▽こんこん11-2 探偵と子ゾウ
探偵ノニノエノは研究所に忍び込もうと四苦八苦していたが、突如感じた異様な気配にふり向いた。
おう、と叫びそうになって堪える。
ゾウがこちらに歩いてくる。ゾウ人間。顔の真ん中から生えた、腕のように長い鼻がぶらぶらと揺れている。鼻先の形を見て、それがアフリカゾウだと分かった。アジアゾウは鼻先の上にだけ突起があり、アフリカゾウには鼻先の上下に突起がある。その違いで判別できるのだ。
逃げようとして荷物を蹴飛ばしてしまう。散乱した秘密道具たちをすぐに拾い集めてカバンに押し込む。探知機もろもろに、電子ロック開錠用の操作パネル、各種ピッキングツール、静音電動ドリルなどなど。全て借り物。古い知り合いに泣きついて一日だけという条件で借りている。こういったものを使い慣れている怖い奴。失くしたときはとんでもないことになる。
カバンを抱えて走りだそうとして、逃げ場がないという当たり前のことに気がついた。
とっかかりのない研究所のまっさらな壁を見る。その反対側は高いフェンスだ。一本道の片方から子供ぐらいの大きさのゾウ人間がくる。逆方向に進んだ先は行き止まり。
――フェンスを上るか?
向こう側は未開発地区。見上げる。フェンスの上部にはトゲつきの返し。刺さったら痛そうだ。乗り越えられそうにない。
ゾウ人間が近づいてくる。
すれ違うのが精いっぱいの道幅だが、全力で走れば横をすり抜けられるかもしれない。動物全体でも抜きん出たブラックバックの走力をいまこそ活かすときか。
――いやいや、なんで逃げることばっかり考えてるんだ俺は。
今日は俺がヒーローになる記念すべき日のはず。この研究所に捕まっているロロシーを助けて、ソニナの元に連れ帰るという重大な任務を帯びているのだ。ふたりの再会を満足げに眺めた俺は、あわよくばソニナに好意を伝えて……、いや、その場は颯爽と立ち去ったほうが印象に残るか。それからしばらくして、後日、偶然出会ったふたりは……、おいおい、体は逃げてないが、心が逃げてるぞ。まったく、心の方はブラックバックより逃げ足が速いじゃないか。一目散に明後日の方へいっちまってる。ああ、もう目の前だ。目の前にゾウの鼻が……。
ノニノエノは抱えていたカバンを置いて、屈んでいた体勢からすっくと立ちあがると、余裕な態度を装いながらコートの襟を正した。おほん、と咳払いをして、その咳払いでだれかに見つかったりしないかびくついてから、もう一度襟を正す。
ゾウ人間はやはり子供ぐらいのサイズ。こちらをじっと見上げている。鼻先が探るように向けられて、俺を嗅ぎまわっている。この鼻で殴られただけで俺は死ぬ。ゾウの鼻というのは人間の全身の筋肉を合わせた百五十倍以上の筋肉の塊なのだ。殴られた俺の体はフェンスを突き破るか、それとも頭が胴とオサラバするか。
ノニノエノはおもむろに、ドリルみたいなリーゼントに乗せている中折れ帽を手に取った。会釈する。相手に頭が見える角度で。命乞い。同類だというアピール。ネジのように巻いているブラックバックの角は、まだ人差し指ぐらいの長さしかないが、髪の毛を突き破って、それと見て分かるぐらいには主張している。生まれたばかりのリーゼントの子供たち。
「おじさんだれ?」
ゾウ人間の声があまりに無造作だったので、慌てて「シッ」と指先を口に当て、
「見つかっちゃマズイ」
「このぐらいで見つかるならもう見つかってるよ」
――そうか? ホントにそうか?
しかし、この場所で裏口を探して結構な時間足止めされているが、不気味なぐらいになんの反応もない。
「とにかく静かにしてくれ」
頼み込むと「うん」と、素直なうなずき。
とりあえず敵意はなさそうなことにホッとすると、顔を寄せて声をひそめる。
「俺は探偵だ。君はだれだ?」
近くで見るゾウの鼻はかなり怖い。突然、殴られたらどうしよう。
「ぼくはアフリカゾウ」
それは鼻先を見て分かっていた。けど、あの”アフリカゾウ”なんだろうか。ピュシスにいたプレイヤーの。あれは変な喋り方をしていたから大人だと思っていた。俺の分析では極端なRPは過酷な仕事などからくる現実逃避。けれどこの場合は子供の変身願望だったということだろうか。
「君は……」
ここにいる目的をたずねようとしたところ、
「おじさんは?」
と、割り込まれた。
「いや、さっき言ったろ。俺は探偵だ」
「そうじゃなくて」
ゾウ人間は自分の鼻を指差す。そして指先を俺の角へ。なんの動物か聞きたいらしい。言っていいのか迷うが、ねじねじの角は特徴的だから、すでに草食動物、ウシ科、レイヨウのなにか、ぐらいは絞り込まれていそうだ。
――まあいいか。
あの”アフリカゾウ”ならピュシスで話したことがある。ライオンの群れと戦う直前、トラの群れに一緒に在籍していた一瞬。
「ブラックバックだ。話したことある、よな? あのアフリカゾウだよな?」
「あー」と、なにか納得したように小刻みにうなずいて、
「なにしてたんですか」
こっちの台詞だ、と、言いたいが、ぐっと我慢。
「いいか、よく聞いてくれよ。俺は正義の探偵なんだ。ここにお姫さまが捕まってるから、それを助けにきたんだ」
「お姫さま?」
「そうだロロシーっていう」
名前を言ってしまってから、マズイかな、と口をつぐむと、ゾウ人間は、
「ロロシー?」
と、首をかしげて、ゾウ鼻で頭をかきながら、
「ロロシーの知り合いなんですか?」
おっと、これは、
「君はその。友達、だったり? したりするのかな」
「……そう、かな」
「じゃあ君も助けに?」
まっ平らな壁に指先を向けてたずねる。子ゾウは黙りこくってしまった。まだ信頼関係を築くには早いようだ。
「一緒にいくか?」
聞いてみる。ゾウの鼻先が逡巡して、やがてうなずく。
顎に手を当ててゾウ人間を眺める。落ち着いた子だ。邪魔にはならないだろう。俺と同じくこの施設に用があるらしい。なら、協力するのが効率的。バラバラに潜入して、子供をひとりにさせるのも心配だ。懸念点があるとすれば、これが犯罪行為だということ。不法侵入。警備に見つかったら怪我をする怖れもある。子供は帰れというのが大人の役割だろう。率先して巻き込むなんて、とても褒められたものじゃない。
けど、正直なところ、ほんのちょっぴり、ひとりじゃきついかもしれないと思っていたところだ。アフリカゾウが味方だなんて、これほど心強いことはない。ライオンの群れと戦ったあの時も、負ける気がしなかった。これは天の采配と受け止めよう。あまりごたごたしている時間もないんだ。直感に従え。ピュシスで鍛えた野生の勘を使うんだ。即断即決。決めたらやる。いまはそれっきゃない。やるぞ。