●ぽんぽこ1 ピュシス
「化けてやがったんだ!」
タヌキの耳の奥にその声は、ずうん、と重くこだまして、罪悪感をかきたてた。キツネを助けられるのは自分だけしかいないというのが分かっていながら、名乗り出ることはできなかった。
熱帯雨林のじめじめと淀んだ雰囲気が異様な色に染まっていく。オウムが赤い花のような模様のある冠羽を天に突き立てながら、金切り声で「確かに見たんだ!」と、くり返しわめきたてている。群れ長であるキングコブラが、指し示されている巨大な木の根元に鋭い視線を放ち、副長であるアミメニシキヘビとオオアナコンダがその両側に控えた。ヘビたちに睨まれているのは太い木の根を両足でがっしりと掴んだキュウカンチョウ。光沢のある黒の羽衣を、恐怖のためか微かに震わせている。ややあって橙色の嘴を上空に向けて、翼を広げようとする気配を見せたが、群れ員たちがそうはさせまいと一斉に包囲した。
「どうなんだ? こいつはこう言ってるが」
コブラの装備しているスピーカーから声が発せられた。機械仕掛けの声色は穏やかそのものだが、長い舌をチラつかせながら、シャー、シャー、と威嚇するように噴気音を垂れ流していることから、その内心は想像に難くない。
ニシキヘビがのっそりと樹上に登り、数本の木の枝に渡って巻き付いてもまだあまりある体を、シダ植物が生い茂る湿った大地に横たわらせる。同じぐらいに長大な体を持つアナコンダは浅い沼池に体を浸し、様子を窺うように水面から瞳を出した。コブラの体長はそのふたりの半分ほどだが、それでも大きなことにかわりはない。鎌首をもたげながら、キュウカンチョウの体長の十数倍の長さがある細長い胴の先っぽについている頭の根本、月のように輝く頚部を見せつけるように広げられると、その場にいる誰もが畏怖を感じざるを得なかった。
騒がしいオウムの声が熱帯雨林に渦巻くなか、押し黙っているキュウカンチョウに対して、返答を迫るようにコブラの猛毒の牙が剥かれる。タヌキはそれを、他の者たちの後ろからじっと噛み締めるように眺めていた。そして、その心中には、埒もない思いがとめどなく溢れ出していた。
群れ戦、動物や植物族の姿をしたゲームプレイヤーたちの集いである群れ同士での戦い。それは一日がかりでおこなわれる。とは言えゲーム内の時間の経過速度は現実の六十倍であり、現実の一分がゲーム内の一時間、ゲーム内の一日は現実の二十四分に過ぎない。
その日、コブラの群れに所属しているキュウカンチョウとシシバナヘビも戦に参加していた。ふたりとも適当な用事にかこつけて不参加を表明しようとしていたが、急な欠員があったと言われては、お人好しな性格が断る判断を遠ざけてしまった。それに防衛戦ということだったので、隅々まで把握しているコブラの縄張り内での戦闘ならば問題はない、と甘く考えていた。
運悪く、群れ戦の最中に新月を跨ぐ時間帯だった。戦の終了時刻間際、新月が空に昇ろうとしはじめた時、ふたりはまったく同じ場所にいた。
そこはコブラの縄張りのなかで最も緑が深く、身を隠すのに最適だった。枝にとまったキュウカンチョウと、その足元で木の洞に飛び込もうとしていたシシバナヘビはお互いの存在に気がついた。
新月の影が降り注ぐと、ポン、と小さな破裂音と共に薄い白煙が立ち昇り、つぶらな目と切れ長の目がばっちりと合った。枝の上で器用にバランスを取っているのは、小麦色に輝く毛衣のほっそりとしたキツネ。木の洞に大きなお尻を押し込もうとしているのは、ずんぐりとした体に、目の周りが黒丸になっているタヌキ。お互いの装備しているスピーカーから「あっ」と人語が漏れて、喉は、きゅう、と驚きで縮まった。
