●ぽんぽこ10-40 おやすみ
――死んだふりは得意技。
いまだけは、この特技を肯定できる気がした。
――こわい。
とも思う。ヘビの呑まれるのは。それも、ヒュドラ―なんていう化け物に。
ヒュドラ―との今度こそ本当の最終決戦に挑む前。
ケープハイラックスに案内され、ライオン、オオカワウソ、ピューマ、クロハゲワシの四名は、かつてリカオンたちとゾウ頭ヘビ体の怪物グローツラングが戦った洞窟へとやってきていた。
敵本拠地のほど近く。洞窟に入って下り坂を越えるとすぐに冷たい水が溜まった泉が涼やかな姿を見せた。
泉には大量の林檎の果実が浮かんでいる。ケープハイラックスから、この林檎の果実はリカオンたちとの戦いで縦穴の上からヘビクイワシが蹴り入れたものだと聞かされた。
クロハゲワシは運んでいた黄金の林檎を岩の地面に置いて、泉の上の縦穴を見上げる。握りこぶしぐらいの金色の塊は、岩のくぼみにちょうどはまって、お供え物のようにぴったりと収まった。外に見える夜空の天候は小雨。雲がのっそりと動いて、風でどこかへと運ばれようとしている。
縦穴の出っ張りにも林檎の破片が飛び散っている。当時の戦いの激しさを物語る名残り。
「すごい匂い。なんか、いい匂いがする」
ケープハイラックスが泉に近づいて鼻を向ける。ひと嗅ぎしてびっくりしたようにそらしたが、もう一度おそるおそる水面に鼻を近づけていく。そうして舌を伸ばそうとしたところ、
「やめたほうがいいですよ」
と、カワウソに止められた。カワウソがケープハイラックスの隣に並んで、ぷかぷかと水面で揺れる林檎を眺める。林檎はいずれもやや黒ずんだ見た目。発酵が進んではいるが、冷水で冷やされていたことによって腐敗にまでは達していない。
「これは、すごく都合がいい」
「どうするつもりだ。なにか策があるんだろう」
ライオンも泉の縁に並ぶ。ここまでの道中は、ケープハイラックスが信用できるのかという話に費やされていて、詳細を聞きそびれていた。
隣のたてがみを見上げたカワウソは、
「長には、この泉に浸かって欲しいんです」
「ほう?」
「八岐大蛇退治と同じ要領ですよ」
カワウソが言うと、ピューマは「敵は八股どころか六十五股だぞ」と、冗談じゃない、という表情。
「クロハゲワシさんとピューマさんはあの臭い鳥を探してきてくれませんか?」
「鳥? 林檎ちゃんを刈ったやつ?」
「そう。植物族を完全に撃破するのは難しい。一本でも残っていたら、いくらでも増える。生き残りの樹木はまだあるはず。だから林檎さんの樹がないか探して、あの臭い鳥は、このあたりの樹の上なんかをいまもウロウロしてるんじゃないかな」
「探してどうする。狩るのか」と、クロハゲワシ。
「生け捕りでも死体でもいいですけど、とにかく連れてきて欲しいんです」
「話をひとりで進めるな。説明をしろ」
ライオンに注意されると、カワウソは「ごめんなさい」と尻尾をへたらせた。
「説明する前に確認しておきたいんですけど、ピューマさんの持ってるスキルってなんですか」
「それは……」敵であるケープハイラックスを気にするそぶり。察知したケープハイラックスは壁際の方へ走っていって、短い前足で耳を塞ぐように頭を抱えた。
「アー、アー、聞こえナーイ」
自分のスピーカーをこれみよがしに騒がしく鳴らす。そんな姿にピューマが苦笑していると、ケープハイラックスは「そうだ」と、頭を上げて引き返してきた。
「リカオンとの約束は果たしたから僕はここまで。いまさらこんなことを言うのは気が引けるけど、僕はやっぱり熱帯雨林の群れの一員だから。でも。でもさ……、よく分かんなくなっちゃったから。この戦ではもうどっちにも味方しないことにする」
「そうか。ありがとう」と、クロハゲワシ。「あんまり疑って悪かったな。なんにせよ変な具合だが」
「お礼なんて言われると、色んな意味で体がかゆくなっちゃうよ」
「わかった。じゃあ礼は撤回する」
クロハゲワシの言葉に、ケープハイラックスは薄く笑ったが、ふいに表情をくもらせると、
「コウモリ野郎って言うんだっけ。こういう行為。コウモリがかわいそうだけど。ゾウだか、カバだか、ネズミだか、なんだか分からない僕にはピッタリかもね」
