●ぽんぽこ10-23 悪臭
クルマサカオウムは戻ってこなかった。
やられたのかもしれない、とカバは思う。相手にも鳥類がいた。ミナミジサイチョウは肉食。クルマサカオウムは草食。鳥同士での戦いになれば相性差で圧倒される。あのオウムのことだから、引き際を理解しているか怪しいものだ。狩るのはさぞ簡単だろう、と想像する。
「私が……」
川辺で咲き誇るラフレシアの植物族が声を上げた。
「私が散らされている! このラフレシア・アルノルディイィィィィが!」
巻き舌気味の悲痛な叫び。ラフレシア・アルノルディイというのはこの植物族の正式名称。ラフレシア科、ラフレシア属、ラフレシア・アルノルディイという種。
「僕もだ。僕の花も手折られている。なんという、なんということだ……」
ショクダイオオコンニャクも憂いを帯びて呟きをもらす。
カバはぷかりと目鼻を水の上に浮かべて耳をくるくると回した。カバはカワウソと同じく鼻、目、耳が頭の上部に一直線に並んでいて、水面から外を覗くのに適した配置になっている。
倒木音。どうやら自生植物もろとも植物族を排除しているらしい。つまり、ここで戦おうとしている、ということ。密集する植物をどけて突進可能な空間を作ると共に、植物族の能力上昇効果と能力低下効果を取り除こうとしているのだろう。
「カバ。このラフレシア・アルノルディイィィィィを助けなさい!」
「その前に僕を助けるべきだ。開花した僕を目にする至上の幸福を前にして、花を折って回るなどと許されることではない」
「私だって開花日数の儚さなら負けてないわよ!」
「そちらは五日ほどは咲いているだろう。僕は二日ほどしか咲いてられないんだ。それも長大な準備期間を要してね。希少性が違うよ」
「発芽から開花まですごく時間がかかるのは私だって同じよ!」
言い合いになるふたりの会話にカバが横から割って入る。
「ピュシスだとあるていど開花時期にプレイヤー操作が干渉できるんじゃないの。頻繁に君たちの花を見かけるけど」
「だからって崇高さは変わらないのよ。美しさもね」
「そうさ」と、ショクダイオオコンニャクも言う。
「植物族ならいくらでも肉体を増殖させられるんだから、ひとつふたつやられたとして、そんなに大騒ぎしなくてもいいだろ」と、カバ。
己の身ひとつである動物の肉体を使っているプレイヤーとしては、毛が数本抜かれたぐらいのものじゃないかと思えてしまう。と言ってもカバの体毛は口、目、耳と尻尾周辺にしか生えていないが。
「無数に咲いたうちの一輪の花にすぎなくても、私にとっては尊い分身なのよ」
と、ラフレシア。
「まったくだ。無粋なことを言わないでくれたまえ」
「カバ。川上の私が全部刈られる前にあいつをなんとかしてよ!」
「早くしてくれ」
今度は結託してせっついてくるがカバには動く気がない。相手がそのつもりなら全ての植物を刈り尽くせばいい。重要なのは川。水場の確保。付近の地形からしてシロサイが川向こうに行くには、戻ってきてここを渡るしかない。この位置だけは両岸がすくわれたように浅くなっているので、シロサイような巨体でも通り抜けることができる。
クルマサカオウムから本拠地へ集まるようにとの命令が伝えられているが、目の前の敵をむざむざ見逃してまで、とはワタリガラスも言うまい。このまま戻れば、なぜ対処しなかったと言われる。お互い熱帯雨林の群れに所属して長いので、ある程度の考えはわかるつもりだ。
ワタリガラスは他人がまとめるとなると口出しはしないが、自分がまかせられたとなると神経質になる性質。現実世界ではさぞかし真面目にやってるのだろうと思う。それがゲーム内では軽く振舞おうとして、ちょっと真面目さが漏れ出しているような奴。本人には決して言わないが、カバは勝手にそんな分析をしている。
悪臭が強まってきた。ラフレシアとショクダイオオコンニャクの強烈な腐臭。
「ちょっと。あまりここには増えないでもらえないかな」
シロサイには、慣れるよ、と言ったものの、進んで嗅ぎたいような匂いではもちろんない。澄んだ川面付近は、流れに沿って走る風によってある程度匂いがかき消されていたのが、それでもごまかせないぐらいに濃くなってきている。
「ここには増えてないわよ。減らされた分は本拠地方向に分布を広げてる」
「僕もさ。なにせ君は守ってくれる気がないらしいからね。大切な僕の花を」
「ラフレシア・アルノルディイィィィィもね」
咎める口調を強めて、それきりふたりは黙りこくった。別の場所の花を操作対象としてプレイヤーが移動したらしい。要するに向こうは向こうでこちらを守る気をなくして補助を放棄したということ。それともワタリガラスが戻ってこいと言っていたという話を鵜呑みにして、指示に従ったのかもしれない。そうだとしても一言ぐらい言ってくれればいいものを、ヘソを曲げてしまったらしい。植物のヘソがどこにあるかは知らないが。
カバは動かない。植物族の能力補助がなくても水場さえ保持していれば勝てるという自信がある。
伐採の音が近づいてきた。なかなか几帳面な性格らしい。そんなに広く刈ってもどうせこちらは水から出ることはないのに。シロサイは強力な動物。ヘビの牙を跳ね除ける装甲。突進による防衛線の突破力。自分がここに残って本拠地へ通さないように番をする価値はおおいにある。
――それにしても臭いな。
川の上には身を寄せ合うように生い茂る熱帯雨林の梢が隙間のない蓋になって覆いかぶさっている。まさしく臭いものに蓋という状態で匂いがこもってきていた。