ふたりは身を隠すのも忘れて、それぞれを眺めていた。数秒が経過してからやっと己の姿を自覚して、各々深い緑のなかに身を滑り込ませた。上空を小さな影が横切ったが、ふたりともそれに意識を向けることはなかった。
終局付近であってキュウカンチョウは索敵と伝令の役目を終えていた。シシバナヘビは遊撃要員であったが、接敵すると得意の擬死で狸寝入りをしてやり過ごし、うまく激戦地から離れていた。ふたりの不在を怪しむ者はいなかった。
その群れ戦はコブラ側の大勝で終わった。攻め込んできたラーテルの群れは小動物が大半を占めており、数こそ多かったが獰猛で気性が荒い群れ長以外に恐れる相手はいなかった。地の利もあり、植物族たちが固めた拠点を草食動物が守り、巡回している味方の肉食動物たちが敵を狩るという安定した試合運び。敵の長であるラーテルの最期は壮絶だった。毒への耐性を持つラーテルは毒蛇の大群相手に孤軍奮闘した末に、勇猛果敢にカバに挑んで踏みつぶされた。戦の終了後、ぺしゃんこの死骸であったラーテルが、縄張りの本拠地にリスポーンした際、一切戦意を失うことなく興奮気味に再戦を誓ったという話が、しばらくの間、別の群れでも話題になった。
VRMMOゲーム『ピュシス』は仮想世界の隅々まで自然がリアルに再現されており、その徹底っぷりは偏執的とも言えた。プレイヤー名や群れ名といったものを設定することができず、全てを己の知覚のみで判別するのが基本。チャット機能もない。プレイヤーはアバターである己のキャラクターの動物に備わった視力、聴力、嗅覚などが現実の感覚と接続された状態になり、それを駆使する必要がある。
メニューを開けば、ピュシスの風景においては異質である電子的な枠組みが宙空に表示されるが、その項目にしても、ステータス、アイテム、装備品などの数個が並ぶのみで貧弱なものだった。己が所属する群れの情報であっても、長と副長しか閲覧できない上に、本拠地や各拠点の状態、対戦の日程が確認できるのみ。長などという役職名に対して、その役割は群れ戦の申請受理や新規入団希望者の面談などの雑務がほとんど。構成員の一覧もないので、群れの全容の把握は長でも困難。そうして群れの構成員は長でなく本拠地に結び付けられるので、プレイヤーではなく土地に従う性質が強い緩やかな繋がりだった。
そんなゲームに、おおよそリアルとはかけ離れた要素があった。それを知っているのは一部のプレイヤーだけ。タヌキやキツネのような。
試合終了後、キュウカンチョウと、シシバナヘビはお互いを意識しつつ距離を取っていた。そうしながらシシバナヘビに化けているタヌキは、昔のことを思い返していた。
ずっと以前のこと、タヌキは自分のステータスに『神聖』という項目があるのに気がついた。野生値の上昇と共に解放されたらしかったが、何を意味するのかは不明。能力欄を眺めていると、今まで見たことのないスキルが発現していた。
”化ける”。それは、言葉通り別の動植物に姿を変えることができるスキル。
変身できるのは姿形をよく知っている動植物でなければならなかった。例えば群れの仲間たちのような。それ以外に変身しようとすると、なんだかよく分からないどろどろして身動きも取れない姿になってしまう。変身中は姿こそ同じだが、ステータスはタヌキの弱小能力据え置きで、簡単なスキルしか扱うことはできない。張りぼての風船みたいなもの。けれど鳥に化ければ空を飛べたし、大きな動物に化けて威圧することはできた。なにせ自身の知覚のみで全てを把握する世界。そのなかで姿を偽装できるのは、強烈な利点だった。見た目だけでなく、匂いや鳴き声も同じになるので、視覚以外に鋭敏な感覚を持つ者たちも容易に騙すことができた。
