●ぽんぽこ10-33 レルネーのヒュドラー戦
「いち、にい、さん……、はち? 八岐大蛇? いや、もう一本……。九本、九頭のヘビということは……」
オオカワウソがゴールに居座る強大な敵を見上げて首を数える。
「レルネーのヒュドラ―、だな」
リカオンが尻尾を逆立たせて、じりじりと唸りながら後退していく。にわかに降り出した雨が鼻頭を叩いて、ブチ模様の毛衣を撫でて地面に染み込んでいく。
熱帯雨林の縄張りの本拠地。サペリというマホガニーと同じセンダン科の巨大な自生植物が、直立する幹を夜空に伸ばして、灰褐色の鱗状の樹皮を巨大なヘビの胴体のように月明かりに浮かび上がらせていた。
サペリのほど近くで立ち昇る光の柱。ここがゴールだとゲームシステムが示している場所。群れ戦のゴール。攻略側であるライオンたちが目指す場所。防衛側であるキングコブラたちが死守する場所。光柱を避けるように、そこだけは樹々の生えない小さな原。腐葉土のように香り立つ土に下草の茂み。そして尖った岩片がいくつも散らばる。原を取り巻くのは、無限に続く濃いジャングル。ライオンの群れの面々が命からがら通ってきた森。
群れ戦はもう終盤。空の天頂付近には月が浮かんで落ちようとしている。そんな月を隠すように薄い雲がどろどろと湧き、五月雨めいた天候の気配。
ゴール地点に積み上げられていたヘビの死体を、巨大な一体のヘビを押しのけ、崩し、あたりに振りまく。
一体であり一頭でないヘビ。九の頭、九の首を持つ怪物ヘビ、ヒュドラ―が花弁を優雅に広げるように、熱帯雨林の樹々よりも太く長い首をもたげてライオンたちを見下ろした。ジャングルに咲いた暗色の化け物花。その首の一本一本は、ヘビのなかで最大のオオアナコンダやアミメニシキヘビにも匹敵する。小さな原は完全に巨体に埋もれて、光柱のグラフィックすら呑み込まれた。
ヒュドラ―の九の首のうち、真ん中に生える一際大きな首がスピーカーを震わせる。聞こえてきたのはキングコブラの声。
「よう王様。どうだ。きょうだいとの感動のご対面だぜ。いまの心境ってやつを聞かせてくれよ」
「きょうだい?」
ライオンは強い眼差しで睨み返して、雨にしおれかけているたてがみを振って湿気をはらう。
「おやおやぁ? 王様がきょうだいのスキルを持ってるんじゃないのか。俺はそう聞いたんだけどなあ。ねみみ……、ねむねむ……、なんだっけか」
「ネメアーの獅子」九つのうち、別の首からオオアナコンダの声。
「そう、それ。おんなじママから生まれた仲だろ」
神話においてヒュドラ―はテュポーンとエキドナというふたりの怪物の間に生まれたとされている。ふたりはヒュドラ―の他、ケルベロス、オルトロス、キマイラなどといった怪物の父と母。さらにはエキドナは我が子であるオルトロスと交わりネメアーの獅子、スフィンクスといった怪物をも産み落としている。いわばヒュドラ―とネメアーの獅子は異父きょうだいの間柄。
「どうだかな」
「とぼけたって無ぅ駄。俺の情報網を舐めてもらっちゃ困るぜ」
ライオンは固くスピーカーを閉ざす。ネメアーの獅子は本物のライオンが所持していた神聖スキル。タヌキである自分は持ち合わせていない。
ただ距離を取ろうとするばかりのライオンの態度に、キングコブラの首はふうんと息をつく。
「きょうだい対決になるかと思ったがそうでもないか。それとも君はきょうだいの皮を被って、無敵の鎧とした英雄だったりするのかな?」口元をゆがめて鼻を鳴らすように「はっ」おどけた調子で「なら大ピンチだ」へらへらと割れた舌を揺らして笑い出した。
そんな笑い声を切り裂くようにクロハゲワシがライオンの背に羽音も高らかに降り立った。ライオンを雨から守ろうとするように濃褐色の大翼を広げると、青ざめて太いくちばしの先をヒュドラ―へと向ける。
「よく喋るなヘビの大将。舌が割れてる分、俺たちの二倍回るらしい。その長広舌は時間稼ぎのつもりか?」
「なぁに言ってんだ?」と呆れた声で舌を躍らせ「稼ぐも稼がないもない。これは暇つぶしだ。もうこっちの勝ちなんだよ。お前らが束になっても俺をゴールからどけることは絶対にできないんだからな。だから戦が終わるまでのあいだ、楽しくお話しましょ、ってなもんだ」
