▽こんこん9-14 深層の回想と回想
クソッ、とレョルは悪態をついて、押しつぶされそうに狭い裏路地のひび割れた壁に手を振り下ろした。が、すんでのところでそれを止めると、握り締めたこぶしを額に当てる。そうして、クソッ、クソッ、と舌の上に苛立ちを吐き出した。
レョルの毛髪は黄色に黒のストライプに淡く変色しており、犬歯が唇を切り裂きそうなほど巨大に発達していた。両手両足には強力なネコ科の爪。尻には縞模様の尾まで生えてきている。
ベンガルトラの半人。その変質はもう取り返しのつかないところまできている。
手落ち。失敗。研究所に収容されているドードーの半人からの情報を元に、遺跡深層の地下大空洞に辿り着いたのはいいが、そこで予想外の事態に遭遇した。
遺跡深層。
トラがそこを訪れたのはライオンの縄張りを奪ってしばらくした頃。現実世界の仕事との兼ね合いもあり、すぐにというわけにはいかなかった。時期を窺っている間にマレーバクに手勢を集めさせ、いざ遺跡に踏み込むと、ドードーの知識の力もあり、迷うことなく底に辿り着くことができた。
大多数のメンバーは深層に到着したあと、現実世界に瓜二つの空間におののき、暗い街にたむろしている大量の敵性NPCにおじけづいて、地上に逃げ帰ってしまった。
最終的にトラの元に残ったのは白黒模様のマレーバク、固い灰色の皮膚の鎧で身を固めた一本角のインドサイ、ウシの中で最大の体格、三日月形の双角と、でこぼこと膨れ上がった筋肉質な体が特徴の黒牛ガウル。それから、シフゾウ。
シフゾウというのはシカの仲間。角はシカ、首はラクダ、蹄はウシ、尻尾はロバに似ており、そのどれとも違うと考えられたので四不象と名付けられた。なんとも捉えどころのない動物。濃褐色のややのっぺりとした毛衣。体格はマレーバクと同等で、このなかで一番大きなインドサイの半分ほど、ベンガルトラやガウルと比べても二回りは小さい。とはいえシカ全体で見れば大型の部類に入る。人の背丈よりその体長は大きい。
シフゾウが斥候となって先導し、不気味に静止しているオートマタたちをインドサイやガウルが押しのけて道を作る。
深層のオートマタたちはドードーの半人の供述通り、襲ってくることはなかった。
雑踏なき人型の群れ。静寂に包まれた機械惑星の複製品。その上空、球形の空洞の中央には、空虚な穴と見まごう影の球。そこだけ丸くグラフィックが欠けているのかとも思えたが、毛玉からほつれた糸のように垂れ下がる螺旋階段がそうではないことを教えている。
捻じれた影階段の根元を目指し、繁華街を通り抜けて工場地区へ。道が狭まったので、横に二頭並ぶことができなくなって、行儀よく列になって進んでいく。
トラにとっては見慣れた工場地区の道。ロロシーの元へ婚約の催促をするために、何度も通わされた。なぜ俺が頼まねばならないのか、向こうから頭を下げてくるべきだろう、と思いながら、メイドに追い返される日々。屈辱以外のなにものでもない。
いつもは上空のレーンを使って、輸送箱であっという間に通り過ぎる。はじめて自分の足で踏んで歩くうちに、胸がむかむかしてきた。
トラが顔中のヒゲを尖らせながら行列の最後尾を進んでいると、急に足を止めたマレーバクの白い尻にぶつかりそうになった。覗き込むと、先頭のシフゾウが立ち往生している。工場地区を西の方へ進み、もうすぐで狭苦しい道が終わりを告げようという地点。シフゾウの鼻先には光の柱のような道の出口。その向こう側に見える工場から、機械音の合唱が響いてきた。
突如、オートマタが溢れ出した。街にいたものとは違って動いている。手を振り上げ、一直線に向かってくる様には、明らかな敵意が感じられた。
トラたちがいるのは一本道。両側にそり立つ壁は、キリンの背丈ほどはある。逃げ場も隠れ場もない。押すか引くか選ばなくてはならない。すぐさまトラは押すことを決断し、インドサイに指示を出した。