タヌキは新たな遊びに熱中した。流石に勝手に変身するのは良心の呵責があったので、当時所属していた群れの友人たちに、同じ姿に変身してもいいかと相談すると、みんな喜んで了承してくれた。群れ長であるフクロウもその特異な能力を好意的に受け入れて、積極的に戦術として使った。そうして、最大限に効力が発揮できるように、群れの外には絶対に漏らさないようにと箝口令を敷いた。ゲーム内で新月の夜にだけは化けることができなかったが、それを避けて群れ戦の日程を組めば問題はなかった。
本物と入れ代わって敵を引き付けたり、急に別の場所から現れて瞬間移動したように見せかけたり、空を飛んだ次の瞬間には水中を泳ぎ回って索敵や伝令に奔走したりと、八面六臂の大活躍だった。けれど、そんな楽しい日々にも終わりがやってきてしまったのだった。
タヌキの存在は不和の原因となっていた。初めはたわいもない冗談だった。ちょっとしたポカをやらかしてしまった者が言い訳に、それはタヌキが化けていたので自分じゃなかった、なんてことを言った。その場では笑って済まされた。けれど誰もがふと考えた。もしかしたら自分の姿を勝手に使ってタヌキが悪さをしているかもしれない。もしそうなった場合に弁明するのは難しいかもしれない。それからというもの、タヌキは敬遠され、距離を置かれるようになった。
タヌキは思い出を閉じた。それから、キツネのことを考えた。話をしてみたかった。秘密を知る前に何度か会話したことがあったが、どれも事務的なものばかりだった。もたもたとタヌキが悩み、躊躇していると、キツネの方から話しかけてきた。
「わたしたち、似てるみたいだね」
シシバナヘビは熱帯雨林の本拠地から出て、中立地帯のオアシスへ買い物に行こうとしていた。今にも雨が降り出しそうな曇り空に吹いた、一陣の風のようなその声の主を探すと、キュウカンチョウが頭上の木の枝にとまっていた。
「そうかな」
シシバナヘビは思わずとぼけながら、周辺に小動物や植物族が隠れていないかと舌をチロチロと出して感覚を尖らせた。舌で空気中の匂いを集め、ヘビに備わるヤコブソン器官という嗅覚器官を使っているのだ。赤外線を感知できるピット器官も駆使して調べたが、他のプレイヤーの気配はなかった。そんな落ち着かない様子のシシバナヘビをよそに、キュウカンチョウは構わずに話し続けている。
「こんな群れに所属してるけど、あまりヘビの種類には詳しくないんだ。まあヘビだけじゃないんだけどね。なにせ動植物というのは途方もない種類があって、調べているとほんとにめまいがしてくるよ。どこを向いてもはじめて見るものばかりだ」
「そうなんだ」
やや上の空の返事。ふたりの装備しているスピーカーがゆったりと震えて音を出していた。スピーカーは、このゲームプレイ中に人語を発して会話するために必要な装備。装備枠を一つ奪われてしまう上に重量によって動きが鈍くなるが、これがなければ鳴き声を発することしかできない。ゲームプレイにおける必需品と言えた。キュウカンチョウやオウムといった一部の動物はスピーカーなしに人語を発することも可能だったが、拡声器として利用するために着用していた。
今は完全に安全だということが分かり、この邂逅を先延ばしにする口実を失ったシシバナヘビがもじもじしはじめると、キュウカンチョウが傍に舞い降りた。目元から首の後ろにかけての黄色い肉垂れが陽の光を受けて輝く。
「わたしとあなた、友達になれると思うんだ」
「……どうだろう」
踏ん切りがつかないという態度が見え隠れする返答。
「あなたは何ヘビなの」
「ぼくは……セイブシシバナヘビ」
「獅子ってライオン?」
「違うよ。鼻がちょっと反り返ってるだろ。イノシシさ」
