●ぽんぽこ10-37 散りゆく仲間たち
地獄の怨嗟の如き苦悶の呻きが、生温い雨と共に毛衣に染み込み、尻尾が引っ張られるような重苦しい気持ちが腹いっぱいに溜まっていった。暗澹たる闇の輪唱が耳鳴りとなって痛みすら感じる。
「頭がおかしくなりそうだ!」
ボアコンストリクターの裏返った声。
「吐き気がする……」
ナイリクタイパンのくぐもった声。
「ぼーっとしてきた。わたしが二重にいるみたい」
ブラックマンバのかすれた声。肉体が分裂して、精神が引き裂かれたような感覚がヘビたちの頭を埋め尽くしていた。
そんな声たちにも構わず、キングコブラは六十五本の首を持つヒュドラ―の肉体を激しく動かし続ける。化け物の姿。そこに宿る心もまた化け物。それは仮想世界に顕現した本当の化け物だった。
ライオンは走る。
暗い夜の熱帯雨林。
雨が正面からぶつかってくる。
後ろからはぞろりと並んだヘビの頭が壁となってやってきていた。
ライオンは振り返らずに走り続けた。ヒュドラ―の攻撃圏外へ。
蒸された緑の香りが鼻孔を塞いで窒息しそうになる。それでも息を切らして四本の足で大地を蹴る。
ふいに足が滑った。雨が淀んだ泥のなかに頭から飛び込んで、たてがみが溶けるように細くほどけて揺らめいた。
「ライオン!」
声がして慌てて体を起こす。あたりを見回すと、いつの間にかヒュドラ―の姿が見えない場所にまで退却していた。
クロハゲワシがよろめきながら、雨粒をはねのけるぐらいに強く羽ばたき、梢に引きずるようにして、リカオンを運んでくる。なかば落っことされる形で樹の上に置かれたリカオンは、慎重に枝を渡って濡れた地面に着地した。そうして、泥まみれのライオンの姿を見ると、自分も泥で体を洗い、ブチ模様を茶色一色に染め上げる。クロハゲワシは濡れるのを嫌って葉に覆われた枝で雨宿りをした。
すぐに同じように息を切らしたピューマとオオカワウソがライオンを追いかけてきた。
「くそうっ」
ピューマが苛立たしげに樹に爪を突き立てて、爪とぎの動作でいくつもの傷を刻む。明褐色の毛衣にまとわりついた水滴をぶるりと弾くと、
「残ったのは……、これだけ?」
仲間たちを順に見やる。ライオンで視線が止まる。泥びたしになったたてがみはすこし震えているようだった。
「雨が冷えるな」
リカオンが梢の隙間から夜空を見上げる。月の位置は雲で隠れて見えないが、雨がほんのりと温かみを帯びてきたことから、朝が近いことがわかった。
「まったく、冷たい、夜だ」
ライオンが細く息を吐いて答えると、リカオンは、くしゅん、と、くしゃみを返した。
「林檎ちゃんは?」
ピューマが首を左右に向ける。ライオン、リカオン、カワウソが揃って鼻をうごめかす。ほのかな香りが残ってはいる。が、肝心の幹や枝や葉は見当たらない。
「そこに実が落ちてる」
クロハゲワシが樹上から見つけてくちばしを向ける。枝から振り落とされたか、地面にめりこんで、ヒビがはいった林檎の果実。ライオンたちが駆け寄って、カワウソが掘り起こそうとした時、不快な香りが樹上から漂ってきた。
獣たちが一斉に見上げる。葉の陰にツメバケイの真っ青な顔がちらりと見えて、すぐに引っ込んだ。葉擦れの音が遠ざかって、逃げていく。
ツメバケイの臭気が離れると、残された果実に鼻先が向けられる。
発酵は進んでいない。やられてからそれほど時間は経っていないようだ。
「林檎ちゃんはあの鳥に刈られたのかな?」と、ピューマ。
「たぶん。けど、あの見た目で草食なのか」
カワウソがツメバケイの派手なとげとげの黄色い冠羽や、がっしりとした始祖鳥のような体つきを思い返す。
ツメバケイは草食。それも果実ではなく葉っぱを常食するという珍しい食性をした鳥。そのため、草食動物のような植物を発酵、分解する消化機構を有している。それから、非常に臭いことでも有名。
