●ぽんぽこ10-7 夜刀神の領域
香が焚かれているのかと思うほどに深い霧。視力の低いシロサイは樹に頭をぶつけてしまって、八つ当たりのように引き倒した。
周囲の偵察に行っていたミナミジサイチョウが戻ってきて、キリンの背を止まり木代わりにすると、何度か翼を閉じたり広げたりして水気を払う。
「霧が濃すぎてなにも分かんねえ。離れすぎるとはぐれちまう」
「雲のなかにいるみたい」
キリンが首をぐるりと回す。長いまつげが絡め取った水滴が、ぽたり、と音を立ててこぼれた。緩やかな緑の起伏にふわりとかけられた霧のベール。上空にまで幾重もの霧が重なって、太陽の位置すら朧に揺らいでいる。
「どっちにいきゃいいんだ」
シロサイが声を荒げると、紀州犬が「すこしは落ち着け」と、大木のような足に白い柔毛に包まれた体を擦りつけて宥めた。
「霧に切り込んじまうとは、とんだきりきり舞いだぜ」
ボブキャットがこぼした言葉を軽く聞き流して、紀州犬があたりに鼻や耳を凝らす。
「……たぶん。こっちが北だな」
「分かるのか」
「分からないけど、なんとなく」
「勘かよ」
嘆息するボブキャットの隣にミナミジサイチョウが下りてきて、地面に足を突き立てる。そうして紀州犬と同じようにして、くちばしの先を彷徨わせた。
「あんがい合ってるんじゃないか」
「どうして?」
キリンが長い首を下ろして尋ねる。
「おれは渡り鳥じゃないからそんなにピンとこないんだが」ミナミジサイチョウが前置きをして「磁気感覚ってのがある。地磁気を感知する能力だ。それを持ってるから渡り鳥は変わり映えのない風景のなか、とんでもない距離を飛んだとしても、絶対に方向を間違わない。この感覚はイヌにも僅かだが備わってるらしい」
感心したような目に囲まれて紀州犬はすこし照れくさそうにして、尻尾をパタパタと振った。
「いや、ホントに勘なんだ。そんな大層なもんかどうか分からない」
「しかし他に手がかりはない。頼りにするぞ」
シロサイが北と言われた方向から直角に向きを変えて、西、敵の本拠地があるはずの方向へと角を掲げる。シロサイの角は一本角のインドサイと違って、鼻の上に位置する大角と、そのさらに上部、眉間あたりに生える二回りほど小さな角の二本。大きい方の角は紀州犬の体長を越えるほどに巨大。小突かれた植物は粉砕されて、道を阻むものはすぐになくなる。
熱帯雨林を切り開いて再び道が作られはじめる。キリンもクレーン車を上げ下げするような動作でサイの手伝いをする。ミナミジサイチョウは霧ではぐれないように、空を飛ぶのを止めて歩くことにした。
キリンの尻尾を見上げながら歩いていたボブキャットがなにかにぶつかった。岩陰に突き刺さった棒きれ。シロサイが伐採した樹が飛び散って刺さったのだろうか。杖のような形。匂いを嗅いでみる。古い木切れの香り。まあいいか、と杖の横を踏み越えて仲間たちのあとに続く。
まっすぐ。それだけを考えて道が延長されていった。
先導するシロサイ。補佐するキリン。残り三名は敵の奇襲を警戒する。
霧に紛れて細い雨が降り出した。坂がない平らな地帯なのは幸いであったが、足元の状況悪化によって、進攻が遅れるのは避けられない。キリンの首を滑り台にして勢いよく雨水が滴り、シロサイの角の切っ先で弾け、紀州犬の白い毛衣や、ボブキャットの黄灰のヒョウ柄の毛衣にじっとりと染み込んでいく。
「なんかめちゃくちゃだるくないか?」
ボブキャットが言うと、紀州犬が咎めるように、しっ、と鼻を鳴らした。
「言うな。毛が湿って体が鈍くなるのはしょうがない」
「いや」前を行くシロサイがふり向いて「おれも、なんだか体が重い」と、毛のない体を緩慢な動作でゆすった。
「冷えたからじゃないか?」
「多少は冷えてるだろうけど、まだ湿気で蒸し暑いぐらいだよ。それに、そうだとしても能力値が下がり気味なのが気になる」
キリンに言われると、紀州犬はメニュー画面を確かめて、「たしかに」と、それを認めた。
「これ、ホントに道は合ってるのか」
不安を膨らませたように、ミナミジサイチョウが言うと、皆が顔を見合わせた。
「……俺もそのことに関しては自信がない」
磁気感覚を頼りにされていた紀州犬が言うと、沈んだ雰囲気が一行の間に広がる。そんな空気を吹き飛ばすように、ボブキャットが明るい声を上げた。
「見ろよ。こんなに歩いてきたんだ。とにかく進んではいるさ」