「ふうん。強そうでかっこいいね。鱗も綺麗」
「そうかな。得意技は死んだふりだよ。ひっくり返って臭い匂いを出して、口から血を吐いたりするんだ。毒は持ってるけど、麻痺させるぐらいで、群れ長の猛毒の足元にも及ばない」
淡い褐色と黄色の混じった鮮やかな斑紋をくねらせるシシバナヘビをじっと眺めて、キュウカンチョウは羽ばたいたかと思うと、大きな木の洞のなかに飛び込んだ。ポン、と音がしてゆるゆると白煙がこぼれる。暗い洞のなかに切れ長の目が浮かび、縦長の瞳孔が瞬く。
シシバナヘビは誘われるように、にょろにょろと木の幹を這い上がると、同じ洞のなかに入った。そうして自分も変身を解いた。キツネとタヌキがふたりとも収まるには洞はちょっぴり小さかった。ぎゅうぎゅうと身を寄せ合っているとなんだかおかしくなってきて、ふたりはひっそりと笑い合った。
密会をくり返す内にふたりの距離は急速に近づいていった。お互いに真の理解者にようやく巡り会えた気分だった。
タヌキもキツネもゲーム内における雑食動物の区分に属している。このピュシスには肉食動物、草食動物、植物族による三すくみがあり、植物族は肉食動物に強い。この世界においては生態系のピラミッドなんてものは存在せず、肉食動物はその頂点ではなかった。相性を制することはゲームプレイにおいて最重要。けれど雑食動物には相性差が存在しない。オールラウンダーであるとも言えるが、それは純粋な能力差に左右されてしまうということであり、それなのにほとんどの雑食動物は能力値が低く設定されていた。
ふたりには群れないという選択肢はなかった。仲間が必要で、どこかの群れに所属しなければ、この世界で生きていけなかった。群れの本拠地がなければ、敵性NPCたちが支配する土地を流浪しなければならず、ひとりでそれに立ち向かうことはできない。
そして、もし”化ける”ことのできるプレイヤー情報が広まっていたならば、タヌキやキツネであるというだけで排斥されるかもしれないという漠然とした不安がいつも付きまとっていた。今までお互いにそういう目に遭っていたのだ。幸いなのは”化ける”ことに関して、あまり噂にはなっていないこと。それを使っていた群れが公になれば汚い手を使ったして非難されかねないので、秘匿されがちだったのだ。
蜜月の日々に苦い雨が染み込んでいく。キュウカンチョウの一挙手一投足を監視する目。クルマサカオウムの濁った眼差しがじっとりと濃緑の木陰を貫いていた。オウムは見ていた。熱帯雨林の外れにある、落とし穴のように暗く沈んだ場所。群れ戦の最中に敵から逃れて、偶々その上空を飛んでいた時だった。
足元に広がる盛り上がった樹々の頭の隙間に妙なものが見えた。キュウカンチョウの黄色い肉垂れだったが、ポン、と微かな音がして、次の瞬間には小麦色に輝く毛むくじゃらのなにかに変わった。少し間をおいて、その小麦色は森のなかに隠れてしまった。
オウムは自分の目を疑ったりしなかった。このピュシスは自己感覚を信じられないことにはプレイできない。だからありのままを受け入れ、キュウカンチョウと、次に見えた小麦色の動物が同一のものであると認めた。けれど、それが不可解なことであるのも理解していた。
数名の仲間に相談してみたが、いずれも妄言として扱われてしまった。オウムは躍起になって事実を主張したが、狂気にでも呑まれてしまったのかと勘違いされる始末であった。キュウカンチョウの戦績はオウムを上回っていたので、やっかみかと思われて痛くもない腹を探られることもあった。オウムのストレスは爆発し、群れ長に進言する事態にまで発展した。そうして、キュウカンチョウを取り囲んでの騒ぎとなったのだ。
