▽こんこん10-3 喰われること、その幸せ
「逃げるのは当たり前でしょう」
ロロシーが言うと、
「なんでだ? 喰われるのは幸せなことなのに」
ヲヌーは腹の底からそう信じているという声色。
まぶたのないヘビの瞳が、工場内の暗い光に瞬く。
「それなら、あなたは自分が喰べられてもいいと言うんですか?」
「もちろんだ。喰う、喰われる。自然なことだ。それが幸せなんだ」
「なにをバカな」
ロロシーが小首を傾げると、ヲヌーは反発するように言葉を並べた。
「俺たちは喰わなきゃ生きていけない。そうだろ? だったら、喰われる側が幸せだって信じてやらないと、喰う俺たちがとんだ悪者になっちまう」
先程までに比べれば、ヲヌーの思想の正体がはっきりしてきたものの、ロロシーには小賢しい自己欺瞞にしか思えなかった。さらに考えるなら、ヲヌーたちは喰べること、誘拐殺人以外にも数々の犯罪に手を染めている。
「そんなこと関係なくあなたは十分に悪人ですよ」
思ったままに言うと、反論が返ってくる。
「生きるままに生きることが悪なら、生きること自体ができなくなる」
吐き出される言葉には、無垢とすら思えるひたむきさが込められていた。ただ、それはあまりに子供っぽい論理。
「社会という枠組みにはルールがあります。生きるのは自由でも、生きる方法は自由じゃない」
説き伏せるようなロロシーの言葉に、ヲヌーは寝返りを打って両手両足を投げ出した。どこか遠い目で工場の天井に渡された金属の梁を見上げる。
「はあ」と深く息を吐いて「最強ちゃんはまだ理解してないのか。何度も何度も何度も何度も教えてあげたのに。俺たち半人は人間じゃない。人間じゃなくなるんだ。自然と同化するんだ。そこにルールなんてない。生きる方法はたったひとつ。ただ生きるという生き方しかないんだ。生きるか死ぬか。この先の俺たちにあるのはそれだけだ」
ロロシーは膝を抱えて座り直すと、ヲヌーの視線の先を追って工場の天井に凝る灰色の闇を見上げた。
これはもう人ではない。そう思った。顔は鱗に覆われ、手足が失われようとしている。そのうち本当にヘビ同然の体になるのだろう。なにヘビかは知らないが。とにかくあのにょろにょろとした体になるのだ。そして、それより先に、心の形が人でなくなってしまっている。
「……悪人というのは撤回しましょう。あなたは人間じゃない。なら害獣です。あなたは人間社会に攻撃を加えている。そうすれば共同体は当然、外敵を排除する。あなたが動物として生きようと言うなら、人と関わるのを避けるべきだとわたくしは思います」
「違う」強い否定「攻撃なものか。害なものか。人を喰って。人を自然と同化させようとしているんだ。俺たちの幸せをおすそ分けしてるんだ」
「喰われることを幸せと思う者はいません。誰もが自分の命を大切に守って生きているんです。動物も、人間も、そのことに変わりはないはずです。確かに動物として生きるなら、わたくしたちは命を喰べなければ生きられないのかもしれない。他の生き物に不幸をばらまいているかもしれない。けれど、それを受け止めずに死から目を背けるなら、生すら軽んじていることに他ならないんじゃないでしょうか」
「いいや。幸せだ。幸せに違いない」
ヲヌーの主張は断固として変わらない。
そうして「幸せなんだ」と、だだをこねる子供のように言い張って、急に口を固く閉ざした。
ロロシーはもうなにも言わない。ソニナが戻ってこないことが、すこし気になっていた。それから工場の外に待たせているズテザとユウのこと。ここにこの状態のヲヌーを放っていっていいものだろうか、と考える。
冷たい金属の床から静寂がこみ上げてくる。手慰みに自分の耳を触る。ライオンの耳らしくすこし丸みを帯びてきた。最終的にどうなるのだろう。そんなことを思っていると、静寂に溶け込むようなささやきを、発達した半人の聴覚が捉えた。
「……きっと、喰われるのは幸せなんだ」
ヲヌーが口のなかでつぶやきを転がしている。誰に聞かせるわけでもない。意味のないつぶやき。
「幸せだったに違いないんだ。妻も。息子も。そうに違いない。そうなんだ。喰うのは避けられないことなんだ。当たり前のことなんだ。俺が悪かったわけじゃないんだ……」
声ではない声が、とろとろとこぼれて静寂と混ざり合う。
「……」
ロロシーは、もうヲヌーは引き返せない場所にいるのだと感じた。ロロシーにはヲヌーたちが人間社会で犯した罪を裁くことなどできない。ヲヌーが言った通り、ロロシーはもう純正の人ではない。半人。肉体をライオンに浸食されて、変質し続けている。そんなものが人として動物を裁くなんて、そんな権利は持ち合わせていない。かと言って動物として裁こうにも、動物は動物を裁きなどしないのだ。