来た道を振り返る。熱帯雨林の自生樹のオブジェクトを破壊して作られた一本道。道の先は霧に呑まれて見えないが、これまでに作り上げた道は確かに存在している。
「もしかしたら、もう次の拠点は目の前かもしれないぜ」
シロサイの前に走り出て、転がっていた岩の上に飛び乗ると、ぶるりと体を震わせた。
「……あれ?」
振り返って仲間たちと目を合わせる。そして、また岩の向こうに視線をやる。今度は岩から下りてきて、地面を見回す。するとボブキャットは岩陰に刺さっている杖のような棒きれを見つけた。
「まずいかも」
「どうした」
紀州犬がボブキャットのそばに駆け寄って棒きれを見る。それから岩に飛び乗って道の先を覗き込んだ。そこにあったのは、樹々が取り除かれた泥道。ぬかるんだ地面にはいくつもの足跡が残されている。
「これは……、通った道か?」振り返って見比べる。
「戻ってきてしまったのか? すこしずつ道をそれて、円を描くように……」
シロサイとキリンが道を延長させて前に出ると、道と道がぴたりと一致した。
「まっすぐ進んでたと思ったが」
シロサイが怪訝そうに耳と尻尾を振り回す。
「たしかにまっすぐだったはず」
キリンとミナミジサイチョウも同意した。
「けど、そうじゃなかったってことだろ」
先程までの明るさを泥のなかに落っことしてしまったような絶望顔でボブキャットがぐずる。
よくよく見ると、それと気づけるぐらいには道が湾曲してしまっている。どうして誰も気がつかなかったのか、まるで分からなかった。
「遭難しちまったか?」紀州犬が言うと、
「そうなんですか、そりゃ災難だ、って言ってる場合じゃないよ、まったく。オイラもう疲れちまったよ」
ボブキャットは泥で汚れるのもかまわずに、ごろんと寝っ転がって、駄々をこねる子供のように口を結んでしまった。
全員がこの先進むべき方向に迷って黙り込む。
雨が仄かに強まって、弱まった。
波のような緩急のなかで、横になっていたボブキャットは地面から伝わってくる微かな振動を感じ取った。
耳がピンと立てられて、反射的に目を見開く。ヘビ、という感じではない。地を這うのではなく、転がっているような。
石が風に押されたのかな、とボブキャットが思った瞬間、太い瓶のようなものが草をかきわけて向かってきているのが見えた。しかし瓶にしてはおかしな色合い。薄茶色に濃い黒のしましま模様。それに、ピュシスの熱帯雨林のなかに瓶が転がっているなどあり得ない。
がばりと身を起こして、仲間に知らせようとした瞬間、瓶が大きく屈伸して、バネのように跳ねた。ボブキャットの顔面向かって開かれた瓶の口。そこには鋭い牙があった。
――これもヘビなのか!?
驚きで硬直してしまったボブキャットに牙が突き刺ささろうかという寸前、視界が宙を躍る。すこし遅れて、弾き飛ばされたのだと気がついた。仲間のキリンがゴルフのスイングのように頭を振って、ボブキャットを危機から脱出させたのだった。
「ツチノコだ!」
紀州犬がスピーカーで警鐘を鳴らす。
ツチノコとは未確認動物であり、極めて胴体が太い、木槌、すなわち棍棒のような形のヘビ。這うのではなくシャクトリムシのように屈伸運動で移動する、通常のヘビとは異なりまぶたが存在してまばたきをする、眠る時はいびきをかく、猛毒を持つ、などという特徴を持つとされる謎めいたヘビ。
まさにそんなツチノコとしか思えない外形をしたヘビが、打ち出された砲弾の如く草むらから草むらへと飛んでいくと、ゴムボールが跳ねるように反射してまた戻ってきた。狙いはボブキャット。狙われた当人は尻尾を棒にして、恐怖の叫びを上げながら逃げ惑う。
「助けてくれ!」
「待て、ボブ!」
「ボーブ!」
仲間の呼びかけは蒸し暑い森に虚しくこだまするばかり。ヒョウ柄のネコは霧と雨の向こうに離れていってしまう。
「ジサイチョウ。追えないか」
言われてすぐにミナミジサイチョウが空へと翼を向ける。しかし、シロサイがそれを止めた。
「待て! 空になにかいる!」
サイは目が良くない反面、鼻と耳は非常に優れている。その発達した嗅覚が、降り注ぐ薄い雨に混じった厭な匂いをかぎ取った。紀州犬もその生臭い匂いを捉える。キリンが森の天井から頭を突き出して、霧に覆われた空を見上げた。
雲の近くできらりと閃いた槍のような形状をしたなにか。それは霧のベールを切り裂いて、キリンたちの元へと一直線に向かってきていた。