▽こんこん10-5 記憶の続き、人間、動物、機械
月の代わりの第二衛星が機械惑星の空に傾く頃。木陰で身を寄せ合う昆虫たちのように、みっつの影が夜にささやき合う。
ロロシーから半人について聞いてもリヒュはいささかの動揺も見せなかった。半人という言葉こそ知らなかったが、ピュシスが人間の肉体を変化させる事実はリヒュが以前から予想していたこと。ロロシーに噛まれたあの日、ロロシーの身に起きた変化をまざまざと見せられ、真っ先に思い浮かんだのがピュシスだった。人の動物化。植物にもなるらしいが。ピュシスは人間と動物を結びつける特異点となっている。さらに、動物化しているのがロロシーだけではない、というのも当然のこととして受け入れられた。リヒュは以前から、なにより自分自身に獣のような感覚が身についているのを感じていたのだ。
「おふたりの体は大丈夫なのですか?」
ロロシーがリヒュとソニナの全身を見比べる。すぐそれと分かるような変化はない。そうして視線を沿わせていたロロシーは「あっ」と、リヒュの首元に目を止めて、
「ごめんなさい」
と、深く頭を下げて謝罪した。スカーフで隠されてはいるが、そこには人工喉が組み込まれている。手術で一命をとりとめたというのは偽冠で検索したニュースによって知っていた。
「リヒュ。あなたを噛んだのは本当に申し訳なかったと思っています」
「いいんだ」リヒュは喉にそっと触れると、さりげない口調で「気にしないで。もうすっかり元通りだから。半人化っていうのも進んでない。さっきの話だと症状促進の一番大きな要因としてはピュシス内で|体力(HP)が尽きること、それから消滅を経験することなんでしょ。僕の場合あまり戦っていないからかな」
ロロシーはその言葉を思いやりと受け取ったが、リヒュは本心から噛まれたことを責める気はなかった。そして、自分の事よりも、ロロシーがソニナの体調に気を配っていることの方に興味が引かれていた。
「ソニナはどう? 体は大丈夫?」
「ええ。お気遣いありがとうございます。平気ですよ。わたくしがほとんど前線に出ないのはお嬢様もよくご存じでしょう」と、笑顔。
――知らないのか。
と、リヒュはロロシーを透かしてソニナを見る。オートマタの体が動物になるわけがない。いや。直接、問いただしたことはない。けれど、直感はある。彼女が、ソニナが、オートマタであるという。どこかの誰かの人格データが搭載されたオートマタ。過去に開発されたのものの、結局その計画は立ち消えになったという人格移植型オートマタ。機械の体、人間の人格。
事の真意を確認するつもりはリヒュにはさらさらなかった。これはただの勘繰りの域をでない。そんな興味本位の行動で、是非をあきらかにすることによって、せっかくの協力者を失うはめになったら、あまりにもくだらない。そう考えていた。
オートマタもピュシスで遊ぶのか、と考えると不思議ではあったが、ソニナがピュシスプレイヤーであることはゲーム内で会って確認済み。疑問の余地はない。
しかし、機械の体であれば半人化というリスクが回避できる、と考えると、ピュシスとは、むしろオートマタ向きのゲームなのだろうか。
――いや。
と、リヒュは思考を取り下げる。半人化はメリットだ。これはあくまで人間に向けて作られたゲーム。
「ピュシスは機械衛星が作った、か」
リヒュはロロシーに聞いた話を頭のなかで吟味しながら第二衛星を見上げる。
「ヲヌーという男が言っていました。状況証拠を積み重ねただけにすぎませんが、わたくしはこの説を強く否定できないと思っています」
「僕もマレーバクから似たような話を聞いてるな」
「マレーバク? リヒュ。あなた、トラのところにいるんですか」
若干の嫌悪感を滲ませてロロシーが詰め寄る。
「そういえばお聞きしてませんでしたけれど、リヒュのアバターは?」
「ロロシーこそ。なんの動物なんだ。ネコ科の大形肉食獣だとは思うけど。アムールトラ? それとも中型に近くなるけど、ウンピョウとかオオヤマネコ?」
消滅していると聞いたので、ピュシス内で見ていない動物の名を上げてみる。
「それは……、お答えできません」
渋られると、リヒュも同様の態度をとった。とはいえ元々教えるつもりはなかったが。
「なら、僕も教えない」と、ソニナの方を見て「ソニナさんもロロシーに教えないでくださいね」
無言の笑みが夜に浮かぶ。
「ソニナは知っているの?」
「ええ。なかで会ってもいますから。あそこは密談をするのにこれ以上ない場所なんです」
「たしかに。そうでしょうね」
ロロシーは、ヲヌーもそうやって仲間を集めたり、連絡をとっているのだろうと思った。
「分かりました。お互い、もうこのことについては質問しないことにしましょう」
無為な詮索はやめることにして、今後についての話し合いの体勢に移る。
「わたくしは明日、惑星コンピューターの元へ向かいます」
こう切り出すと、リヒュは頷いて、
「明日は休養日。色んな監視の目が弱まる。行動するにはまたとない機会か。確かに現状を知る手立てとしては一番手っ取り早い方法だ」
