▽こんこん11-4 トラの元へ
十分に用心しながら研究所を進む。そうしながらノニノエノとラアは途切れない血の跡に眉をひそめていた。
「どうやらトラが暴れたみたいだな」と、ノニノエノ。
「そうみたいですね。トラってあの”トラ”なんでしょうか」
ベンガルトラ。ピュシスでトラの群れを率いていた。
「違うんじゃないか。俺はトラ人間に心当たりがあるんだ。すこし前に調査していてね」
ずいぶん前。第二衛星が丸く輝く夜に、トラを見つけた。それから尾行を重ね、トラ人間がこの場所を訪れていたのをきっかけに、ノニノエノは研究所のことを知ったのだ。トラ人間は冠をはめていなかった。冠がなければピュシスにログインすることはできないはず。トラ人間が現実世界で行動しているあいだにも、トラがピュシスで活動していたのは聞いている。なんたって、そのときピュシス会議が開かれていたのだから。
歩きながらノニノエノが説明すると、ラアはゾウ鼻から長い息をはいて、
「他のトラなのかな」
「セイウチだったりして」
ノニノエノが高まり続ける緊張に耐えかねてそんなことを言うと、
「それならもっと深い傷ですよ」と、冷静に返されて、
「ベンガルトラがピュシスに二頭いたのかもしれないし、ベンガルトラ以外にもトラの亜種はいっぱいいるでしょ。トラ種最大のアムールトラ。そのアムールトラと近縁で、ひと回りちいさいインドシナトラ。はっきりとした縞模様と首筋のふっさりした毛が特徴のスマトラトラ」
「詳しいな」
「動物が好きなんです」
「俺もだ。けど、どれもピュシスでは見たことないぞ」
「ソロプレイヤーなのかもしれません。トラはひとりでもピュシスで生きていけるぐらいには強いですから」
「君みたいに?」
アフリカゾウはソロプレイヤー歴が長いはず。
「僕は……」
沈黙。通路が冷たい。研究所の内部は複雑だったが、道に迷うことはなかった。開いている扉が向かうべき方向だ。動物の嗅覚がふたりを誘う。草食動物が行ってはならない場所へ。肉食動物の元へ。
「……そういえばゾウくんはどうしてロロシーちゃんを?」
助けにきた理由を聞いていなかった。甘酸っぱい感じの理由だろうか、とノニノエノは想像をふくらませる。
「えっ? ああ。違うんです」
「違う?」
「僕がここに来たのはアジアゾウを助けるためです」
「そのアジアゾウはロロシーちゃんじゃない?」
「あり得ません」
ロロシーがなんの動物なのか、ラアは知らなかったが、ネコ科らしいという噂は聞いていた。
「そうなのか」
どうにもちぐはぐなノニノエノの知識に、ラアはすわりの悪さを感じる。なにか勘違いしているのは明らか。そもそもロロシーはガラクタ広場にいるはず。この研究所にはいない。
ノニノエノに教えるべきか、ラアは迷う。
ロロシーについて教えるということは、ガラクタ広場のことを教えることにもなる。ノニノエノの角の伸び具合からして、半人化が進行しはじめたのは最近のことだろう。ガラクタ広場の住民ではない。だから妙な勘違いをしている。ガラクタ広場にすこしでもいたなら、目立つロロシーの存在を知らないわけがない。
「探偵さんはどうしてロロシーを?」
「ええっとだな、それは……」
ノニノエノは今更ながら、探偵としての口の堅さを思い出した。
「探偵さんはいつ半人になっているのを自覚したんですか」
「半人?」
首が右に左に傾げられる。ラアはノニノエノに半人について簡単な説明をしてから、
「ロロシーがなんの半人かも知らないんですよね」
「そうなんだ。声を聞いたぐらいで。研究所の外の壁越しに。考えてみたら俺もその半人化っていうので耳がよくなってるから、あのとき壁越しなんかで会話できたんだなあ」
「よくそれでロロシーって分かりましたね」
「本人がロロシーだって名乗ったんだ。助けを求めていた」
「名乗った?」
その時のいきさつは知らないが、ラアには嘘だと分かる。
「そう。それから、鳴き声みたいなのも聞こえた気がする。トランペットを思いっきり鳴らしたみたいな」
「それって……」
ラアはゾウの嘶き声を控え目に鳴らしてみせた。パオーン。
「ああ、似てたかも。……あれ?」
考え込むノニノエノを、ラアは「急ぎましょう」と、せかした。
「トラがいたらどうする」
まだ血は温かい。足跡は奥に向かっている。いたら、ではなく確実に、いる。
そこにはきっと他の半人たちも。飼育室、という案内板がその場所を示しているのだ。
「まずは対話じゃないですか」
「そうだな」
研究所のこの凄惨な有様を作り出した張本人である大量殺人鬼と、まずは対話、だなんて、おかしな話だ。けど殺人鬼は異常者だと思っても、殺人トラが異常者だとは思えなかった。トラが獲物を殺すのは自然なことだ。
ノニノエノはピュシスに馴染み過ぎたのか、頭がおかしくなったのか、トラと交渉する余地は十分にあるのではないかと考えていた。トラがなにを考えてここを襲撃したのかは知らないが、案外、同じ目的かもしれない。尾行していたとき、路地の奥で身を丸めて、トラ人間はロロシーの名前をこぼすことがあった。ロロシーを助けようとしているのかもしれない。なら協力できる、はず。
「ゾウと話が通じるんなら、トラとも通じるよな」
うなずきながらひとりごちる。けれど、
「草食と肉食を同じだと思わない方がいいですよ」
と、出鼻をあっさりとくじかれてしまった。
「もし話が通じなくても、僕がいるから大丈夫」
言いながらラアが前を歩く。小さく、大きい背中。
本当に大丈夫だと思えるから不思議だ、とノニノエノは思った。ゾウの安心感。でも子ゾウだ。大人の自分があんまり情けなくてもいけない。かといって、この伸びかけのブラックバックの角では、トラ人間に太刀打ちできるとは思えない。いざとなったらそこらへんに落ちている手術器具だとか、持参した静音ドリルでも構えて戦うしかない。
トラの足跡。靴跡じゃない。ゾウ人間と同じく足まで変形している。ノニノエノはまだそこまでにはなっていない。
薄い血だまりに残った肉球の形がはっきり分かる。肉球には様々な役割がある。衝撃をやわらげる、滑り止め、足音を消す、ほかに体温調節などの機能も。人間にはない器官だ。肉球ならイヌにもあるが、この足跡には爪の跡がない。イヌとは違い、ネコは爪を引っ込めることができる。だから爪の跡が残らないのだ。やはり、間違いなくトラだ、という確信。
通路を巡った先で、いかにも厳重な扉が、あまりにも無防備に口を開けて、ノニノエノとラアを迎えた。
その向こうには檻。動物たち、植物たち、半人たちをおさめる檻。
そして、そこではトラ人間が、黄色と黒の縞に染まった髪に血の一色を加えて、檻に向かって声を荒げていた。