草食動物は植物族に相性有利。ライオンの群れの者たちがヒュドラ―の相手で手一杯のあいだに、無防備になっていた林檎を攻撃して刈っていたらしい。
二頭と一羽と一樹がやられて、残ったのは四頭と一羽。
しかし、そのうちの一頭、リカオンの様子が少々おかしなことにライオンは気がついた。毛がパサついて力が抜けているような。目は眠たげにとろんとしている。
「どうした?」
「なにがだ?」と、リカオンは背筋を伸ばすとそっけなく顔をそらして、
「どうやったらここから勝てるか考えないといけないな」
と、決して諦めは見せない。
だが、最終局面に残っていた仲間は半壊。厳しい状況に皆、口数が少なくなる。
ヒュドラ―をゴールからどけるというミッションはさらなる高難易度に変わってしまった。九本の首が六十五本に増殖。首が増えた分だけ、データ上の重量も増しているに違いない。頭が増えたことによって索敵能力も上昇している。九方向どころか、六十五方向が監視できるのだ。微塵の死角もない。
「ネメアーの獅子というのは使えないんですか」
カワウソがキングコブラの言葉を思い出してライオンに尋ねる。
「あれは奴の勘違いだ」と、ライオン。カワウソは「なるほど」と、特にそれに対して追及はしなかった。
憂いを帯びながらも真剣な顔が並ぶ。樹上には翼を乾かすクロハゲワシ。泥を避けて草に腰を下ろしたリカオン。ライオンとピューマが並び、水滴で波紋が広がる水溜まりを眺める。いまはライオンのたてがみが濡れそぼって垂れ下がっているのでふたりはそっくりなきょうだいのようにも見える。
ピューマはアメリカライオンという別名通りにライオンに似ているがオスでもたてがみは持たない。ライオンよりもやや細身の体格で、体長は二回りほど小さい。重量が軽い分、木登りが得意で、水を嫌うライオンと違って泳ぎも達者。ヤマライオンと呼ばれることもあり、高地にも適応している動物。
「このなかだと神聖スキルはライオンとクロハゲワシしか持ってないんだよな」
リカオンがあらためて確認する。リカオンはスキルを持っていない。
「一応、ぼくは使えるけど」ピューマが枝にいるクロハゲワシを見上げる。
「でもいまは役に立たない」
カワウソはピューマの視線を追って、それからライオンとピューマを見比べるとピューマのスキルをそれとなく察した。
「あー。そうだな」と、リカオンは思い出したように小さなくしゃみをする。
ピューマはカワウソに鼻先を向けて「カワウソはどう?」と、尋ねた。
「わたしはなにも」
嘘。カワウソの本当の姿はキツネ。化けているのをこの場の誰も知らない。
「獺って妖怪がいなかったか」リカオンが記憶を探って、
「たしか……」と、言いさしたが、「いや。まあ持ってないなら関係ないか」と、スピーカーを閉ざした。
獺はカブソなどとも呼ばれる、そのままカワウソの妖怪で、タヌキやキツネと同じく化けるのだという。危うく化けるスキルについて言及して、タヌキの存在をほのめかすところだったと、リカオンは小さく反省をする。
「アンズーで命力が足りるだけ雷を落としまくってみるか」
と、クロハゲワシ。
「相手は不死身だ。力押しじゃなく、搦手でないとカエルの面に水だ」
ライオンの言葉に、ピューマが「ヘビじゃなくてカエル?」と首を傾げると、
「無意味って意味の地球での言い方」カワウソの補足。
「ふうん」
アンズーの切り札である天命の書版が使えればなんとかなったが、ウロボロスに対して発動してしまった。黄金の林檎と同様にRCTが長いのでこの戦中はもう発動できない。
アンズーではダメ。かといってグリフォンであの数の首に立ち向かっても単純に力負けする。グリフォンにはウマ科特効という特殊能力があるにはあるが、相手はヘビ。
と、ライオンが考えていると、突然、リカオンが崩れ落ちた。
口の端からだらりと垂れた舌は鉛色。目は焦点が定まらず、虚空ばかりを見つめて淀み切っていた。