シフゾウが飛び退いてインドサイが先頭に立つ。インドサイは通天犀の神聖スキルを使って、大きなカメの甲羅を背負った姿に変身。頑丈な甲羅が道幅いっぱいを塞ぎ、オートマタが迫るはしから、鼻先にあるインドサイの角と、額から生えた通天犀の角を振るって弾き飛ばしていく。
倒れたオートマタの小山ができたが、システム上、万能耐性である機械属性を持つオートマタはそう簡単には倒せない。すぐに立ち上がり、再び群れとなって向かってきた。
通天犀となった肉体は防御力こそ凄まじいが、動きは鈍重。大振りに角で払う隙に、オートマタが束になって甲羅の縁に掴みかかった。一斉に押し上げられると、以前、シマウマと戦った時にひっくり返された苦い思い出が、インドサイの脳裏にじわじわとよみがえってくる。
仲間に助けを求める。ガウルが重い体で甲羅を押さえつけた。その重量はインドサイの超超重量には遠く及ばないものの、イリエワニと同等程度の超重量。重しとしては十分。甲羅の下に潜り込もうとしていたオートマタがメキメキと音を立てて押しつぶされ、何本かの銀色の腕が引きちぎられた。
一進一退。オートマタの軍勢がひと塊になって道を塞ぎ、通天犀と押し合いになる。力が拮抗し、押すも引くもできない状況へと事態は収束していった。
ここからどうしたらいいんだ、と流石の豪傑も弱音を吐いたその時、頭上をぴゅーんと飛び越えたものがいた。
シフゾウ。二つに割れた大きな蹄がオートマタたちの頭を踏みつけ、枝分かれした太い角が宙を躍る。そうして、オートマタの一団を越えると、一目散に駆けだした。
呆気にとられる通天犀とガウル。すぐに動き出したのはマレーバクだった。シフゾウのように軽快にはいかないが、ふくよかな体をはずませながら甲羅の傾斜を戦闘機の滑走路のように駆けあがると、通天犀の頭を踏んで跳躍。オートマタたちの銀腕が稲穂のように掲げられる。しかし、危なっかしく身をよじって避けると、マレーバクも奇跡的にオートマタの一団を乗り越えた。
トラが、二頭の行為が抜け駆けだと気がついたのはそのあと、慌てて神聖スキルを使い、翼を持つ人喰いトラ、窮奇の姿で羽ばたこうとしたが、道幅が狭すぎて翼がつっかえた。翼をたたんで走り出す。二頭と同じように通天犀の甲羅を乗り越え、オートマタの手が届かないほど高く高く跳ぶと、一足のもとに一団の後方に着地した。
五頭のパーティの内、過半数の三頭が移動したことで、オートマタの注意が後方へとそれる。トラに向かって銀色の塊が動き出した。疲弊により、こらえきれずスキルを解いたインドサイとガウルが目を見合わせて、出口の方向へと退散していく。
黄と黒の縞模様が疾走した。オートマタを吐き出した工場は空っぽ。工場の前を通り過ぎると、正立方体の簡素な建物。その正面に、天上へと伸びる螺旋階段の一段目があった。
シフゾウは既に数周の円を描いて駆け上がっており、止まることなく段を蹴りながら、眼下線がぴりりと伸びた涼やかな目を、足元のトラへ、ちら、と向けた。
遅れてマレーバクも上りはじめ、ひょろ長い鼻先を持ち上げると、トラには目もくれずに頂上を目指す。
「待てっ!」
トラが低く唸ったが、シフゾウやマレーバクは意にも介さない。
全身の毛を逆立てて、トラは怒りに燃えた。猛り狂って咆哮を響かせた。オートマタたちが過敏に反応して、攻撃目標をトラに定めたが、そんなことにもお構いなしに、空気を激しく震わせた。
黄色の毛衣に稲妻の如き荒々しい黒の縞模様。窮奇の翼が広げられ、力強く羽ばたいた。豪風が巻き起こり、大型肉食獣の体が一気に空へと舞い上がる。
螺旋階段の先頭を行くシフゾウとの距離は一瞬で詰められ、巨大な牙が首元を狙う。
