●ぽんぽこ10-9 呪いあい
ぐるぐる、ぐるぐる、とサイが迷い、同じ軌道を回っている。雨糸で編み込まれた帳を巨体がくぐり、鉄柱のような四肢でぬかるんだ大地を打ち鳴らしている。
夜刀神は自らの領域の中央にある湖に純白の体を浸して、真っすぐな角の生えた頭をぷかりと浮かべると、サイの足音に合わせて頭を動かす。
一周、二周、三周。領域に惑い、闇雲に走っているらしい。ひと回りして同じ場所に戻ってしまうことは、もう十分に分かっているだろうに、なんとも愚かしいかぎり。
相手は面白いように術中にはまっている。だが……、ホヤウカムイはなにをもたもたしているのだ。サイの足音が止む気配はない。同じ速度で走りつづけている。さっさと追いついて、仕留めればいいものを。
「進捗はどのようになっているのだ……」
霧の向こうに呼びかける。仲間からの応答はない。
「サイを狙うのだぞ……」
念押し。まさかキリンにかまけて、サイを追うのを忘れているなどということはないと思うが。
そういえばキリンはどこにいったのか。雨粒のバチが梢を叩き、サイの大太鼓との輪唱が、他の音を聞き分ける邪魔になっている。
キリンを探って湖の振動に集中しながらサイの足音を追っていると、
――目が、回ってきおった。
すぐに気がつく。理由は単純。サイの位置を追って頭を回しているからだ。
いつの間にか一周の速度が上がっている、と、考える間にさらに間隔は短くなる。サイの足音のリズムは変わっていない。走る速度は同じ。それなのに一周が早くなっている、ということは、つまり、輪が狭まっている。
敵が眼前に現れた。
湖の畔。二本の角を掲げたシロサイ。その角の貫禄に比べれば、夜刀神の細角はややたよりない。夜刀神の体長は紀州犬やボブキャットの優に二倍。大蛇と言ってよいが、シロサイはさらにその倍ほどの体格。
夜刀神は威圧されかけながら、すぐに冷静になって敵を観察する。
いま自分がいる湖の中央から岸まではシロサイ五頭ぶんほどの距離。湖の底は深い。簡単に飛びかかってはこれまい。相手は鼻や耳でこちらの位置を探りながら、湖の縁をなぞるように移動していく。水に足を浸すような動きを見せたが、すぐに岸に引き返す。
――もしかすると。
と、夜刀神は思い出した。
熱帯雨林の群れの仲間であるカバは泳げないのだ。体の比重が水よりも重いので沈んでしまう。それでも水のなかで暮らす変な奴で、水底を走って移動している。が、動物界きっての重量級であるそんなカバよりも、さらに重たいシロサイに同じ芸当ができるとは思えない。
「ほほほ。水は苦手と見える。乾いた地に棲む者の性かのう。まどろみの霧を越えて、この聖なる湖にたどり着いた知恵はあっぱれ。螺旋を描きおったか」
鷹揚な態度で嘲笑ってみせる。白蛇の口元で紅の舌がチロチロと躍った。
スキルによって霧のなかで方向感覚が狂うと言っても、風景までは変わらない。風景をしっかりと確かめて、角で切り開いた円型の道の内側を常に走り続けたに違いない。そうすることで軌道が螺旋を描き、必ず中央へと到達することができる。
「ここまでこれた褒美に朕の角で相手してやろうかと思うたが、その様子ではどうもどうも……」
優位にあることを自覚しての、いささか強気が過ぎる発言。分かりやすい挑発にシロサイは不快そうにまばたきしたが、湖の縁でたたらを踏むばかりで水に入ってはこない。
――さもありなん。
こうしてここで睨み合うのもまた一興か。時の流れは味方。ただ敵を苛むのみ。太陽が昇り、沈み、御来光が訪れた時が勝利の合図。
湖に半身を沈めて、もどかしそうにしているサイを眺める。たどり着いたはいいが、湖があるとは思っていなかったのだろう。
「さあさあ、さあさあ、どうなさるおつもりじゃ。いつまで稚児のように水遊びしてなさる」
サイの耳が尖って、尻尾がイライラと振られる。
嗜虐心が刺激されて、もうすこし煽ってやろうかとスピーカーを構えたその時、首の後ろにチクリと刺さるものがあった。ダメージ。それに付随する軽い酩酊感。ヘビの体をうねらせて、ねじるように背後を確認する。
白蛇の体にまとわりついたふっさりとした白毛。それはイヌ。胴体がない、イヌの頭だけだった。
「なんとする!」
