からない」
「分からない?」
「どこかにいっちゃったみたい」
「倒れたあと、逃げた足音はなかった」
と、ツチブタは耳をあちこちに向ける。笹藪のなかで動いたら、派手な音は避けられない。
「私も聞かなかった」と、シロクマ。
「なんだったんだ」
「イノシシの幽霊とか?」
「幽霊に刺されたのか俺は」ツチブタが自分の右後ろ足に目をやる。
シロクマは身を震わせて、
「私、幽霊苦手」
と、泣きそうな声をこぼした。それに対してツチブタは、
「どうせ神聖スキルだろう」
長鼻の先ではげますようにシロクマの足をつつく。そうしながら耳での注意も怠らない。けれど、やっぱり大イノシシの気配はどこにもなかった。
「まさか透明になれるイノシシか? 足音すらしないなんて、空でも飛んでいるのかもな」
「やっぱり幽霊?」
シロクマにしがみつかれそうになって、ツチブタはひょいとのけぞり、
「違うと言っただろ。スキルに決まってる」
叱咤しながら、
――しかし、イノシシとは。
と、考える。
ツチブタはギンドロの群れについて、小鳥ぐらいしか獣のいないところだと聞いていた。最近になって方針を変えたんだろうか。なんの種類のイノシシかは分からなかった。スキルで面相が変質していたのかもしれないが、かなり化け物じみた凶悪な顔。ごわごわした暗い赤茶色の毛。牙の煌めきは血を吸った妖刀のようであった。
「危ない!」
シロクマの声で、思考に呑まれていたツチブタは足元の異変に気がつく。笹の茂みから水上に現れたサメのヒレのような牙が覗いて、ツチブタの足をもう一本奪おうと鋭い切っ先を向けていた。
痛めた足が重しになって、とっさの回避行動はとれない。
シロクマがツチブタを攻撃から逃れさせようと、その体を白い両腕で抱えて持ち上げる。同時にツチブタは神聖スキルで足元の土を砂に変えた。今度はさっきよりも深く。
笹の大地から音もなく現れた大イノシシは、乾いた砂に足をとられる。はずだったが、牙の勢いは大して削がれた様子もなく、分厚いイノシシの鼻がしっかりとツチブタに向かって持ち上げられていた。
ツチブタは驚く。
クマザサの被いの下にある土は、たしかに砂になっている。足を踏ん張ることなどできない。むしろ力を入れるほどに底なし沼の如くに足は砂に呑み込まれてしまうはずだった。
牙が跳ねて、シロクマに抱えられたツチブタの足をもう一本とった。左後ろ足。両方の後ろ足に裂傷の状態異常が付与された形になり、ますます身動きがとりづらくなる。
だがツチブタは攻撃を受けながらも、敵の正体を見極めていた。
大イノシシは笹の下から現れた。その下にあるのは地面。けれど、自分たちのように穴を掘っていたわけではない。みっしりと詰まったクマザサの根が張り巡らされた大地に、こんな大イノシシが身を隠せるほどの穴が開けられるわけがない。
敵の背中にはクマザサがまとわりついている。それはただ被さっているというだけでなく、張り付いて、接着しているようだった。まるで、背中から直接、クマザサが生えているかのような。
――逆だ。
ツチブタは答えに辿り着く
これはイノシシじゃない。イノシシから笹が生えてるのではない。
笹から、イノシシが生えているのだ。
戦っていたのは獣ではなく植物族。
クマザサの神聖スキル、笹をまとった大イノシシの妖怪、猪笹王。