▽こんこん9-5 尻尾が生えて
尻尾が生えてからというもの、ライオンだということがバレないように、以前にも増して周囲の視線に注意しなければならなかった。
ロロシーがピュシスで失った肉体が肉食動物であり、おそらくはネコ科だということは既にガラクタ広場の皆には知られてしまっている。その情報に加えて、房のある尻尾となれば、もうライオン以外の何者でもない。
もれ聞こえてくる噂だけでもピュシスではタヌキがずいぶん頑張っていることが伝わってきた。ピュシスのライオンが偽物だ、などという疑惑が広まると、それに水を差すことなってしまう。だから、尻尾はベルトみたいにウエストに回して、房を背中に隠すようにしている。
尻尾の次は、たてがみが生えてこないかと心配だったが、今のところは大丈夫のようだった。その代わりに髪の毛が大きく膨らんできたので、三つ編みにしてきっちり固めておくようになった。
歯はもう立派な猛獣の牙。口を閉じるときには注意が必要。さらには手足の末端から、黄金色の毛衣が薄く被いはじめてきた。靴を履いている足はともかく、手は見咎められてしまう。なので手袋をはめるようになったが、なんだかごわごわして落ち着かない。
爪もずいぶん鋭くなったが、ネコ科故に引っ込められるので手袋を突き破ってしまう怖れはない。はじめは引っ込める時に手の甲がつるような奇妙な感覚があったが、それにも慣れた。同じネコ科でもチーターなどの爪が引っ込められない種だったらさぞ大変だったろうな、とロロシーは思う。
一時は爪を切っていたが、切っても切っても生えてくる。そうして一定の長さになるとぴたりと止まる。これがお前に相応しい爪だ、お前はライオンだ、と体が語りかけてくるようだった。
街中から離れ、工場地区を越えた先にある未開発地区。かつて工場地区の拡張が行われようとしていたが、中止になったまま放置されている。その時に積み上げられた資材たちが劣化しては崩れ、ごちゃごちゃに混ざり合ったガラクタの楽園。ガラクタ広場の中央で、ロロシーは腰を下ろして考え事をしていた。
背中を預けているのは小屋ほどもある巨大なコンテナ。隣にはボロのマントを羽織った少女スウ。相変わらずその顔は泥を塗ったように汚れており、化学薬品の異臭が放たれている。
動物の鋭敏な嗅覚には少々刺激が強い香りだが、それだけに嗅ぎ分けやすい。この広場を訪れる半人たちの目印ならぬ鼻印となっている。
半人。ピュシスの肉体である動物や植物に変質しようとしている人間。
ロロシーは冷たいコンテナの感触を背中で受け止めながら、嗅覚をスウから離して、コンテナのなかにいるものへと向ける。コンテナの天井に開いた大穴、側面に走る歪んだ亀裂、そこから漏れ出す麗しい香り。ピュシスでしか嗅いだことがなかった香り。冠による感覚偽装ではない本物の香り。
植物の香り。
かつてピュシスでトネリコの植物族だった者。いま本物のトネリコの樹になりつつある者。半人の行きつく果て。ヲヌーは至人と呼んでいた。
樹はまだ若木。成長過程にある。かつて人だったことを思わせる楕円に膨らんだ根元の幹から、細い枝々が身を寄せるように伸びている。幹はすっぽりとコンテナに収まっているが、天井の穴から射し込む第一衛星のぼやけた光を浴びながら、じっくりと外へ飛び出そうとしている。
枝はつやつやと光沢のある葉によってまばらに彩られているが、花が咲くのはまだ先の話。その時を、ガラクタ広場の皆が心待ちにしている。
ロロシーはふと視線を落とす。スウはロロシーの肩に頭を乗せて、目を閉じたまま動かない。いま少女の意識はピュシスのなかにある。
偽冠を操作して、メニューの片隅に何食わぬ顔で居座っているピュシスを起動してみる。ログイン画面が表示されるが、選択できるキャラクターがいないため、そこから先には進むことができない。ライオンの肉体はもう永久に失われてしまったらしい。
ログインできないことを確認して、ロロシーはピュシスを閉じる。
ピュシスに対して未練はある。自然への憧れと愛しさがいまも胸中に渦巻いていた。素晴らしいあの場所へと戻れない寂しさ。
――けれど、ピュシスは許されざるゲーム。
ロロシーはそう強く思う。あってはならない、存在してはならないゲーム。人を人でなくさせるウイルス。
そんなロロシーの考えは、このガラクタ広場では異質であった。
ピュシスをプレイし続けて半人化がゆっくりと進行しているもの。
ピュシスの肉体が消滅して、ロロシーと同じく急激に半人となったもの。
特に後者の者たちにとっては、人が動物や植物に変質するのは望むべきことだった。
もうピュシスにログインできない、ピュシスに恋焦がれる者たち。人間が、動物や植物になれば、機械惑星が、ピュシスになる。もう会えないはずの恋焦がれたものが向こうからやってくるのだ。それを拒否しようという者は異端。機械惑星が緑と動物に満ちた星になることは誰にとっても喜ばしいこと。
確かに、夢みたいなことだ、とロロシーも思う。
けれど、ロロシーは嫌だった。血の味を思い出すたび、恍惚と嫌悪、本能と理性が脳内で揺らぐ。ともすれば本能に呑まれそうになるのを押さえて、ロロシーは必死で人間であり続けようとしていた。
