●ぽんぽこ11-4 ヘラジカの群れ
「同志たちよ! よくぞやった!」
群れ戦の最中。防衛側であるヘラジカの群れの縄張りでは、終了時間はまだずっと先だというのに早くも長のヘラジカによる勝利宣言が行われていた。
「すべての敵を殲滅し尽くし、ここに雌雄は決した。すでに我々の勝利は確定している……」
かつてはベンガルトラが治めていた密林山地。みっつの山の尾根が交わる、秘境めいた緑のかたまりがその本拠地。清水が湧き出る泉のそばに群れの面々が並び、幅の広い岩に乗ったヘラジカの元で熱い視線が交わった。
泉には欠けた月が浮かび、ヘラジカの巨大な角が作り出す積乱雲のような影が仲間たちの顔に覆いかぶさる。その角はヘラジカの名の通り、平たく伸びた大きなヘラ型をしていて、さらにヘラ部分の縁からは太い棒状の角がいくつも伸びている。形状としてはハエトリグサの口のよう。角の差し渡しは人間の大人ひとり分の身長を優に越えるという超巨大サイズ。
それを支える体躯も立派。ヘラジカはシカ科最大種であり、その大きさは圧巻。シカ科で二番目に大きなワピチでもウマほどはあるが、ヘラジカはそれよりさらにふた回りほどは大きい。そして、ワピチがヒグマを返り討ちにするぐらいの強さと言うのだから、ヘラジカの強さは言うに及ばす。濃褐色の毛衣のつつまれた肉体の隅々から強い圧力が発散されているようであった。
草食動物の頂点に立つにふさわしいと思わせられる、威風堂々たる姿。
滔々とトーナメントの展望、さらにその先の未来について語る長の両脇には、凛として涼やかな態度のトムソンガゼルと、しかめつらしく厳しい表情をしたユキヒョウ。ふたりがいまのこの群れの副長。
集まっている仲間たちには黒大牛ガウル、大山羊マーコール、それに鎧のような体をしたインドサイなど、そうそうたる草食動物たちが立ち並び、ヘラジカの雄々しい角を見上げて、その話に耳を傾けている。
厳粛さが張り詰めた、かつての群れとは打って変わった雰囲気。
そんな空気のなかに置かれた数少ない肉食動物であるユキヒョウは、心のなかで深い深い溜息をついていた。
――なんでこんなことになってしまったんだか。
誰に聞けばいいのかも分からない質問を、溜息と共に心中の虚空に向かって投げかける。
道化の王が支配する群れ。こんなに面白い劇場はないと思っていたら、いまや自分が舞台に上げられて、道化衣装を着させられている。
いまの自分はいわば草食動物たちを煽動するダシ。草食動物の立派な長に仕え従う肉食動物のエリート、ネコ科の大型動物というわけだ。草食優勢の群れであるという、これ以上ない宣伝効果だろう。
――くだらない見世物だ。
と、思いながらもしぶしぶと付き合っている自分も滑稽でたまらない。あんがい本心では楽しんでいるのか、と自分で自分が分からなくなるが、断じてそんなわけはない。
――トラは、どこに行った? 帰ってこないのか?
あれが一番のお気に入りの道化役者だった。常に気を張ってピリピリしている神経質な王様。触れると簡単に狂いだしそうな、そのむき出しの繊細さが好きだったのだ。とはいえ、そんな風にトラのことを評価していたのはユキヒョウぐらいで、他のほとんどの群れ員はトラのことは面倒くさい暴君だとしか見ていなかった。ただし、戦闘においてはとびぬけて秀でた能力を持った暴君。
トラは単に強いというだけでピュシス第二位の縄張りを持つぐらいに群れを大きくした。トップのライオンには常に敵わなかったが、それに対するあがきがまた、ユキヒョウを楽しませてくれた。
だから以前の群れ戦で本当にトラが勝ってしまった時などは、少々がっかりしてしまったぐらいだ。自分も参加し、勝つために戦ったとはいえ、トラには負けて欲しかった。我ながらひねくれているが、それが偽らざる本心。
歯牙にもかけないライオンの態度のせいか、ゴールを決めたのがイリエワニだったからか、あのあとなんだか勝利に納得していないという様子のトラもそれはそれで面白かったが。
ユキヒョウは横目で自分よりも遥かに図体のでかいヘラジカを見上げ、さらにその向こうで黒い帯模様を凛々しく伸ばしているトムソンガゼルに視線を向ける。
こいつはなかなか大したやつだ、と認めはする。しかしトムソンガゼルにトラのような面白みはない。ヘラジカにも。模範的すぎる。野生的ではない。どこか人間的なにおいを感じるのだ。つまらない奴ら。
トラは勝手にいなくなった。いつの間にか、気づいた時にはいなかった。それからマレーバクもだ。トラの後を追うように消えた。すると、長と副長のひとりの席が空いたことにより、自動的に残ったもうひとりの副長に長権限が譲渡された。
それはトムソンガゼルだ。トムソンガゼルが群れの長になった。
だがトムソンガゼルはそのまま群れを統治しようとはしなかった。まず、群れに所属する草食動物のなかで最近頭角を現していたヘラジカに長の権限をあっさりと渡し、自分は再び副長の座に納まった。それからその時にはトラが消えたなど知らなかったユキヒョウをもうひとりの副長に据えると、体制を整えたところで大々的に長の交代を宣伝しはじめた。
そこで語られたのはまさしく英雄譚。英雄による革命だった。
トムソンガゼルは好き放題に話をでっち上げ、鮮やかな手並みでヘラジカを群れの頂点として構成員たちに認めさせてしまった。ごたごたで群れを出ていった者もいたが、反面、噂を聞きつけて集まってきた者も多く、プラスマイナスだとプラスが大きい。
唯一そんな状況に反論ができるトラやマレーバクからはなんの音沙汰もなく邪魔する者はいなかった。変化は止まらない。ユキヒョウが事態に気がついた時には、もう身動きがとれなくなっていた。群れは草食動物にのみ込まれていた。こうなれば、肉食動物がなにを言っても負け犬の遠吠え。悪あがきの妄言だと取られてしまう。ユキヒョウはそんなみっともないまねをしてまで、状況を変えようとは思わなかった。
ユキヒョウは盛り上がる聴衆の声に耳を伏せる。
くだらない、とは思いながら、突如この舞台の主役に抜擢されたヘラジカの行く末に興味がないわけでもなかった。考えようによっては舞台における真の最前列というのは舞台の上だ。主役に最も近い位置で鑑賞するのも、なかなかオツなものかもしれない。
もし、このトーナメントに優勝できるなら、ヘラジカというプレイヤーは本物の器を持っていたということになる。
――が、そううまくいくものかな?
ヘラジカ、もしくはトムソンガゼルとしては、優勝して存在感を示したいところだろうが。どこまで成り上がれるものだか。
――せいぜい道化を演じて、盛り上げてやろうじゃないか。
登り詰めて、そこから絶望と共に転落するところを、ぜひ見てやりたいものだ。その時の表情を想像するだけでゾクゾクしてくる。
役に入れば不思議と不快感もなくなってきた。
喝采にも似た動物たちの鳴き声と、植物たちの葉擦れの音。
まだ第一回戦が終わったところ。見世物ははじまったばかり。こうなってしまったからには、たっぷりと楽しませてもらおう、とユキヒョウは黒い斑模様が雪のように散りばめられた白の毛衣を月明かりでつやめかせ、背筋をぐぐっと伸ばすと、めいいっぱい忠臣面をして見せた。