▽こんこん9-12 研究所を襲う者
「なぜ研究所を?」
穏やかではない話題にカヅッチは眉間に険しい皺を寄せる。スウやクユユの表情もどことなく固くなった。
ラア、とスウには呼ばれているゴャラームは鼻を前に突き出すような動作をして、
「友達があそこにいるらしいから、助け出したいんだ」
研究所、と言われて半人が思い浮かべるのはひとつ。捕まった半人たちが収容され、研究されている場所。
「カヅッチさんもひとを探してるんでしょ。あそこにいるかもしれないよ」
きたるべき世界を統べる王を、確かにカヅッチは探している。草食動物の半人たちのなかにはカヅッチの思想に共感して、活動を行っているものも多くいる。世界を肉食動物の手に渡さないように、草食動物の王を求めて。そのなかには自らこそ王に相応しいと自負するものも現れて、最近の捜索活動は混沌を極めている。先日、パンダの半人が参戦してきて、パンダが草食かどうかでひと悶着あったばかり。しかし、パンダのピュシスでの属性は雑食動物らしく、それを根拠に退けられた。
「あなたは立候補しないんですか。肉食の王がライオンなら。草食の王はゾウ、あなたでしょう」
カヅッチに言われると、「ぼく?」と、ゴャラームは首を振って、こめかみを押さえた。
「ぼくはだめだよ。近頃どうしようもなく頭に血が上る時があるんだ。マスト状態ってやつなのかな」
マストはオスのゾウに見られる現象。マスト期になると、頭の側面から油のような液体が分泌され、男性ホルモンの量が五、六十倍ほどに跳ね上がると共に、すさまじく凶暴化する。
「それより、やっぱり明日は忙しい? 別にぼくひとりでも行くつもりだけど」
数人に声をかけたものの断られた。ピュシスの命運をわける事態。実際に戦う群れに所属していなくとも、立ち会っていたいと、その時間はピュシスで過ごそうとする者が多かった。
「そうですね……」帽子の上から角を撫でて、しばし考えてから、
「明日の成り行き次第ですかね」どっちつかずの返答。
それを否定と読み取って、ゴャラームは頷くと、
「クユユさんは無理だよね」
と、念の為、確認する。カヅッチとは違い、クユユの方はなんの動物の半人かすぐに分かる。ネコ科なのに爪を引っ込められない。それに加えて圧倒的な走力。当てはまる動物は一種類しかいない。最速の陸上生物、チーター。チーターがライオンの群れに所属していて、ライオンの群れがトーナメントに参加していることは知っていた。
クユユも「私も成り行き次第かな」と、カヅッチと同様の返答。それからカヅッチを横目に見る。
助力なし、と判断したゴャラームに、「あたしには聞かないの?」スウが言うが、「足手まといだから」と一蹴されて不貞腐れる。
話もそこそこにカヅッチは「もう失礼しますね。用事があるので」と、踵を返した。クユユもそれに続く。狭い道の片側に広がるパイプ林に沿って遠退いていくふたりに、スウが大きく手を振った。
「そっちはどうなの?」
歩きながらクユユが尋ねる。
「ピュシスの話なら黙秘します。そちらこそどうなんです」
自分は答えす、相手には聞く横暴な態度。けれど、クユユは特に気にした風もなく、
「みんな準備で大変みたい。新しい群れ員を入れたり、作戦の確認とか、連絡方法の取り決めなんかをやってるよ。ブチハイエナ以外に、リカオンが副長になってから、結構みんな意見を言うようになって、わいわいしてる」
「ブチハイエナはおひとりでなんでもこなせる優秀なひとでしたが、良くも悪くもライオン至上主義なのが傍目にも分かりましたからね。言いずらいことを抱えていた群れ員もいたでしょう。風通しが良くなって結構なことなんじゃないですか」
完全に他人事といった口調。
「それにしても自分は暇みたいな言い草ですね」
「私? 私は熱帯雨林だと出番ないから」
チーターが万全の走力を発揮できる環境は限られる。ライオンの群れの初戦の相手はキングコブラの群れ。その本拠地は熱帯雨林。足元が不確かで、木の根がでこぼこと生い茂る熱帯雨林で戦うには、チーターは不適格。他にもっと適している動物がたくさんいる。
「それでひとり遊んでるんですか。さっきのスウみたいに」
「ちょっと違うけど、まあ似たようなものかな。でも変なの。ブラックバックが変。よく近くにいるの」
「気に入られたんじゃないですか」
「話しかけてくるでもなく、気づいたら物陰にいるからちょっと怖い」
「ストーカーですか?」
カヅッチは肉食動物であるクユユを心配したりはしなかったが、なんとなく陰湿さが漂う行為に微かな不快感を滲ませた。
「んん。その言い方はひどくない? 警察官とか、探偵とか、尾行慣れしてるような感じだからストーカーとは違うんじゃないかなあ」
「単に手慣れたストーカーというだけでは? 常習犯かもしれませんよ」
冗談めかして言って、
「まあ、ブラックバックとの付き合いはあまり長くありませんが、あのひとの場合、節度のある軽薄さだから変なことはしないでしょう」
擁護にならない擁護を口にする。
カヅッチはブラックバックと入れ違いにトラの群れに戻ってきた。一方でブラックバックはライオンの群れへ。意図せずトラの群れとライオンの群れで連絡役を交換したような形。
トラの元での連絡役は、ライオンのところと比べてずいぶんと忙しかった。自分勝手に行動するメンバーが多いので、広く見て回らなくてはならず、意図せず変化させられる戦況に合わせて細かな指示の変更が必要になる。トムソンガゼルは戻ってから要領を掴むのに少々手間取ったが、いまではもうすっかり慣れて、前線で指令を出せる副長、参謀として、戦の時にはマレーバクよりも重宝されている。マレーバクの座を蹴落とすのも時間の問題だという自負があった。
オートマタ騒動が起こってからというもの、トラもすこし落ち着いて、群れのなかで動きやすくなった。トラの群れにはウシのなかでの最大種のガウルや、ヤギの最大種であるマーコール、それから強力な鎧と角を持ったインドサイなど、平凡な肉食動物をしのぐ威容を持つ草食動物が複数存在する。そういったプレイヤーを台頭させて肉食動物たちを牽制するのがカヅッチの目的のひとつ。そしてそれはある程度の成功を収めている。
「ライオンは元気ですか」
ふと肉食動物の王のことが気になって、現在の様子を探るべくクユユに尋ねてみる。
「元気だよ。けどなんとなく、ちょっとだけ落ち着きがない感じ」
最近は落ち着いているトラとは逆のようだ。
「前は王様がみんなのことを気にかけてたけど、みんなが王様のことを気にかけることが増えたかな」
「それで威厳が保てるんですか」
「王様が立派だってことはなにも変わらない。王様っていうのは、いるだけでみんなを元気づけてくれるひとのこと」
「まるで無能な王じゃないですか」
「それでもいいんだよ」
「いいわけないでしょ」
断固として言うカヅッチにクユユは微笑んだ。
「私はカヅッチも王様になれると思うな」
「……馬鹿にしてるんですか」
違うよ、とクユユは言おうとしたが、その前にカヅッチは走り去ってしまった。
長距離走でチーターはトムソンガゼルに勝つことはできない。決して縮まらない距離を眺めながら、クユユは袖が破れていたことを思い出した。
――弁償してもらいそこなった。
考えつつ、トボトボとジョギングコースに戻っていく。上昇する体温と、それを冷ます風が釣り合う速度を探しながら、走りに体を馴染ませるように、ゆっくりと足を早めていった。