▽こんこん11-6 マスト
トラ人間レョルの目の前で、飼育室に飛び込んできたゾウ人間のラアは、アジアゾウの半人が囚われている檻に激しいタックルをぶちかました。
探偵ノニノエノの制止を振り切っての行動。
レョルは突然現れた正体不明の二人組の両方を素早く確認して、ノニノエノの方は捨て置いていいと即時に判断。子ゾウに意識を集中させる。
――ゾウがゾウを助けにきた?
ピュシスでアフリカゾウがアジアゾウを探していたのを、レョルは知っていた。そのために自分の群れにまでやってきたのだから。
しかし、どうにも様子がおかしい。冷静さを欠いている。異様な興奮状態。
アジアゾウは驚きと共にうろたえて後ずさり、仕切り壁から距離を取って、外で体当たりを続ける子ゾウを檻のなかから見つめている。その長鼻は心中の困惑を示すように揺れている。
「おい! やめろ!」
レョルが声を張り上げる。檻はゾウがぶつかっても壊れないように設計されているが、無茶をすれば開閉できなくなる怖れがあった。
声に反応して子ゾウがふり向く。ゾウの鼻が、銃口のようにまっすぐ伸ばされ、トラ人間を正面にとらえた。上気した顔の瞳は焦点が合っていない。トラを見ているようで見えていない。
「うああ……」
うめき声にゾウの鳴き声も混ざっている。荒い息。涎すらこぼれている。
突進。太鼓を打ち鳴らすような足音。子供だが、すでにゾウに相応しい筋力を備えている。短いが牙もある。短刀。十分な殺傷能力。なにより危険なのは長鼻。
レョルはトラのバネでもって跳躍。子ゾウの頭上を跳び越える。追うように鼻が空中に伸びてきたが、それも身をよじってかわす。子ゾウに触れた椅子がはね飛ばされて、壁にぶつかるとバラバラに壊れた。壁近くまで走った子ゾウは、衝突の直前で、ぐるりと方向転換。足を止めて、鼻先を再びレョルの方へ。
「いきなりどうしたんだ! 対話するって言ってただろ!」
ノニノエノが叫ぶが、ラアのゾウ化途中の大耳には届かない。
「なんなんだアイツは!?」
牙を剥き出したレョルが、ノニノエノに声を投げる。
「わからない。苦しそうにしてると思ったら急に……」
と、ノニノエノはあまりのラアの気迫に近づくこともできず、距離をとって立ち尽くしていた。
アジアゾウの半人が困惑を振り払い、必死に檻の仕切り壁を叩いているが、レョルにはそれに構っている余裕はない。
かすかな刺激臭。レョルはにおいを辿って、子ゾウの頭を観察する。
子ゾウがかぶっている中折れ帽の側面が黒く濡れていた。こめかみあたり。滲んで、油のような液体が頬を伝っている。
――マスト状態というやつか。
マストとは、オスのゾウに周期的にやってくる暴走状態。マスト期のゾウは非常に攻撃的になり、酩酊したような異常行動をとったりする。そのときが、ちょうどいま訪れてしまったらしい。
もう一度、突進がくる。
レョルは爪を尖らせる。トラが狩りをする構え。
「やめてくれ!」
ノニノエノの声は遠い。もはやトラの精神は、自らに害をなす子ゾウを排除するための冷徹な判断に染まっていた。
どっ、どっ、どっ、とゾウの撥のような足で床が打ち鳴らされる。
ゾウとトラの決闘。
ブラックバックの半人のノニノエノなどには手出しできない領域の戦い。
ゾウには剛力が、トラには俊敏さがある。
身軽なトラの動きを捉え、もし一撃を入れることができれば、ゾウの勝利は揺るぎない。
しかし、トラの狙いもまた、ただの一撃であった。相手は子供。体格を考えれば仕留めるには一撃で十分。
正面から行くには鼻が危険。素早く背後に回り込んで、後ろから首に噛みつく。
子ゾウが迫る。回り込みを警戒してか、長鼻が左右に大きくうねっている。マスト状態のゾウは酔っぱらっているようだという話もあるが、その鼻の動きは酔拳にも似ていた。とらえどころがなく、それでいて力強くトラの動きを制限しようとしている。