「知るだけではありません。惑星コンピューターがウイルスの危険性を正しく認識して、性能を発揮すれば、それを除去することができるはずです」
これは聞いたリヒュは「ふむ」と、くちびるをさすって考える仕草を見せ、口を開くと、
「ひとつ。ロロシーに確認したいことがあるんだけれど」
「なんでしょうか」
「ロロシーは……、この世界にどうなって欲しい? いまウイルスと言ったのはピュシスのことだよね? まあ確かに一種のウイルスと言える。惑星コンピューターのファイヤーウォールで駆逐できるかもしれない。けれどあえてそれを消さない、という選択もある」
「消さない? なぜ?」
思いもよらぬ意見にロロシーは困惑する。ピュシスは人間を変質させている。それは人体への侵略行為に他ならない。人類にとっての敵だ。それにピュシスをこの段階で止めることができれば、リヒュをはじめとする半人化の兆候が軽微であったり、現れていない人々は助かるかもしれない。ヲヌーやガラクタ広場にいる自然に傾倒した者たちならともかく、まだ人のなかで生きているリヒュは当然自分と同じような考えを持っていると信じていた。だから、そんなことを言われるとはまったく考えもみなかった。
「この機械惑星に動物や植物が現れるのはそんなに悪いことかな」
リヒュは言う。
「……その方法が問題でしょう。こんな風に無理やり、騙し討ちの形で変質させられるのは人道に反しています」
「動物になれば人道を問う必要はなくなる」
ふっ、と思わずロロシーは笑って、
「ガラクタ広場の人たちもそのようなことを言います。けれどわたくしから言わせてもらえば、人の体が動物になろうが、植物になろうが、それは人間なんです。生まれたその時に与えられた命から逃れることはできないんですよ。動植物気取りでものを言うのはやめてください」
強い言葉にリヒュは一瞬、鼻白んだものの、一歩も引かずに言葉を吐き出した。
「命は液体のようなものだ。器によって形を変える。心もだ。心は肉体に宿る。肉体こそが命の、心の形。獣の体になれば、心も獣になるだろう」
「いいえ。そう簡単に変わることなどできません。己を直視してこそ、人は変われる。自らの意思でもってのみ変わるんです。体の形がどうとか、わたくしには言い訳にしか聞こえません。わたくしの体はだいぶん獣に近くなりました。けれどわたくしは人間です。わたくしが、わたくしを人間たらしめているのです」
ロロシーは言いながらも自分が既に人間ではない自覚もあった。心だけが人間であり続けても、体はそうはいかない。獣でも、人間でもないもの。それがいまの自分。けれど人間の心だけは最後まで手放さないつもりだった。
「なら僕は、僕の意思でもって僕を獣にしよう。僕は僕を獣と規定する」
「無駄ですよ。獣は己を規定しません。獣は言葉を操りません。人の方法でもって獣たらんとしている時点で、あなたはどうしようもなく己を人間たらしめているにすぎないのです」
「いや。いつかは僕も人のように考えるのをやめるときがくる。体が変われば思考も変わる。かつて人間より大きな脳を持つ動物、クジラやゾウやイルカという動物がいたとデータにはあるけれど、人間のような知生体にはならなかった。それは肉体故だ。肉体故に心が規定されているからだ。人は人という形だから人になった。逆説的に、動物の形であれば、それは動物になるはずだ」
「それはあなたの願望でしょう」
ばっさりと言い捨てられても、リヒュの言葉は曲がらなかった。その瞳はまっすぐにロロシーへと向けられる。
「ロロシー。君の半人化は進行し続けているんだろう。君はいつか獣になる。その時、僕の言っていることを知ることになる。それか知る必要もなくなるかだ。僕はまだ半人を呼ばれるほどの体の変化はないけれど、いつか君のあとを追うよ」
「カリスの叡智があればこの半人化を止める術も見つかるかもしれません。治療方法も」
「それこそ願望だ。一度、変化をはじめたものはもう元通りにはならない」
「お互い理想論をふっかけているだけ、というわけですね」
「僕は理想で終わるつもりはない。いまはまだ仮想でしかない自然を、本気で現実に再生させるようとしている。僕は動物になる。そして動物として死ぬ。その時、僕を喰べるのはロロシー、君だと思ってた」
「わたくしが? なぜそんな……」
「今日、会ってびっくりしたよ。いや、がっかりした、と言ったほうがいいかな。もっと、完全な獣になっていると思っていたから」
ロロシーは自分が”変わった”その瞬間のことを思い出す。たしかにあの状態であれば、そう思われてもいたしかたがないかもしれない、しかし、
「心外です。一応、友人だと思っていたのに。友人を喰べるような人だと思われていたなんて」
「でも、一回は噛んだじゃないか。いや、二回だ。喉と腹のふた噛みだ」
と、突っ込まれると、ロロシーは不服な顔をして口のなかで牙を押さえつけた。
「おふたりとも。すこし落ち着いてください」
それまでやりとりを黙って聞いていたソニナが割って入ると、ふたりは熱を抱えたまま一歩引いて、視線だけをぶつかり合わせた。