白蛇の一喝。イヌの首は無言のままに牙に込める力を強める。
祟りを振りまくイヌの憑き物。犬神の呪い。しかし、犬神は神と呼ばれれどしょせん人工の呪い。飢えたイヌを頭を残して地面に埋め、食料をちらつかせ、死の間際に首を落とす。そんな凄惨な行為の末に作られた、あさましい人間の邪念が凝った呪詛。それに対して夜刀神は自然そのものの呪い。自然がもたらす厄災の具現。祟り神として格が違う。
犬神はうまい具合に夜刀神の牙が届かない位置に噛みついていた。が、ロープを絞るように体全体がひねられると、夜刀神の牙が犬神の片耳をかする。些細な一撃だが、攻撃判定が発生。呪いの状態異常を付与するにはそれで十分。犬神は強烈な酩酊感に襲われる。
だが、それでもしぶとく噛みつき続ける。大蛇の体が振り回されるが、まったくもって離れようとしない。
それなら取るべき手段はひとつ。夜刀神は犬神ごと水中に没した。
犬神の口から大量のあぶくが溢れ出る。犬神が夜刀神に付与した呪いの状態異常はほとんど無意味同然。神を脅かすには効果が低すぎた。一方、夜刀神が犬神に付与した呪いは大いに効果を発揮していた。視界が歪み、吐き気がする。それに加えて水中に連れ込まれて、肺とはつながっていない頭だけの状態でも、息苦しい感覚がこみ上げてきた。離れていてもシステム上は喉と首がつながっていることになっているらしい。
沈む。暗い湖の底へ。
犬神はついにこらえきれなくなった。夜刀神の白肌から牙を抜いて、首全体で船を漕ぐように器用に泳ぐと、水上へと顔を向ける。
夜刀神も負けじと波を描くように体を揺らし、雨粒の波紋が重なる水面を目指した。
逃げる白犬の首。追う白蛇の角。
犬神の鼻先が水中から脱する。口内に溜まった水を吐き出して、一気に息を吸い込んだ。すぐにそばから鋭利な角が現れる。濡れた白毛が飛沫を飛び散らせ、角が頬をかすめた。避けれた、と思ったがそのまま横になぎ払われて、耳の下から顎にかけてを切り裂かれる。大きな損傷。体力が危険域にまで減少。
角に引っ張り上げられるように白蛇の頭が水上に現れた。首をもたげて牙を剥き出す。上顎に生えた反り返った二本の長牙。つややかな鱗に落ちた雨粒が、やや角ばった輪郭を流れて牙の先から滴り落ちる。白犬は身動きする余力すらない状態。胴体は湖の縁。犬かきで急いだとしても、間に合わない距離。
湖が高波で揺れた。白犬の首が流される。逃がすまいと白蛇が体をうねらせたが、ふと、なにが波を起こしているのか、と振り返った。
そこには、シロサイの大角が待っていた。
突き刺さる。
致命傷。
「泳げたのか……」
凄まじい巨体が水に浮いている。信じがたい光景。カバは沈むというのに、サイは浮くのか、と夜刀神は体力が尽きる寸前にぼんやりと考えた。夜刀神は知らなかった。サイ以上の重量を持つゾウであっても達者に泳ぐ。シロサイと同じサイの仲間であり、湿潤な場所に棲むインドサイは泳ぎ上手。
とはいえ、シロサイにとってこれは、はじめての水泳であった。サバンナにはこんなに大きな湖はない。サバンナでできるのは水浴びぐらいなもの。しかし、やろうと思えば泳げるはず。そう信じてシロサイは、紀州犬が敵の気をそらしている間に水に飛び込み、見事湖の中央に到達したのであった。
「大丈夫か! どこにいる紀州犬!」
角の一撃の元に夜刀神を討ったシロサイが、耳を四方八方に向けた。夜刀神はスキルが解けて、アルビノのアオダイショウとなり、湖に蛇腹を浮かせてたゆたっている。アオダイショウは毒を持たないヘビ。紀州犬が毒を受けていないことに一旦の安心を覚える。
だが、泡のような白波に呑まれたのか、仲間の姿は見当たらない。シロサイが水中で向きを変えると、余計に波が高くなって、ただでさえ目が悪いのに、視界が濁りで覆われてしまう。
「どこだ!?」
水面がさざめくほどに叫ぶ。
雨が激しくなってきた。音も、匂いも、呑み込まれていく。溺れそうになりながら、シロサイはその場で渦ができそうなほどに首を回して捜索をした。
「……ここだ」
すぐそばから声。喉を濡れた毛でくすぐられる。体を引くと、ちょうどシロサイの顎の下に犬神の頭があった。
「心配させるな……」
