●ぽんぽこ10-39 ずぶ濡れのライオン
ライオンたちを追い払って、暇を持て余したヒュドラ―は、本拠地のゴールの上に腰かけたまま、あやとりのような首遊びをしていた。相変わらずキングコブラ以外の八匹のヘビたちの苦しみの声は耐えないが、以前よりも弱々しい。精神が疲弊し、力尽きかけている。しかし中央の首、キングコブラは素知らぬ顔。
雨の勢いがなくなってきたかと思うと、雨粒が葉を打つ音色が途絶える。
ふっ、と雲間から月明かりがこぼれると、空に影が横切った。
百を超えるヒュドラ―の瞳が宙を射抜くような鋭い視線を投げかける。
樹々の天井を越えた先に、影絵のようなグリフォンの姿が浮かび上がった。
その翼は月光をすくいながら上下して、一枚一枚の羽根があたたかな煌めきに満ちていた。まるで太陽を牽いて迫りくるようにヒュドラ―は幻視する。しかし、いま太陽はグリフォンの味方ではない。すでに夜は更けかけ、朝の気配が忍び寄っている。地平線に顔を出す太陽は群れ戦の終了を告げる使者。その到来をグリフォンたちは怖れ、ヒュドラ―は待ちわびている。
開かれた六十五の口。毒牙から溢れた毒液が膜を張って、ぱちんと弾けてこぼれると、ヒュドラ―の周囲に汚れた線を引いて、歪な太陽のような円を描く。
雨上がりの夜空を羽音も高らかに渡ってきたグリフォンは、ヒュドラ―の攻撃範囲の一歩外にある樹の頂上にとまった。グリフォンの体が乗った樹はわずかに傾いで、ぞわり、と梢が震え立つ。
「よう王様」
キングコブラが話しかける。
返答はない。グリフォンは翼を何度か振りかぶると、言葉を交わす時間などないというように、最初から全力のトップスピードで突っ込んできた。
キングコブラは相手の戦力を正確に把握している。グリフォン、つまりライオンとクロハゲワシ以外に残っているのはあと三体。ピューマ。オオカワウソ。リカオン。そのうちのリカオンには毒牙がかすった手ごたえがあった。体力が残っているとは思えないので除外。つまりあと二体。
林檎の排除はツメバケイに聞いた。付近にあった林檎の樹列を刈り取ったと報告して、ツメバケイは残存する樹を探して、遠くを見回りにいった。
ピューマとカワウソは警戒するに値しない。ヒュドラ―の肉体に対して、二頭合わせてもこちらの首一本分の強さもないだろう。
グリフォン、ひいてはライオンが現状において敵の全戦力だと言っても過言ではない。ライオンはどんな力を隠してるか分からない。多くの神話、伝承に登場し、語られる勇猛果敢な生物。英雄と戦ったネメアーの獅子、魔よけの力を持つ獅子シーサー、戦いの女神ドゥルガーの騎獣ドゥン、地母神キュベレーの戦車を牽く者、騎士ユーウェインの相棒、概念の具現化である雪獅子。その肉体に与えられた神聖スキルは予想できない。
キングコブラは中央の首を残して、六十四の首を空へと群がらせた。取り囲むように広がり、グリフォンがいる一点を目指して閉じていく。グリフォンは宙返りして引き返すかに見えたが、つかず離れずの位置で上空に飛び上がった。ヒュドラ―の首たちがサボテンの棘のように胴体から放射状にピンと伸びる。
グリフォンの眼下にはヘビが形作る悍ましいベッド。グリフォンが右に飛ぶと一斉に右に移動し左に飛ぶと左に移動する。複雑な軌道にもなんなく追随してくる。キングコブラの操作は精密かつ正確で首が絡まったりすることは決してない。
グリフォンは単に攻めあぐねているのか、それともヘビの首を絡ませようとして当てが外れたのか。いずれにせよ決定的な行動には移らずにうっとうしく飛び回っている。激しい空中機動にグリフォンの羽根が散り、ヒュドラ―の首一本一本に飾りのように舞い落ちた。
ただ時間だけが無為に過ぎていく。
だが、そんな膠着状態はそれほど長くは続かなかった。
体力を見誤って動きすぎたのか、疲弊したグリフォンの高度が徐々に下がってくる。待ち受ける首たちは獲物に誘われ、籠を作るよう広がった。ヒュドラ―は体全体を一個の巨大な花の蕾にして、太陽に惹かれる植物の如くに六十四の首を伸ばした。
そうして、グリフォンが呑み込まれる、という寸前のこと。
キングコブラは敵の気配に振り返った。
六十四の首が向けられているのとは逆方向。森のなかから現れた獣。
――ピューマか。
と、思って無視しようかとしたが、すぐに違和感を覚えてその姿を注視する。
獣が走ってくる。それほどの速度ではない。よほど雨に打たれたらしく、濡れそぼって縮んでいるが首回りに垂れ下がっているのは、たてがみ。体格もピューマに比べると大柄。
――ライオン?
