●ぽんぽこ11-5 トムソンガゼルとシフゾウ
トムソンガゼルはヘラジカの終わらない演説を中座して、一応はまだ続いている群れ戦の状況を確認するべく、夜の縄張りをひとり、ひた走っていた。
星が梢を透かして密林の足元に針でついたような光を落としている。時折、地面に鼻を向けてにおいを確認しながら、荒々しく刻まれた足跡を辿っていく。その先が戦場となっていた場所。
攻め入ってきたラーテルの群れに所属するものたちは全て倒した。こちらは防衛側なので時間切れまで本拠地を守り切るのが勝利条件ではあるが、攻めてくる者がいなくなれば、もはや敗北しようがない。
体力が尽きて死体状態になったプレイヤーたちが、山の裾野に何体も転がっている。味方のものもあるが、ほとんどは敵のもの。
死んだふりなどしている者がいないか一体一体確認する。それから増援がないか鼻と耳を研ぎ澄ませた。
死臭、そして、静寂。
いまは死だけが、密林を支配していた。
この戦の決着はついている。確実に終戦している。
敵はとにかく頭数が多かった。ラーテルの群れは、小動物を中心とした集まり。カピバラの齧歯類の群れよりはさすがに少ないが、齧歯類よりも力で勝るイタチ科が多く所属しており、厄介さでは上回る。
特に警戒が必要だったのがスカンク。スカンクが放つ悪臭はスポーツドーム六十個分ほどの範囲で嗅ぎとれるほど強烈。鼻が利く草食動物たちにはたまらない。この悪臭は尻から発射されるので、屁などと勘違いしている者もいるが、その正体は肛門の両脇にある臭腺から発射される分泌液。液は揮発性で、目に入れば失明し、浴びてしまった場合、水浴びしようが泥浴びしようが悪臭は消えない。ピュシスなら戦が終わると同時にすべての状態がリフレッシュされるが、これがなかった場合のことなど想像もしたくない。
ユキヒョウと沙羅双樹のコンビが神聖スキルをうまく使って、発射される前に仕留めたが、表彰ものの活躍だったといえる。
それからなんといっても長のラーテルがしぶとかった。柔軟かつ硬さがある防御力の高い皮の装甲を持ち、コブラの毒すら効かないという毒耐性。鋭い鉤爪と、一度噛みついたものは離さない強靭な顎の力。スカンクほどではないが臭腺による悪臭も武器として持っている。加えて、恐れ知らずの果敢な攻め。
そして、ラーテルと共に攻めてきたクズリ。このクズリがまたラーテルにも匹敵する強敵。
クズリはウルヴァリンとも呼ばれるイタチ科の中型肉食動物。ラーテルよりもひと回り大きく、イタチ科最強の呼び声もある。イタチというよりクマに似た外見をしており、褐色の毛衣に包まれた体はがっしりしていて、イタチにしては長めの四肢に、鋭い犬歯と爪を持つ。気性はラーテルにも負けず劣らず荒く獰猛。自分より体格の大きな相手にもまったく怖れることなく立ち向かう。
このラーテルとクズリによる無謀無策の強引な強硬突撃にはかなり手を焼かされた。
そんな相手を打ち倒すため、ヘラジカは一致団結を呼びかけ、草食動物たちは身を寄せ合って戦った。言葉通り、ひとかたまりになったのだ。
草食動物の武器はなんといってもその質量。肉食動物よりも大きな体。多種多様な草食動物が森を埋めるほどに集まり、暴れ回るラーテルとクズリ、そしてそれに従うプレイヤーたちを密林ごと踏み潰し、相性など構わずに蹴散らした。
あとに残ったのはイナゴに食い荒らされたような寒々しい景観と、敵の死体の山だけ。
その時の皆の嘶きが耳の奥で蘇るような壮絶な戦場跡にトムソンガゼルが足を踏み入れる。
見回し、小さな違和感を覚えた。
なにかが足りない。欠けている。
死体の数が、合わない気がする。
確認し、確信する。
やはり、散らばっていた敵プレイヤーの死体が減っている。それどころか仲間の死体すらいくつか見当たらなくなっている。
ゾンビでもあるまいし、当然ながら体力が尽きれば動き回ることなどできない。戦が終わるまでは身動きできない死亡状態に固定される。ログアウトだけはできるが、戦中に死亡状態でログアウトすると、戦が終わるまでは再ログインはできなくなる。死んだらすぐログアウトしてしまうプレイヤーもわずかにいるとはいえ、戦が終わるのをゲーム内で待つというのがピュシスの通例。試合を抜け出すプレイヤーがこんなにも多いというのは考えにくい。
――通信切断?