これからどんな世界がこの機械惑星に訪れるのか、ロロシーには予想できない。彼が必要とされるか、排除されるか、それはその時の世界が決めるだろう。そうあるべきだとロロシーは思った。
立ち上がり、工場の外に向けて歩き出す。
「わたくしはもう行きます」
「どこに行くんだい?」
ヲヌーは軟体動物のように体をねじ曲げ、ヘビの如くに首をもたげて鱗の仮面をロロシーに向けた。
「この機械惑星の最深部へ」
「どうして?」
まるで子供のような無邪気な質問。
「惑星コンピューターに会いに行くんです。ピュシスを消去してもらうために」
「そんなことは第二衛星が許さないだろう」
ヲヌーの声が硬くなる。喉も変わりはじめているのか、その声はかすれていて、動物の嘶きじみていた。
「あなたの信じるものが真に神様であるなら、わたくしは許されないのでしょう。けれど、人の意思が勝つなら、それは幻想だったことになる」
「第二衛星は勝つぞ。第一衛星も、第三衛星も、惑星コンピューターも、いつかは第二衛星にひざまずくんだ」
もうロロシーはヲヌーの言葉に答えようとは思わなかった。こんな議論に意味なんてない。これでは子供の喧嘩だ。いま自分がすべきことは、前に進み、そこで待つ結果を手に入れること。
並ぶハンガーにかけられたオートマタたちの横を通って、ロロシーは戻ってこないソニナを探して工場の奥に足を向けようとしたが、ちょうどソニナが奥から歩いてくるところであった。
「どうでしたか」
ロロシーが聞くと、ソニナは「なにも異常はありませんでした」と、首を横に振って「オートマタを壊そうとでもしていたのでしょう。そして、実行前にいざこざが起きた。そんなところではないでしょうか」
ふたりで並んで外へと向かう。足音もなくふたつの影が移動していく。
「こんな古い工場のオートマタをわざわざ? もう使われていない、破棄されたものなのでは?」
「わたくしには分かりかねます。彼らの判断能力がそれが分からないほど低下していたのでは?」と、ソニナはロロシーの横を通り抜けて先に工場から出た。
ロロシーは続いて外に身を乗り出し、空を仰ぐと第一衛星の輝きに目を細める。
外ではズテザとユウがロロシーたちのことを待っていた。ソニナが手当していたはずの半人はすでに去ったのか、どこにも見当たらない。
ロロシーとズテザ、ユウ、ソニナの四名でこれから機械惑星の中心へと向かう。点検口より地下に入って、惑星コンピューターへの道を辿る。
先頭を歩き出したのはズテザ。彼が猛禽類の視力を駆使して点検口の位置を探し出してくれた。禿げ上がった頭が特徴の筋骨隆々な半人。
ピュシスではアフリカハゲコウだった男。半人化の進行によって、太い腕まわりからは産毛のような黒い羽根が頭を出して、かさぶたのように張りついている。そして、口の周りはくちばしに変わろうとしているのか、硬質化しはじめていた。
遅れて歩く銀色の人型はユウ。
いまは梱包されたように布で全身を隠しているが、その下にあるのはオートマタの銀色の体。メョコが所有していた人格移植型のオートマタ。とはいえ人格が与えられる機会がないまま、通常のオートマタと同様に生活の雑務を代行するためだけに使われていた。しかし、どうしてか自我と呼べるようなものに目覚め、ロロシーと共に惑星コンピューターの元を目指すことになった。
自らの願いを叶えるため。オートマタから、人間になりたい、という願い。
そして、ロロシーと並んで歩くのはソニナ。
ロロシーの家の使用人。母が他界してからほどなくして、家事をする者が必要だと言って父が雇った。当時、深く沈んでいた心を、とても優しく包んでくれた人。ロロシーにとって家族同然、むしろ家族以上の付き合い。
ロロシーは半人となって家を出て、それからはソニナともう会うこともないと覚悟していた。けれど、偶然か、策謀か、なんと呼んでもいいが、再び共にいられることになったのだった。
よっつの影が工場地区の狭苦しい道をゆく。
ソニナが人ひとりぐらいは入りそうなずっしりとした大荷物を背負って歩きながら、ロロシーに顔を向ける。柔和な微笑み。ロロシーも微笑みを返す。
――きっと大変なことが起きる。
万事うまくおさまるなんてことは決してないだろう。
それは分かっていた。
なにもかもが不確定な世界へと飛び込んでいく。
この先に待つのは、人か獣、どちらにとっての世界なのか。
そう考えながら、ロロシーはつい昨日のことを思い出していた。
惑星コンピューターの休養日の前夜。そこであった出来事。
その夜、ロロシーは、リヒュと、ソニナに出会った。