しかし、裏切りを断罪する牙が突き立てられる寸前、ドロン、という微かな音と共に、トラの視界は白煙で覆われた。すだれのようなものが顔に絡まってくる。首を振って、煙と共に振り払うと、眼前にあったのは柳の大木。柳は幽霊が手招きするように、おどろおどろしく枝葉を垂れ下げ、トラの全身を撫で上げる。
――これはキツネだ。
トラは気づいた。気づいたからこそ大木を避けようともせず、勢いのままぶつかっていった。キツネの化けるスキルは。見かけのグラフィックが変わっても、内包する重量データは変わらない。衝突すれば、押し勝つのは当然、トラ。
あまりの軽さに衝突音すら柔らかく、変身が解けた小麦色のキツネが宙に放り出される。トラもそのまま階段からこぼれ落ちたが、こちらは翼をはためかせて空中にとどまった。落下していく枯れ草球のような小さな獣を一瞥して、頂上へと鼻先を向ける。
足元では大量の金属が積み重なり、ぶつかり合う音。それらを振り切るように、階段など無視して、道なき空を突っ切ろうと、トラが翼を広げた瞬間、ふっ、と肝心の翼が消えてしまった。
スキルを解いた覚えはない。もう一度、自らの肉体を窮奇の姿へ変貌させようとするも、なぜかそれもすぐに解かれてしまう。もう一度、もう一度、もう一度、全て失敗。
トラは空中でもんどりうって、黄黒の毬の如くになった。そうして墜落していく刹那、一番後方にいたマレーバクと目が合った。その姿は、いまはマレーバクではない。怪物、貘。
そうか、とトラはこの事態の原因を悟った。忘れていた。マレーバクはろくに前線に出ることもなく、滅多に神聖スキルを使わない。自身の群れの副長ながら、トラは噂でその能力を聞く限りで、実際に見たのはこれがはじめてだった。
ピュシスの貘は夢を喰う。神聖スキルを無効化する能力。
落下しながら尻尾を振り回して、なんとか空中で体勢を整えられないかと試みる。すこしだけ螺旋階段に近づいたが、トラの体で腕を伸ばしても、足場の縁を爪先が掠めるばかりで掴むことはできない。
迂闊だった。
さかのぼって考えれば、深層を目指すとトラが命令を発した最初から、マレーバクは従順すぎた。下剋上を狙っているのか、それともこの先にあるものを知っているのか。
トラが群れ員に説明したのはここに到達できればゲームクリアが待っているということ。クリアできなければピュシスが消えるということ。
どちらもドードーに聞いた話だ。
ドードーは最深部に到達した。
螺旋階段を上り切った仲間たちから歓喜の声が上がる。ジャイアントモア、エピオルニス、ターパンが一番乗りを群れ長に譲ってくれたので、ドードーはひとり、影球に足を踏み入れた。
生まれる前のタマゴに入り込んだ感覚。上も下もなくなって、振り返れば入り口が見えたが、すぐそこにいるはずの仲間たちは、遥か遠くに引き伸ばされて見えた。
暗いけれど明るい空間の中央には球。灰色の球が浮かんでいた。機械惑星や機械衛星のような。
これが最深部の宝か、とドードーが小さな体で見上げると、球から冠での通話にも似た意味の伝達が行われた。
ここは世界の果て。
求めよ。
然らば与えよう。
望むもの全てを。
そして、すぐさま、質問がはじまった。
これからピュシスは消滅する、是か否か。
答えよ。
ドードーは返答に窮した。突然はじまったのがどういった性質のイベントなのか判じかね、困惑しきっていた。
ジャイアントモア、エピオルニス、ターパンの三頭も入ってきて、どうしたんだ、なにがあった、と、スピーカーを鳴らす。すると、他三頭にも同様の意味の伝達があったらしく、お互いに驚いて顔を見合わせた。
四頭が球を取り囲み、くちばしでつついたり、鼻先で匂いを探ったりして悩んでいると、別の球が現れた。まったく同じ。そっくりな灰色の球。そちらの球は何も言わなかった。
次の瞬間、暗さと明るさがマーブル模様に混ざり合っていた空間が、闇一辺倒に傾いた。闇の奔流。あっという間にドードーは黒い泥のようなものに呑まれ、外に押し流された。
