▽こんこん11-1 研究所に行くゾウ
時刻は太陽の模造品である第一衛星が昇ってしばらくした頃。機械惑星の地表が暗くはないだけの明るさに照らされ、早朝をほんのすこし通り過ぎていた。
人影ひとつ落ちていない透き通った灰色の街中を、一頭のゾウ人間が歩く。
アフリカゾウの半人のゴャラーム。人間の世界を捨てて以来はラアとしか名乗っていない。もしくはアフリカゾウとしか。
動物化は肉体の奥深くにまで切り込んでいたが、まだかろうじて二足歩行。長く伸びた鼻をマフラーのように首に巻いて、街中を歩くときはフードとマスクで隠している。ローブの下の肌はごわごわとひび割れて、四肢は太く、柱のようになってきた。指は短くなり、爪は蹄に近づいている。体は大きくなってきたが、身長はちいさいまま。さながらふくらんだ風船だ。空気の代わりにはりつめているゾウの筋肉が、いまにも皮膚を破って破裂寸前というところでとどまっている。擬人化されたゾウのキャラクターと言えばまだ聞こえはいいかもしれないが、一切のデフォルメがないその姿は愛らしさのかけらもなく、ただただグロテスクであった。ゾウのほうが近しく思えるその形態は、擬人化ではなく擬ゾウ化と表現する方が正しい。
惑星コンピューターの休養日だけあって、人間たちは行儀よく自宅謹慎を受け入れている。なるべくデータをかさませないように、おとなしくしているのだ。この日は絶対にカリスの邪魔をしてはいけないと、いまの機械惑星の住民たちの頭には幼少の頃から叩き込まれている。個人端末である冠の機能も今日は強制的に制限されるが、それに不満をこぼすものはいない。人間たちが従順にしているあいだにカリスは一年分のデータを整理して、分類し、時に修正を加え、削除し、次の一年に備える。休養日とは名ばかりで、カリスが一番忙しい日であった。
病院のそばを通りがかったラアは、不意にかつての友人ルルィのことを思い出した。もう人間世界に未練などないはずだが、こびりついた記憶は確固として現在に結びついており、消し去ることなどできやしない。ルルィやネポネといった特に仲が良かった友人たち、それに家族のこと、人間たち。
そう言えば、この病院にルルイの弟が入院していたはず。名前は、たしか、トセェッドだったか。ルルィが相当まいっていた時にふと口に上らせたのだ。いつも能天気そうにしている彼がそれを表に出したという事実だけで、かなりひどい病状なのだろうということがうかがえた。聞いたのはその一度だけ。そのあと、詳しくたずねようとはしなかった。
病院の横を通り過ぎる。
コンピューターたちがカリスの手伝いに出払っていても、病院は正常に機能できているのだろうか。カリスの休養日には自宅謹慎が徹底されているが、いくつかの職種は例外として通常勤務することになっている。医者もそのひとつ。けれど、人間だけで、どこまで対応できるのか。
どこまで対応できるのか、という考えをラアは打ち消して、なにがあろうと対応してもらわなければ困る、と思った。
しないといけないし、できないといけない。
人間とカリスの関係は依存だ。カリスに対する一方的な人間の依存。社会のはぐれ者になってラアはそれを強く感じていた。
依存は自立を妨げる。
依存ではなく利用による自己能力の拡張だ、と反論されるかもしれない。対象が道具ならそれも通じる。けれど、惑星コンピューターや機械衛星たちは、ただの道具ではないように思えてならない。ヲヌーを見ているとそれがよく分かる。ヲヌーの第二衛星への入れ込みっぷりには、単なる呪物崇拝やアニミズムを超えたなにかがあった。
足元を見る。灰色の道路。そのずっとずっと下、深い深い地の底。機械惑星の核に惑星コンピューターは組み込まれている。
視線の先。道路の上ではラアが羽織っているローブがゆらゆらと揺れる影を作っていた。半人の多くは変化してしまった体形を隠すために似たようなローブをまとっている。そもそも体形が合わなくなり、既存の服の多くが着れなくなるので、体に巻くだけでいいローブが衣服としては楽だ。本物の動植物に成り果てるなら、裸で過ごせばいいのだろうが、まだ、そこまでは踏ん切りがついていない。裸では肌寒さもある。
足を踏み出すたびに、垂れたローブの端から覗くつま先は裸足。足の形が変形したので靴が履けなくなってしまった。日々ゾウに近づいている体重と筋力。強く踏み出すと地響きが起きてしまいそうなので、できるだけ静かに、道路を優しく踏み締める。足裏の皮が厚くなっているので、裸足でも足を痛めることはない。