「色んな一面を持つのは悪いことじゃない。思いのままに行動するのも」
カワウソが言うと、
「……そうだな」と、ライオンがゆっくりと頷く。
それに励まされたのか、ケープハイラックスは頷きを返して、洞窟の外へと走り去っていった。
足音が坂を上って、熱帯雨林に消えていく。
見送ったピューマは気を取り直して「ぼくのスキルの話だったね」と、鼻先でライオンを指し示してカワウソに目を向けた。
「長と同じ。クロハゲワシと一緒に合成獣のスキルが使える。グリフォンだよ。でもさ。今回の戦ではじめて長とクロハゲワシのグリフォンを見たけど、ぼくとクロハゲワシが合体した時よりも大柄で強そうだった。だから長がスキルを使ったほうがいいよ」
カワウソは予想していた通りの答えに「やっぱり」と耳を立てる。
「それは」と、ライオンが口を挟んだ。「アンズーにはなれないのか?」
「アンズー、って」
「ライオンの頭にワシの胴体の怪物だ」
別プレイヤーで合体すれば天命の書版がもう一度使えるかもしれない、と期待しての質問だったのだが、ピューマは首を横に振った。
「ぼくと長だとほら、顔は似てても頭の印象がだいぶ違うから。グリフォンならライオンの部分は下半身だけだから関係ないけど」
たてがみの有無に気づいてライオンは「なるほど」と尻尾で頷く。
「いいですか」と、カワウソ。視線と耳が集まる。
「作戦は単純です。ピューマさんたちがグリフォンになってヒュドラ―を引きつける。それから長にはこの林檎酒の泉に浸かってもらって……」
「林檎酒?」
「そう。果実は発酵すると果汁に含まれる糖分がエタノール、つまりアルコールになるんです。……って記録で読みました」
全員が泉に鼻を向ける。匂い立つ濃い林檎の香りは、嗅いでいるだけでふらりとしそうになるほどだった。カワウソはあらためてこのゲームが怖ろしいほどに作り込まれていることを感じる。惑星コンピューターが保持しているデータベースの中身を全てつぎ込んで組み上げたかのようなゲーム。衛星規模のコンピューターでもなければ処理しきれないような情報の規模。
「八岐大蛇は酒で酔いつぶれたところ、須佐之男命に首を切り落とされた」
ライオンがデータベースで読んだ地球の記録の断片をそらんじる。
「ヒュドラ―の首は切り落しちゃいけませんけどね」と、カワウソがかすかに微笑む。「それで、申し訳ないんですが長には」
「食われろ、ということか。ハイイロオオカミやボブたちのように。あいつはなんでもかんでも口に入れる癖があるようだからな。赤ちゃんみたいに」
カワウソは、できますか、と聞こうとしたが、踏みとどまってスピーカーを閉ざした。ライオンが眉を顰めて水面を見つめる。が、すぐに足を踏み出して、林檎酒の泉で水浴びをはじめた。
「ピューマ。クロハゲワシ。臭い鳥を探してこい。においのカモフラージュに必要だ」ライオンが指示を出して「そういうことだろカワウソ」
「ええ」
と、カワウソが答えると、すぐにピューマたちは洞窟から飛び出していった。
夜の熱帯雨林。ピューマがにおいで探り、明るさを増してきた空からクロハゲワシが樹々を見下ろして目的の鳥を探す。
洞窟にはライオンとカワウソだけが残される。
死地に赴く直前にしては、ライオンも、カワウソも、なぜか異様なほど気分が落ち着いていた。
ライオンが沐浴する水音だけが洞窟内にこだまする。それは神聖な儀式を前にした禊のようでもあった。
じっとりとたてがみに林檎酒を染み込ませたライオンが、ばさりと髪をかき上げるように頭を振った。泉の縁に腰を下ろしているカワウソに疑問をぶつける。
「ヒュドラ―は俺様を食べてから、どれぐらいで酩酊状態になると思う」
「それは……、正直、未知数です。でもこれ以外に方法はありません」
「それに関しては俺様も同感だ。現状で最も可能性のある策だと思う」