友達を、家族を、人間を喰べたくない。このままピュシスの浸食が続けば、喰うか喰われるかの世界になる。そうすると頂点捕食者であるロロシーは多くの元人間を手にかけることになるに違いない。そんなことは想像もしたくなかった。
――ピュシスを止めなくてはならない。
舌の割れた男、ガラクタ広場のまとめ役であるヲヌーが言うにはピュシスを作ったのは第二衛星。それが正しいとすれば、第二衛星を止めればピュシスも止まるということになる。
機能を停止させる。もしくは物理的な破壊。
以前、第三衛星破壊騒動なるものがあったらしい。ロロシーが半人になった日。リヒュを噛んだあの時。資源採掘員を乗せた宇宙船が第三衛星に突撃した。けれど、第三衛星の防衛機能に返り討ちにされて、船は木っ端みじんに。第三衛星には傷一つなかった。
偽冠で当時の報道を調べたところ、奴隷、つまりこのガラクタ広場にいるヲヌーをはじめとした犯罪組織が声明を出して、実行したことになっている。
ロロシーはヲヌーを問いただした。
けれど、帰って来たのは、俺たちじゃない、という言葉。
ヲヌーは、警察は、というより警察を統括している第一衛星は、奴隷とは関わりのない犯罪も、奴隷を主犯として情報公開することが多々あるのだと語った。
――あれは第一衛星がやったんだ。犯人は第一衛星さ。俺たちに罪をなすりつけやがって。
ヲヌーは憤慨していたが、オートマタの破壊から、誘拐殺人まで手広く行っている罪人が主張するには少々滑稽でもあった。
ロロシーは納得半分、疑惑半分でこの話を聞いた。そもそもピュシスを作ったのが第二衛星というのもヲヌーが勝手に言っているだけで根拠はなく、狂信者の色を帯びた言葉を安易に信用することはできない。
けれど、消去法で考えるなら、ありえない、とも言い切れなかった。
ピュシスをはじめてプレイしたときの驚愕は、子供の頃はじめて自分用の学習机を買ってもらった時と同じ鮮明さで心の奥にしまわれている。
現実感に圧倒された。冠の感覚偽装を突き詰めれば、ここまでできるのだと感動もした。興味を持って、最新の冠技術に関する情報を漁ってみたりもしたが、公開されている技術を遥かに超越しているということがわかっただけだった。
神業、という表現がまさしく当てはまる。
そんな人を超えた技術を持つのは惑星コンピューター、そしてカリスの眷属である三つの機械衛星。
機械衛星たちは連係をとりながらも、論理回路が混線しないように独立した機能を持っている。
第二衛星が他の機械衛星や惑星コンピューターに気がつかれないように、行動することは理論上可能。
それに、第二衛星がなんらかの形で関わっている証拠もある。
偽冠の存在。冠の代わりにロロシーに与えられたこの模造品は、はじめにヲヌーが説明した通り、確かに第二衛星とつながっている。
通常の冠は機械惑星各所にある中継地点を介し、そこからいくつもの分岐点を通って、惑星コンピューターとつながっているが、偽冠は第二衛星と直接交信して、第二衛星自体を中継地点にすることで、カリスを欺き、半人たちを守っているようだった。
月の代わりに浮かぶ第二衛星を中継地点にしている関係で、夜につながりやすく、第二衛星が機械惑星の裏に沈んでいる昼には接続が悪くなる。
これは偽冠の通信状況をすこし調べればすぐにわかった。第二衛星は偽冠の使用者に自身の存在をなんら隠そうとはしていない。ここまであけすけだとなにか陰謀めいたものを感じてしまうぐらいだった。
ヲヌーの言うとおりかもしれない、とロロシーは考えはじめている。
人間が作ったと言われるより、よっぽど真実味がある。それに、人間が、人間を半人に変質させようとしているなど信じたくない、という個人的感情も、コンピューターが独自にピュシスを作った、という推測を後押ししていた。
では、第一衛星が宇宙船を乗っ取って、第三衛星を攻撃しようとした、という情報の真偽はどうか。
なぜ、というのが真っ先に浮かぶ。動機はなんなのか。
カリスの能力を補佐する機械衛星たちはお互いの演算結果を比較し、共に議論を交わす関係。味方同士とは言えないが、敵でもないはず。足りない処理能力を補完し合っている関係なので、ひとつでも破壊されると別の機械衛星や、カリスまでもが大きな損害を負うはず。第二衛星の機能停止を画策しているロロシーが言えた義理ではないが、機械惑星の存亡に関わる行為だ。
第一衛星。
第二衛星。
第三衛星。
そして惑星コンピューター。
途方もないことが起こっている。半人になるまで、そんな渦中に放り込まれているなど気づきもしなかった。
ピュシスはなぜ作られたのか。その行く末になにがもたらされるのか。機械衛星たちがなにをしようとしているのか。
全てを明らかにして、対応をしなければならない。第二衛星がピュシスを作ったのなら、これを停止させる。第一衛星が暴走しているなら、それも止めなくてはならない。
真実を知るものに会わなくては。
機械衛星を止める力を持つもの。
明日は星の祝日。潜入するにはうってつけの日。
機械惑星の地下深く、中核へと下り、惑星コンピューターと直接対話する。