顔を上げると目的地はもうすぐそこ。
灰色の岩塊のような建物たち。オフィス地区の、とりわけひっそりと奥まった場所。顔のない威圧的な灰色のビル群が身を寄せ合う最奥。未開発地区一歩手前。
そこに、研究所があった。
研究所の正確な名称は分からない。分からないから研究所とだけ呼ばれている。なんの表札も掲げられていない、岩をカットして置いただけのような、無骨で人の気配のない建物。その建物に大量の半人が囚われている。警察機構に捕まって、日夜、研究解析が行われている実験動植物たち。
そのなかにはラアの探し人、いや探しゾウがいる。ピュシスで別れたきりになっているアジアゾウ。ラアがゾウとしての生きるために必要な魂の片割れ。
でっぱりひとつない滑らかな建物の壁に近寄ると、偽冠が動かなくなった。ガラクタ広場の博士にもらった冠の模造品。第二衛星の協力で他のコンピューターたちからは秘密裏に通信をして、冠と同等の機能を発揮できる、とヲヌーは説明していた。第一衛星が昇っているあいだ、第二衛星は機械惑星の裏側にある。それに未開発地区が近いこともあって、通信可能範囲から出てしまったのかもしれない。もしくは、この研究所から妨害電波が出ているのかも。公にされることのない研究。そのぐらいはあって当然だろう。
偽冠を外す。もういらない。こんなもの。と、捨てようとして、踏みとどまる。ローブの裏地にあるポケットにしまう。
ヲヌーは第二衛星の支配の元での自然を求めているようだったが、ラアは違った。自然が自然にあるがままの自然がいい。
壁を伝いながら考える。研究員たちも医者と同じように出勤しているだろうか。生き物を取り扱っているのだ。無人ではないだろう。それとも、飼育用の設定がされたオートマタだけ、とか。
入ってみれば分かること。ラアはどこが入口かも判然としない建物の、道路側から見て裏の方へと回ろうとした。
そうして、直角に尖った角を曲がろうとした直前、ゾウの嗅覚が、そこにいる誰かのにおいを捉えた。
壁に当てた手に意識を集中させる。振動となった音を拾い上げる。足裏で音を感知できるゾウの能力。こそこそと、工具を操る音がする。
フードを外し、マスクをとって首に巻いていた鼻を露出させる。上唇と一体化して伸びている鼻は腕ぐらいの長さ。半人化を自覚したときに、まっさきに変化したのがここだった。それからずっと顕著な変化を続けている。顔から腕が生えているような見た目は、ゾウを知らない者からしたら怪物にしか映らないだろう。ピュシスでゾウの姿を見慣れているラア本人ですら、慣れるのには時間がかかった。
角から鼻先だけを出して、裏で起きていることをにおいで探る。イヌの倍以上に優れたゾウの嗅覚。
施設の職員だろうか。にしては施設の外でぐずぐずとなにをやっているのか。
――違う。
職員ではない。科学者のにおいというのは特徴的。いくら消臭していても化学薬品のにおいや、そもそも消臭剤そのもののにおいが残っているもの。謎の人物からは、形容するならスラムの香りがした。整理整頓されていない乱雑な香り。しかも香りのなかには獣臭も混じっている。ガラクタ広場で幾度となく嗅いだ草食動物のにおい。どことなくカヅッチのものと似ている。
――半人だ。
薄く顔を出して目視。ドリルみたいな変なリーゼントヘアの上に中折れ帽をかぶった知らないおじさん。すくなくともガラクタ広場の住民ではない。地面に置いたカバンに手を突っ込んで、なにかの器具を出して壁に当てては、しまって、次の器具を取り出してまた当てている。
――入口を探してる?
研究所に忍び込もうとしている風にしか見えない。
自分以外にも同じ目的の者がいたのだろうか、つまり、捕まった半人の同胞を開放したい、というたぐいの意気込みを持った者が。
ラアはこの半人に対してどういう態度をとるべきか考える。
――協力できるかな、それとも……。
人間のゴャラームなら不測を怖れて接触を避ける。だがアフリカゾウにとって、なにを怖れることがあろうか。
ラアは陰から滑り出て、建物の壁と、すこし距離をあけて立てられたフェンスのあいだの細い道を堂々と歩いた。鼻を隠すこともせずに、自身の正体をはっきりと誇示して。