「ふん」ハイイロオオカミが尖った耳を薄雲に隠れた月夜に突き立て、雨が滴る鋭い牙を見せつける。「できないかどうか試してやろうか?」
その時、シマウマがヘビクイワシと共に戻ってきた。なんの騒ぎかと覗き込み、ヒュドラ―の姿に首をすくめる。
「付近にいた腐った臭いの敵植物族たちはひととおり始末したが……。なんだいこれは?」
「キングコブラとお仲間たちだ」ピューマがしなやかな褐色の毛衣を振り返らせて答える。
「長。どういたしましょう」
長身の優美な鳥、ヘビクイワシがシマウマの陰から進み出ると、
「テメェは!」と、声が張り上げられた。ヒュドラ―の首の一本。マムシの声。有翼の蛇神ホヤウカムイのスキルで暴れていたところ、不意打ち気味に襲いかかったヘビクイワシの蹴りをきっかけに敗れたヘビ。
敗北の記憶を蘇らせて激情が湧き上がったらしく、マムシが単騎、首をぐーんと伸ばしてきた。密集する樹々の幹の間をぬって、左右に頭を揺らしながら這いずる。ブラックマンバをも凌駕する速度。その瞳が捉えているのはただヘビクイワシの一羽のみ。
「おれを蹴ったトリ公! 覚悟しろよ!」
「なんですの!?」
ヘビクイワシが困惑まじりの声を上げる。
他のヒュドラ―の首は動かない。ただの一本だけによる無謀ともいえる突撃。ヘビクイワシ以外には目もくれない愚直なヘビ頭に、ピューマが側面から飛びかかった。太い胴に齧りつき、爪で押さえつける。ボブキャットも顎が外れそうになりながら噛みついた。手綱を引かれたイエイヌのようにヘビの頭はピーンと伸びて、ヘビクイワシの目の前で停止。ヘビクイワシはステップを踏むと、敵の横っ面を思いっきり蹴りつけた。
「また!」ヘビの瞳に憎しみがこもる。しかし、次の瞬間にはぷつりと焦点を失って、だらりと垂れた頭は、頬を湿った大地に預けて微動だにしなくなる。
ハイイロオオカミ、いまはスキルによってフェンリルの姿をした獣が、刃のような牙が並んだ大顎でもってヘビの首を寸断していた。
「一本取ったぞ。あと八本だな」
言ってフェンリルがヘビの首をベッと吐き捨てる。だが、キングコブラは微塵も動じる気配はなく、ニタニタ笑いを顔面いっぱいにこびりつかせている。
「オオカミさん。その断面から離れたほうがいいかもしれません」
カワウソに言われて、
「断面……?」
フェンリルが自らが断ったヘビの体に鼻先を向ける。ハサミで裁断されたような鋭い断面。細胞のひとつひとつまで再現されているかのような、グロテスクさをも感じる見事なゲームグラフィック。体内からこぼれた体液がとろりと垂れて地面にじっくり染み込んでいく。雨が洗った断面は、ひえびえとするぐらいに空間に浮き上がって見えた。
びたん、と千切れた首が、陸に上がった魚の如くに跳ねた。
フェンリルは驚きながら首の根本、他の首たちとつながった胴体に目を向ける。他の首が動かしているのかと考えたのだが、そんな気配はない。
びたん、びたん、と今度は二度跳ねる。
再度、断面に視線を戻すと、そこには先程にはなかったものがあった。より正しく表現するなら、あったはずのものがあって、なかったはずのものもあった。
瞳。それもふたつではない。よっつの瞳。ふたつの顔がじっとフェンリルを見返していた。
フェンリルは背筋を凍らせて飛びのく。背後の樹の根本にあった平たい岩に尻尾を強く押しつけた。それから息をハアッと吐き出すと、鼻に深い皺を寄せて牙を鳴らす。
「そうか、こいつも再生するのか。ヘビってやつのスキルはどいつもこいつも」
「地球人の妄想か。それともホントに不死身だったか。興味がつきないよねえ。神聖スキルってのがなんなのか。その名の通りなら、かみさまの賜物だ。かみさま。ああ、偉大なるかみさまよ……」
キングコブラが陶酔と共に雲に隠れた月を透かし見る。細糸の雨を喜色満面で受け止めながら嗚咽のような言葉を紡ぐ。そんな言葉に引っ張り上げられるように、ひとつの断面から生まれたふたつの頭は、にょろりと体を震わせると、首をもたげて攻撃的に二本の舌を垂れ下げた。