オウムは何も知らなかったが、十数分後に新月が訪れようとしていた。ゲームからログアウトすれば逃げることもできたが、それはオウムの言葉を暗に認めることにしかならない。制限時間が迫るなか、キュウカンチョウはいくつかの言い訳を並べたが、猜疑の霧のなかでは虚しく響くばかりであった。
証拠はあるのか、とキュウカンチョウが言うと、オウムは口ごもったが、それでもなお、自分の見たことが何よりの証拠だ、と豪語してならなかった。いたちごっこの口論は平行線をたどり、新月がのっそりと忍び寄っていた。
キュウカンチョウは慌てたが、オウムは興奮してしまっていて、とても説得できそうにない。そうして、一向に結論が出ないのを見かねたコブラがワタリガラスを呼んだ。
「証明しようじゃないか」
「どうやって?」
コブラの言葉にキュウカンチョウがやや棘のある態度を返した。樹上にとまった漆黒のワタリガラスの影が、夜のように覆いかぶさってくる。
「おい! ここにいる全員! よく聞け!」
威風堂々としたコブラの声がスピーカーから響いて、樹々を揺らした。群れ員たちの視線が集中する。
「風の噂で知ってる奴もいるかもしれねえが、このゲームには特別な者だけが持つ特別な力がある」
教師のように語りながら、コブラはワタリガラスのとまっている枝を見上げた。
「あの真っ黒鳥はその力を使える」
大多数の者たちはどよめきたったが、副長たちを含めた一部の者は事前に知っていたのか落ち着いて聞いている。
「とある神様の……」と言いさしたコブラの言葉に被せるように「オーディンだ」とワタリガラスの声が飛んでくる。うん、と一拍置いて気を取り直したコブラが「その神様の使いのなんとかというカラスの……」と話したところで「フギンとムニンだ」と、またワタリガラスの横やりが入る。そうするとコブラがカッと牙を剥いて、あわや毒液が飛び散りそうになったので、近くにいた者は驚いて飛び退いた。
「説明させろ。邪魔するな」
睨まれたワタリガラスは口をつぐんでそっぽを向く。
「オデンのフギ、ムニの力を使って、プレイヤーの情報を知ることができる、というわけだ」
ワタリガラスは何か言いたげな視線を宙に彷徨わしていたが、諦めたような表情で翼を竦めた。
「お前らのなかにもこうした力を持った者がいるかもしれない。プレイヤー全体の野生値の上昇と共に増えているらしい。持つ者は名乗り出ることだ。これは警告も兼ねている。隠すことはできないとな。敵にいた場合は俺か副長に直ちに知らせろ。それがこの群れの構成員としての義務だ。守れない奴、嘘つきはいらない」
演説を終えたコブラは、ふう、と息をついて周囲をゆっくりと見回す。そして、視線をキュウカンチョウの上で止めた。
「それで、だ、小鳥ちゃんよ。もしもクルクル頭が嘘をついているなら、こいつを追放することになるが……」
「嘘じゃない! 見たんだ!」
オウムが反発するように騒ぎ立てる。
「お前さんが何かを隠してるなら、出ていってもらうことになる。正直に言えば不問に……と、言いたいところだが、聞いた話によると姿を変えるということらしい。そんな得体のしれない奴を置いておくのは不安に思うわけだ」
コブラの語りはどんどん重みを帯びていく。シシバナヘビに化けたタヌキは他のヘビたちに混ざって、目立たないようにしていたが、飛び出していってキュウカンチョウを庇おうという心と、巻き込まれてしまったら、自分も居場所を失ってしまうという怖れの間で揺れていた。それに、もうすぐ新月がやってきてしまう。ピュシスの空に新月が昇る現実世界での十二分間、魔の時間帯がやってくる前にこの場を離れるか、ログアウトするべきだ。しかし、キツネの行く末を知ることなしに立ち去ることはできなかった。