気分が悪くなってきた。淵の中央の深みへと移動する。カバは泳げないが、水より比重が大きいので沈んで水底を歩いて移動することができる。肺が大きいので潜水もお手の物。
全身を洗い、再び川面から顔を出す。けれどまったくすっきりしない。悪臭は凝って充満するばかり。
近くには物言わぬラフレシアとショクダイオオコンニャクがあるが、それぞれひとつずつしかない。いくらなんでもこんなに匂うものだろうか、とカバは鼻先を傾げる。
臭すぎて体がかゆくなってきた。こめかみあたりがむずむずしてきて、やたらめったら耳を振り回す。
そういえば、ひと潜りしているあいだに伐採の音が止んでいる。敵はどこに行ったのだろう。
川上に目を向けると、なにかが流れてきた。
真っ赤な色をした剥いた木の皮のようなもの。黄色い丸太のようなもの。流れに揺られて水をかぶりながらやってきたその正体を理解する前に、カバは鼻の穴をぴたりと閉じていた。赤い方はラフレシアの花びら。そして、黄色い方はショクダイオオコンニャクの花序。
カバは身震いした。こんなことをした犯人はシロサイに違いない。川上に根を下ろしていた植物たちを千切っては川に放り込んでいるのだ。悪辣な投棄行為。川の汚染だ。川の水自体が腐臭を帯びていつの間にか下水道の如き状態になっている。
急いで岸に向かう。汚水に浸かって自分の肉体まで腐臭まみれになるのはごめんだった。あまりの臭いに頭がおかしくなりそうだ。
巨大な樽のような体が水を滴らせて陸に上がる。口に入った汚水を吐いて、全身の水気を振り落とすと川に目を向ける。流されていく巨大な花々。立ち上る悪臭が目に映りそうなおぞましい光景であった。
どっどっどっ。振動。震源に鼻先を向ける。シロサイだ。草食動物の属性と強力な角によって障害となる樹々をへし折りながらやってくる。背に乗っていたミナミジサイチョウは、いまはいなくなっている。
川に戻るか。しかし、川岸で待ち構えられて我慢比べになった場合、腐臭まみれの水のなかで耐えられる気がしない。反対の岸にまで逃げるか。いや、だめだ。もう考えている時間がない。敵はすぐそこ。なにをするにも間に合わない。こちらが川から出てくるのを近くで待ち構えていたのだ。
カバは向きを変えて、出っ張った腹で斜めにシロサイの突撃を受けた。サイの角は分厚いカバの皮膚を貫くことはできなかったが、横一閃に裂傷を作って通り過ぎた。
傷はそこまで深くない。けれどこの位置取りでは川に戻るのを許してもらえなさそうだ。
シロサイは反転して川下の方向から再度突撃の構え。カバは川上へと走る。川岸がゆるい上り坂になっていて水面と岸が上下に離れていく。どっどっどっ。シロサイがカバに追いつき角を突き出す。カバは丸い体に全身全霊の力を込めて再び攻撃を受け流した。二本目の裂傷が刻まれる。
カバは翻弄されながら別方向に走り出す。視界が開けた。シロサイが伐採した場所。いかにも走りやすそうな樹の一本すらないなだらかな丘。空間が広がったことで悪臭が散って気分が回復してきた。頭上には夜になりかけている空。
くり返されるシロサイの突撃。カバは一方的にやられながらも致命傷を回避し、そうして逃げ伸びた先にあったのは一個の岩であった。岩のそばに寄り添い、盾にすることで完全に攻撃をかわせるようになる。
シロサイは攻めあぐねたのか、距離を取ったところで歩を緩めて、カバを横耳と鼻で探りながらゆっくりと円を描くように移動しはじめた。
カバは岩の隣で大口を開けて威嚇する。とりわけ大きなのは犬歯だが、それ以外の歯も巨大。開かれたカバの口は杭が並んだブービートラップのような凶悪な様相をしている。
間合いをはかっていたサイはカバの威嚇行動にも怖気づくことなく走り出した。正面。カバはさらに大きく口を開く。シロサイの顎よりも低い位置に槍の如き犬歯の切っ先を持ってくる。サイがこのまま正面から来るというならば、サイの鼻先の角が刺さるよりも前に、カバの牙がシロサイの喉を貫けるというリーチ差。
それでもシロサイはルートを変えずに加速してきた。位置は正面からいささかも外れてはいない。やる気か。カバは顎に力を込めて、敵の頭を噛み潰すべく、前に体を乗り出した。
大重量のシロサイの踏み込みで地面がえぐれ、草をまとった土が散る。ずんぐりとしたカバに比べてサイの輪郭にはシャープさがあり、どこか作り物めいている。戦闘用の鎧、重戦車のようだった。サイの突進によって押し出された空気が圧力となって吹きつけてくる。カバはそんな風に押されそうになりながら、強い意志で踏ん張って、攻撃のタイミングを逃さないように全神経を集中させる。
衝突の寸前。
いまこそ決着の時。
しかし、カバは口を閉じなかった。
シロサイは二者がぶつかる直前で急停止している。
カバは鋭い観察眼で、シロサイの足運びから狙いを汲み取ったのだった。だから口を閉じなかった。シロサイは攻撃タイミングをずらして、カバが口を閉じるのをフェイントで躱し、その後、牙を収めてしまったカバの鼻先を角で突くという腹積もりだった。それが当てが外れて攻撃のチャンスを見失う。
今度はカバの方から眼前のシロサイに迫った。突進力の加わっていないサイの角おそるるにたらず、という意気込みで、大きな頭にまるごと齧りつこうとする。
シロサイの顔をカバの大口が作る真っ暗な影が覆った。スイカのようにサイの頭が砕かれようとしたその時、サイも負けじとカバの口のなかに向かって思いっきり角を突き出した。