ぶっきらぼうに言ってシロサイは角の先で首を抱え上げる。サイの角にかぶせられたイヌの首。すこしばかり猟奇的な匂いを感じさせる恰好で、シロサイは岸を目指して泳いだ。
無事に岸にたどり着くと、頭が受けたダメージを共有して倒れてしまっていた胴体部分と合体させる。本来の姿に戻った紀州犬は弱々しく立ち上がろうとしたが、がっくりと膝を折ってしまった。
「無理はするなよ」
「ああ。俺はどうやら戦力外ってやつらしい」
悔しそうな声。
ミナミジサイチョウが走ってきて、ふたりに合流した。
「こう激しく降ってると空が飛べないぜ」
「そうだろうな。キリンはどうした?」
「空飛ぶ臭いヘビを引きつけてくれてる。奴さん、岩に突き刺さって完全に動きを封じたと思ったが、なんと自力で脱出しやがった」
「……そっちはキリンに任せて俺たちは先に進もう」
紀州犬が言うと「俺たち?」と、シロサイが横たわっている白犬を見下ろした。鼻先で草むらの影に押しやって、
「あとは任せてここで休んでいろ」
と、すぐに尻尾を向ける。紀州犬は首だけを微かに持ち上げて、しばらくなにか言いたそうな目をしていたが、やがて「あっちが西だと思う」と、鼻先で方向を示した。
「お前の勘は頼りになるからな」
「全くだ」
肩越しに振り返って、進むべき方向を確かめると、シロサイとその隣を歩くミナミジサイチョウが離れていく。
「でも次にサイの角のマネさせるなら、おれじゃなくサイチョウに頼んでくれよな」
去る前に、ミナミジサイチョウが笑って軽口を置いていく。サイチョウはジサイチョウの姉妹群。くちばしの上にサイの角のような大きく尖った冠羽があるので犀鳥と名付けられている。ジサイチョウの冠羽はサイチョウに比べれば地味で、今回くちばしで角のマネをしたものの、霧と雨がなければ、いくら枝葉でカモフラージュしていたとしても敵に見抜かれたに違いなかった。
戦に向かう仲間たちを見届けた紀州犬は、こてん、と力を抜いて横になる。黒茶色の泥が毛に染み込んできて気持ちが悪い。けれどちょうどいい迷彩になって、身を隠しておくことができそうだった。シロサイが押し込んでくれた草むらの上には枝葉の傘が広がっていて、ちょうどいい雨宿り場所になっている。
降りしきる雨を眺めていると頭が空っぽになってきた。現実世界ではなぜ雨が降らないんだろう。そんな疑問が思い浮かんだ。大気が完全にコントロールされているから。ドーム状の天井が空よりも低いから。色々と理由は考えられる。植物が実在すれば、そんな屋根も必要なくなり、雲が現れ、雨が降るようになるのだろうか。
紀州犬は目をつぶった。雨によってかき混ぜられた様々な匂いが漂ってくる。地面を伝わってくる心地良いメロディ。贅沢な時間。このまま眠ってしまいたい、と思った。
湖の上空に射し込む影。影の下では翼の形をした静かな水面ができあがる。雨粒を遮るその翼はホヤウカムイのもの。
水面に浮かぶアオダイショウの死体をホヤウカムイが鼻先で拾い上げた。体が冷えてムカムカする。そんな気分を抑えて本拠地へと翼を向ける。
ホヤウカムイは夏に語られぬ者の異名があり、寒さを厭い冬には弱るが、暑さで力を得る夏には口にしてはならない存在。その性質はピュシスでも健在のようで、一刻も早く黒雲の元から逃れ、雨で濡れて冷えそうになっている体を乾かしたかった。
翼のある蛇神が飛んでいく。
夜刀神はやられたが、きっちりと足止めの役割を果たした。こっちはこっちでキリンに手傷を負わせたが、本拠地とは別方向へと逃げ去っていったので深追いはしなかった。防衛側としてそこまで悪くない状況。
雨は良し悪し。変温動物であるヘビたちは冷えるのを厭い、ホヤウカムイのスキルを使う自分にとっても煩わしいばかり。けれどサバンナの連中はそれ以上に雨に困っていることだろう。慣れない霧雨にさぞかし調子が狂っているに違いない。
足並みを崩すこと。それが防衛側として勝利する第一の道筋。それができれば、地の利を得ているこちらが有利。
陽が高くなると、熱帯雨林がいぶされはじめる。暑苦しい湿った空気が、樹々の間に溜まって、窒息しそうなぐらい息苦しい空間を作り出す。
――この戦、勝てる。
翼を持つヘビは飛翔し、生臭い匂いをまき散らしながら、じっとりとした笑みをこぼした。