中央の首でライオンを見るのと同時に、六十四の首でグリフォンを見て六十五の画像を比較する。たしかにライオン。たしかにグリフォンだ。
そうか、とキングコブラは考える。
――このグリフォンは、ピューマとクロハゲワシが合体した合成獣か。
ピューマはライオンと名のつく異名を持っている。きまぐれなピュシスの采配によってスキルが与えられるということもあるのかもしれない。これまでにも、神話や伝承と完全に合致する動植物ではないもののスキルを与えられたプレイヤーがいなかったわけではない。
キングコブラは六十四の首の百二十八の牙でグリフォンを迎え入れながら、残った一本、中央の首をライオンに向けた。
ライオンの動作は鈍い。体はずぶ濡れの濡れ鼠になっていて、なんともみすぼらしい。始終乾燥しているサバンナであればそんな姿になることもなかっただろう。けれどここは湿潤な熱帯雨林。ライオンがたてがみをそびやかすにはすこし厳しい気候。
キングコブラが牙を剥く。鱗をつやめかせ、夜風を切って首を伸ばす。毒牙から滴る毒が地面に破線を刻んでいく。
――なにを狙ってる? なにを仕掛けてくる?
心地いい緊張と期待。
と、その時、ライオンはひとりでにふらついて、千鳥足になって数歩あるいた。そのままよろよろと倒れてしまう。
「ん?」
勢いを緩めて様子を窺う。
ライオンは湿った土に横たわり、草に毛衣をうずめている。
動かない。
疲れて寝たのか。そんなわけはない。
――死んだ?
よほど体力が減っていたのか。林檎の回復も失い、敵がギリギリ限界だったのも頷ける。が、あまりに唐突。
キングコブラは片手間にグリフォンを引き裂く。針山のような牙のむしろがグリフォンを閉じ込める。グリフォンはクロハゲワシとピューマに分離し、血の一滴までもが猛毒に染められる。やはり思った通り。ピューマだった。
死が淀んで漂ってくるようなライオンの肉体。舌先でにおいを探る。ひどいにおいがするが死臭ではない。ウシの糞のような香り。ひと嗅ぎで分かるツメバケイの悪臭。ライオンに狩られたのか。
天の采配か。インドラに身を捧げたウサギか。投げ出されたごちそうに、ヒュドラ―は喉を鳴らす。
油断を誘おうというのか。しかし、いまさらライオンともあろうものが騙し討ちをするなど考えられない。王者がするにしては、この死にざまは迫真すぎる。そして、相手がなにをしようとも、ヒュドラ―は不死身。その体力は無限。さらには戦の終了までスキルの維持に必要なコスト、命力は十分に持つ。
――ライオン。ライオンか。ライオンはいまだ食ったことがない。
垂涎ものとはまさしくこのこと。大口を開いて呑み込む体勢。ツメバケイの臭気に食欲が減退させられることもなく、キングコブラの喉が疼く。
スプーンですくうように下顎をライオンの体の下に差し込んでいく。寝た子に布団をかけるように、割れた舌がライオンの死をまとった毛衣を撫でた。
舌に味が触れる。
――爽やかで、甘くて、酸味がある?
と、キングコブラがわずかに戸惑った瞬間、死んでいるかと思えたライオンが身じろぎをした。ヒュドラ―の喉奥めがけて跳躍。キングコブラは咄嗟に口を閉じたが、牙が刺さる前にライオンは首のなかへと体を滑り込ませていた。
「死んだふりだったのか? 王様がそんな情けないマネをするとはな」
自らの首に向かって話しかける。悪くない喉ごしだ。ライオンが行きつく先は、お仲間たちが落ちた場所。死の洞窟だ。自分の足で向かおうと、呑み込まれようと結果は変わらない。
むしろキングコブラにとっては手間が省けただけというもの。
呑まれながらライオンが動いている。
ちくり、と喉に刺さった爪か、牙か、弱々しい攻撃。
「内側から攻撃しようってか? ずいぶんでっかい一寸法師だ」
膨らんだ首のなかに呼びかける。
体のなかは鱗の装甲がないので外よりも柔らかい。小動物でも肉を裂けるぐらいの防御力。しかし、だからといってヒュドラ―の肉体にはなんの影響もない。
「俺は不死身だぞ」
誇張でも威圧でもない単なる事実の提示。無限の体力。内側の傷であってもすぐさま修復される。
「がっかりしたぞ王様」
言いながら、胃に落としてやろうとキングコブラは伏せていた首を持ち上げようとした。が、その時、異変が起きた。
力が入らない。
視界が揺れている。
地面から離した顎が、ゆっくりと元の位置に戻ってしまう。
――なんだ?
うまく操作できない。体がまるで言うことをきかない。
中央以外の六十四本の首も同様。操作不良が伝播して、花が散るように次々に大地に首が横たわっていく。
――なにが起きてる?
あらゆる感覚が歪んでいる。
――これは……、もしかすると……。
キングコブラは思い当たる。
――酔っぱらった、ってヤツか?