にしては、死体だけというのはおかしい。
バグか、それとも意図された動作なのか判断できない。これもオートマタの大発生と同じくゲームシステムとして組み込まれているなにかなのかもしれない。と、考えるが、考えても到底分かるようなことではなかった。ログアウトしてしまったプレイヤーが戻ってきてから、なにがあったか聞けばいい。
ふう、と一息ついて戦場跡から離れた場所に腰を下ろす。
戦いの最中なのに戦いが終わってしまった中途半端な状況。
ふいにトムソンガゼルは寂寞とした思いに駆られた。けれどすぐに色づいた場所へと心が向かいだす。
この勝利により一歩前に進んだ。優勝を勝ち取り、敵性NPCを始末して、最深部へと赴き、ピュシスをクリアする。
トムソンガゼルの願いは草食動物が支配する世の中。本当に望みが叶うというなら、トムソンガゼルは肉食動物の肉体を生み出さないように願う。半人化には、ゲーム内の肉体が反映されている。つまりゲーム内に肉食動物がいなくなれば、それすなわち現実での半人の社会に肉食動物がいなくなることと同義。ついでに肉食動物になるはずだったプレイヤーを植物族にしてもらえれば、草食動物が飢える心配もなくなるだろう。
機械惑星が緑と草食動物で溢れた豊かな世界へと変わっていく。肉食はおらず、皆が健やかに生を満喫できる理想の世界。
と、想像の翼を広げはじめたトムソンガゼルの心が、急に水を浴びせかけられたように冷え込んだ。
シフゾウの陰気な顔が思い浮かぶ。
シフゾウ。四不象。スー・プー・シャンとも呼ばれる、シカだか、ラクダだか、ウシだか、ロバだか、はっきりせず、いずれの特徴も持つ優柔不断な肉体のプレイヤー。
いつの間にか群れからいなくなっていた。それ自体はよくあること。このゲームの群れシステムは、入るのには許可がいるが、出ていくのは個々の自由。しかし、ふらりと消える前、シフゾウが言った言葉が、トムソンガゼルの心にトゲのように引っかかっていた。
――肉食動物は必要ですよ。
自分は草食動物のくせをして、そんなことを言っていた。
トムソンガゼルの望みを知っていたわけではない。ヘラジカの語る未来に向けた発言だった。演説を聞きに集まっていたプレイヤーたちの後方で、斜に構えたその態度には気に入らないものがあった。
なんのために、と隣にいたトムソンガゼルが聞いてみると、いなければどうやって動物が死ぬんですか、と返された。
そんなもの、いくらでも考えられる。事故だとか、老衰だとか、病気だとか。
――人間みたいな死に方ですね。
と、シフゾウは目元をひくつかせた。それは笑ったようにも、眉をしかめたようにも見えた。
なにを気にしているのか分からないが、死なんてものは平等に訪れるだけ。草食動物の仲間たちが伸び伸びと生きられるかどうかが一番の問題であり、生きる過程を剥奪してくる肉食動物など百害あって一利なしの存在でしかない、とトムソンガゼルは思っていた。
人間みたいな死に方のなにかいけないのか、と言ってやると、別に、と、そっけなく顔がそらされて、シフゾウはいずこかへと去っていった。その会話は理解できない出来事としてトムソンガゼルの脳裏になんだか妙に引っかかっていた。
しかし、いま考えて、気づいたことがあった。
トムソンガゼルが見据えているのは生き方。だがシフゾウはずっと死に方を見つめていたのだ。それがかみ合わなかった。そんな風に思える。
群れを脱退して出ていったらしいが、それが正解だろう。なんだか影があって、活力の満ちたところは肌に合わないという雰囲気だった。今頃は、名もない萎びたキュウリのような群れにでも所属しているか、動物のように野垂れ死んで、消滅しているのかもしれない。消滅しているなら半人になっていることだろう。そうしたら、草食にとっての理想の世界にわずかでも唾を吐きかけたことを後悔しているはず。
と、そんなことを考えて、トムソンガゼルが留飲を下げていると、仮想の感覚を貫通して、現実の痛覚が伝わってきた。
――頭が痛い。
半人化が進行して、角が成長しているのだ。
世界の変革に間に合えばいいんだが、とトムソンガゼルはぽつりと空に視線を落とす。星がキラキラと輝いている。雲ひとつない美しい夜空だった。
――急がなければ。
気ばかりが前へと走り出すが、時間は等速でしか進みはしない。順序を段飛ばしにすることなどできやしない。
今日は妙に痛みが長引く。しかし、この痛みは生きている証拠だと言える。死んだら痛みは感じない。この痛みを感じなくなる前に、世界が行きつく先を、自分がやり遂げた結果を、ひと目いいから見たいものだと、トムソンガゼルは星に願うばかりだった。