両者がぶつかる一瞬が訪れようとしていた。
ひとつ、もしくは、ふたつの命が散ろうかというその直前。
ノニノエノは檻の操作盤に駆け寄っていた。
自分の力ではどうしようもないという自覚。助けがいる。ふたりを止めれるぐらい強い力。大自然の力。それが、この研究所には封じ込められている。解放する。それしかなかった。
操作方法は分からなかった。だから滅茶苦茶に触りまくる。
次々に、檻から生命の息吹が溢れた。
跳ね上げ式になっている檻の正面の仕切りが、機械の駆動音と共に持ち上がっていく。
子供がタンスの引き出しを無作為に引っ張ったように、檻の口が開けられると、なにが起きたのかと怪訝そうな顔をした半人たちが、色とりどりの顔を覗かせた。調光機能のスモーク処理が施された壁によって隠されていた向こう側。いまやっと外の事態を知る。鼻で嗅ぎ、耳で聞いて、それぞれに心に衝撃を走らせる。
死のにおいをまとって倒れる飼育員たち。争う猛獣。トラとゾウ。
誰もが身をすくませ、一歩踏み出せば得られる自由の空気を吸うこともせず、檻のなかから外の様子を用心深く窺った。
トラの精神は向かってくる子ゾウに集中しながらも、その片隅で檻が開かれていくのを意識していた。
馬鹿なことを、と考える。アジアゾウの檻も開いている。ゾウ女が飛び出してくるのを振動で感じた。けれどトラに比べれば鈍重な動き。トラと子ゾウの衝突を妨げるには間に合わない。ゾウ女が解き放たれても、マストで興奮状態にある子ゾウは見向きもしない。マストは発情期などとは違う、オスのゾウが持つ異質な体質。
――メスをあてがったとして治まるわけじゃない。周りが見えていない。こんな奴は邪魔だ。不要だ。ここで、仕留めておくべきだ
と、冷めた気持ちでレョルは 心の天秤をトラと人間の狭間で行ったり来たりさせながら、目前に迫る子ゾウを見据えていた。
動物としての強さの頂にいるトラとゾウ。
哺乳類の最高傑作と言っていい二頭。
そこに到達しようとしている半人。
誰も止めることのできない戦い。
そのはずだった。
が、二頭の戦いに悠々と割り込んできた動物がいた。
積み上げられた檻の最上段の特別檻。開かれた扉から軽やかに滑り出て、下段で開けられている檻の蓋を足場にして、あっという間に地上に到達。二頭のあいだに割って入り、子ゾウを尻尾で、トラを頭突きでいとも簡単に吹き飛ばした。
子供の喧嘩を仲裁するようなあっけなさ。実際に片方はまだ子供ではあったが、子供とはいえゾウの力を秘めた半人。同列には語れない。
机の端に衝突して倒れたラアの元にアジアゾウの半人が駆け寄る。目を回している小さな体を前におろおろと長鼻を踊らせる。ノニノエノもラアのそばへ。目立った外傷は見当たらない。命には別状がなさそうなので、ひとまず胸をなでおろす。
レョルは吹き飛ばされたものの、体勢を整えて机に着地していた。
「こんな奴が、いたとは……!」
四肢で伏せた体勢から、割り込んできた動物をすくいあげるように見る。
体高は人間としてのレョルと同程度だが、頭から尻尾の先までの体長は優にその倍以上。
完全なる動物。
人を失った、半人。
肉体が変化する到達点に至った、至人。
鱗に被われた体。哺乳類ではない。爬虫類。
後肢をまっすぐに地につけて、二本足ですっくと立った前傾姿勢。前肢は折り畳むようにして垂れ下げている。三本指には巨大な鉤爪。口にぞろりと並んだ凶悪な牙。ほっそりした体形と、がっしりとした頭蓋の形。眼窩から放たれる鋭い眼差しの奥底には知性の輝きも宿している。
それは、恐竜、という動物であった。
ヴェロキラプトル。
恐るべき動物。