ポン、と小さな破裂音がしてもうもうと白煙が舞った。全員がその光景を目を丸くして眺め、鼻をうごめかせ、耳をピンと立てた。薄く引き伸ばされた靄が晴れると、キュウカンチョウがいた場所に、燦々たる小麦色の毛衣にくるまれた獣が姿を現した。尖った鼻と切れ長の目、三角形の耳は優美な曲線を描き、ふさふさとして太い尾が垂れ下がる。
おおっ、と驚嘆の声が上がり、警戒するように群れ員たちが距離をとって、キツネを取り囲む輪が広がった。
「ほう」と感心したように前に出てきたコブラに対して、キツネは怖れることなく向かい合う。
「バレちゃったならしょうがないね。わたしはこの通りキツネ。ピュシス広しと言えど、こんな変身能力を持つ者はわたし以外にいないだろう」
「本当にそれが真の姿なのかい?」
疑り深いコブラはワタリガラスに視線で指示を送った。ワタリガラスの瞳が妖しく輝いたかと思うと、「正確にはアカギツネの亜種であるキタキツネという種らしい」と頷きが返ってくる。そうするとやっと納得したようにコブラはキツネを見据えた。
「観念してくれてありがたいよ。その力のこと詳しく教えてくれないかな」
「大した能力じゃない。鳥に変身するのが精いっぱいってところかな。だからそんなにいじめないでおくれよ」
またコブラはワタリガラスを見たが首を横に振られただけだった。ワタリガラスの特殊能力でも、キツネの力の詳細までは見通せなかったようだった。
「人聞きの悪いことを言うんじゃないやい。それに、空を飛べるなんて、俺からしたら羨ましい限りさ。……さて、とんがり鼻の黄色君はどこかの群れのスパイだったりするのかな」
「滅相もない。居場所を求めて彷徨っている憐れな動物の一匹さ」
「ふむ。しかし、証明はできまい。疑わしきは罰せよ、というのが俺の方針だ。それにお前がいることで、俺の群れの鳥どもがあらぬ疑いをかけられても困る」
一つの結論に向かって、コブラの言葉は紡がれていく。キツネはそれを悟り、自ら群れからの脱退を選択しようとしていた。群れへの所属は群れ長もしくは副長から証であるアイテムを渡されて成立する。脱退はその証をメニューのアイテム欄から破棄するだけでいい。けれど、それを強制的に破棄させる方法を群れ長だけが有していた。
キツネがメニューを操作する前に、キングコブラの顎が、ふっさりとした白い毛に被われた首元に食らいついた。深く牙が突き刺さり、強力な神経毒と細胞毒が注入される。このゲームで他のプレイヤーを攻撃することは群れ同士の戦い以外では不可能になっていたが、群れ長だけは群れ員を強制脱退、追放するための制裁という形でそれを行うことが許されていた。そうでなければ群れに居座る者が発生しかねないので、その予防策であったが、コブラはそんな狩りを楽しんでいるようだった。場所に所属する意識が強いこのゲーム内の群れにおいて、長を意識する場面はあまり多くない。しかし、この儀式においては、大いに存在感をアピールするチャンスでもあった。
群れの結束を高めるための贄として制裁を加えられるキツネの無残な姿を、タヌキは見ていることしかできなかった。こんなにも優しいキツネが、どうしてこのようにひどい目に遭っているのかという理不尽に体が震えた。新月から逃げようと、その場から離れはじめている己の心と体を呪った。群れに所属していないプレイヤーは死亡時のリスポーンがどこになるか分からない。強力な敵性NPCの集団に放り込まれる可能性だってある。そうなったら命力が尽きてキャラクターが消滅してしまう可能性が高い。
体力がゼロになり、群れの証を失い、強制的に縄張りから排除されて消えていったキツネの姿が、タヌキの瞼の裏にはいつまでも焼き付いていた。