仲間たちと共に螺旋階段を流れ落ちる。
その後、消滅。
この話は、ドードーと同じく研究所に収容されているエピオルニスとターパンの半人にも同様の質問をして、真偽を確認している。それぞれ施設内でも離れた場所にいるので、お互いに口裏を合わせるなんてことはできない。
トラは、求めるものが与えられる、願いが叶う、という一点を省いて群れ員に説明した。当然ながら信じないものが大半。が、ゲームクリアと聞いて、興味を惹かれたものも多数いた。なにかクリア報酬があるらしい、それが得られるのは先着の群れだけだ、ぐらいのことをトラが言うと、戦だけでは飽き足らず、肉体を動かす機会に飢えていた単細胞の獣たちは話に乗ってきた。
マレーバクは率先してメンバーを扇動し、必要な下準備を整えるため、かいがいしく働いてくれた。スムーズに遺跡進行に乗り出せたのは、間違いなくマレーバクの功績。しかし、それに感謝するでもなく、利用するだけ利用して使い捨てるつもりだった。が、最終的に利用されたのはトラの方。なんとも皮肉なもの。
トラは無事、最深部に到達できれば、長の特権を行使して、他の群れ員たち全員を牙で追放させてでも己の願いのみを通すつもりでいた。
ひとりでも妨げる奴がいれば、叶わない願いに違いなかったから。
――父を殺した奴を、殺してください。父を殺した惑星コンピューターを……。
遠い地面がものすごい勢いで迫ってくる。
空気摩擦で全身の毛がむしられて、尻尾が引っこ抜かれそうだ。
銀色の絨毯はオートマタたちの腕。
貘に喰われるはしから馬鹿みたいにスキルを使い過ぎた。いつの間にかかなりの命力を消耗している。この先に待つのは、ただの体力ゼロか、それとも肉体の消滅、ピュシスからの追放か、どうなるか予想できなかった。
衝突の瞬間を見るのに耐えかねて、ぐるりと体を反転させる。背を下に、腹を上に。
羽音。トラの耳元を掠めて、空に舞い上がる鳥。手を伸ばして捕まえようとするが、するりと逃れて螺旋階段のカーブに沿うようにして、飛んでいく。
光沢のある黒の羽毛に、目立つ黄色の肉垂れ。キュウカンチョウ。キツネの化けた姿。
トラの死を確認するまで用心深く階下に鼻先を向けていた貘がキュウカンチョウに気がついた。化けの皮を剥がそうと、鼻を伸ばす。そうしてめいいっぱいスキルを吸い込もうとした瞬間、階段全体が揺れ出した。
トラにはそれが見えていた。ドードーたちを呑み込んだ泥。影球から汚泥の涙が決壊したように溢れて、螺旋階段を洗いながら洪水となって押し寄せる。粘り気のある真っ暗なグラフィックが、螺旋階段にまき散らされて、辺り一帯に飛び散った。
ぎょっ、とした貘が泥と正対し、息を呑む。スキルを吸い込もうとしていた動作が継続され、鼻先は泥を捕まえていた。反射的な行動。貘は二重の意味で驚く。泥を飲み込んでしまった。その途端、貘の神聖スキルによる、スキル無効化が働いて、泥が消え去った。
――誰かいる?
天を見上げる。
――これはギミックではなく、プレイヤーのスキルなのか?
疑問が湧き上がり、渦巻いたが、思考する時間はなかった。
それはトラにとって泥のように粘ついて、ねっとりと凝縮された時間だった。
汚れが滴る階段に、再び天上から泥がやってきた。貘はひどく狼狽したまま、わけも分からぬ様子で泥波を飲み下して無効化していく。貘の頭上をキュウカンチョウが通り抜けた。抜け駆けさせるものかと、長い鼻先が向けられて、黒い鳥は小麦色の獣の姿に引き戻される。貘が気をそらしたその一瞬が命取りだった。泥の大波が二頭を呑み込む。溺れる二頭の獣は、泥の黒と混然一体になって、トラの目からその居場所は分からなくなった。
――ざまあみろ。
衝撃。
視界の端に銀色の腕が見えた。
ぶつん、と、意識が途切れた。