動物によってアルコールへの耐性は異なる。イヌやネコはアルコールを分解できないので、酔うのは危険。ウシは体の大きさもあって酔いが回りにくい。基本的に体が小さいほどアルコールが体のなかを早く巡るので酔いやすく、大きいほど酔いにくいと言えるが、小動物でも極端にアルコール代謝能力が高いハムスターなどの例外もいる。ハネオツパイというツパイ目の動物なども、自然発酵したヤシの花の蜜を毎晩のように飲む。そのアルコール摂取量は他の哺乳類であれば危険なレベルだが、決して酔うことはないのだという。ヒュドラ―という怪物が、下戸か、はたまた、うわばみか、試してみるまで分からなかった。
「もうひと押し必要かもしれないな。俺様もすこし考えたことがある」
ライオンは泉から出ると、縦穴から注ぐ月明かりを仰いだ。雨は上がっている。満天の星空にはいくつもの星座が瞬いて、共に戦った仲間たちの姿が星の海に像を結んで、浮かんでは消えていった。
――いくらでも死んでやる。
ライオンはヒュドラ―の口のなかに飛び込んでもがいた。ビニールのホースを潜っているような息苦しさ。首の内側に爪を立てる。引きずり込まれそうな暗い胃の腑へのトンネルに臆さぬように堪えて踏ん張る。毛衣を絞るように体をねじって、染み込ませた林檎酒を奥へと流し込む。
「俺は不死身だぞ」
キングコブラの声が外から聞こえる。不死身。けれど体力が無限だろうが、状態異常への耐性は別のはず。
ライオンは牙を剥き、ヒュドラ―の喉に内側から噛みついた。
刻まれた裂傷はすぐさま修復されていく、それでもライオンは牙を突き立て続けて傷をこじ開ける。
――いままで散々仲間を毒牙にかけてきたんだ。
やり返されたって、文句は言えないはず。
――口移しで、熱烈なやつをお見舞いしてやる。
ライオンが口に含んでいた林檎酒が、傷口に流れ込んでいく。アルコールという毒がヒュドラ―の体を巡る血と共に、全身へと回っていく。
ヒュドラ―の体から力が抜けていくのをライオンはその内側で感じた。
地響き。六十五本の首たちが、次々と倒れる音。
酒におぼれたヒュドラ―は眠る。
外ではオオカワウソが走り出していた。
予定通りヒュドラ―は酩酊状態に。目指すはゴール。倒れる時にもうすこし位置がずれてくれればありがたかったが、眠るヒュドラ―の体はまだ完全にゴールに蓋をしている。
カワウソは咥えている黄金の林檎を噛み砕いた。口のなかで黄金が弾けたその瞬間、カワウソの肉体にはかつてない力が漲る。
なんの因果か味わうことになった神の食物。ケープハイラックスが届けてくれたのは偶然が重なったところが大きい。ヒュドラ―を酔い潰しさえすれば、穴を掘ってでもと考えていたが、目の前に横たわる怪物のあまりの重量感に、なければ危うかったかもしれないと思い直す。
カワウソ、それに化けているキツネの能力ではありえない走力。地面に足跡が残らないぐらいの軽やかさで、一気にヒュドラ―との距離を詰める。
吸い込まれるように、倒れるヒュドラ―の胴体の下へ。
背中がヘビの鱗に擦り上げられ、腹は土に汚れていく。隙間をこじ開け、潜り込み、穴を掘るようにカワウソは進む。
――ゴールはどこだ?
ヒュドラ―の図体が大きすぎる。ゴールを示す光柱はすっぽりと隠されて、まるで位置が分からない。
前へ、前へ、がむしゃらに移動する。のしかかってくるヒュドラ―の体に押しつぶされる寸前で堪えて、カワウソは一心にゴールを探し続けた。財宝を、資源を、探し求める穴掘り屋のように。
ない。ない。どこだ。
気が急いてくる。戦の終わりまで、あとどれぐらい時間が残されているんだ。
水かきが土をまとって重くなる。別の動物に化けようか。いいや、ダメだ。正体がバレるかよりも、こんな隙間に挟まった状態で肉体の大きさを変えた場合、ぺしゃんこになるおそれがある。
どこだ。どこにあるんだ。
ここまできて、自分がゴールを見つけられなかったから負けたなんて、どういう顔で言えばいい。
「行け!」
ライオンの声。
押されるように体が強く進みはじめた。
ライオンは眠ったヒュドラ―の口から這い出して、残された力を振り絞り、隙間を押し広げようとしていた。
カワウソは進む。進み続ける。
光が漏れ出ている。
まるで日の出のように。
ゴールだ。
カワウソは光のなかに、鼻先を突き入れた。