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缶コーヒーと微かなプライドと、初恋と

作者: コンタット

「加藤君、何か飲みませんか?」


 業務の合間に少しコーヒーブレイクでもと思い向かった先、休憩コーナーの自販機前でそう声をかけてきたのは、この春、我が課の課長に着任したばかりの宮原課長だった。


 二十七歳という若さで課長職を任された彼女。

 いくら本社からの出向とはいえ異例の人事だと、長年この会社に勤める先輩も驚いていた。

 実際、着任して数週間しか経っていないにもかかわらず、難しい案件を的確な指示の元、収めてしまう手腕には脱帽するしかない。

 もちろん着任当初はやっかみもあったが、物腰柔らかく、誰の意見でも真摯に受け止めようとするその人柄に、すぐに課内の皆は懐柔されていった。今では宮原課長のファン一号を名乗る者すらいる始末だ。

 彼曰く、宮原課長は「恋愛対象ではない、彼女は崇拝対象なのだ。つまり、宮原課長is女神」とのことだが、僕にはその感覚はさっぱり分からない。


 だって彼女は僕の中学校の同級生で、そして――未だ忘れられない初恋の人なのだから。


 * * *


 中学二年のとき、僕と宮原さんは図書委員だった。

 図書委員の仕事には貸し出し手続きや本を並べることのほかに、図書室の戸締りも含まれていたため、担当曜日が同じになったペアはそのままの流れで一緒に帰ることも多く、僕と宮原さんに割り当てられた担当曜日は木曜日だった。


 最初は女子と二人で帰っているという状況に周囲の目がどうしても気になり、一言、二言で途切れるぎこちない会話しかできなかった。思春期の中学生なんてそんなものだろう。

 しかし、そのような状況も毎週続けば慣れるもので、仕舞いには、帰り道途中の自販機脇のベンチに座り、日が暮れるまで互いに最近読んだ本の感想を言い合うようにまでなっていた。


 ある日、彼女から提案があった。

 その内容は「推理小説の犯人当てをしよう」というものだった。出題者側は、その前の週に読んだ推理小説のいわゆる出題パートまでのページ数を回答者に教え、回答者側は翌週の図書当番の日までに出題ページを読み、犯人の名前を当てるというゲーム。

 

 当時すでに彼女に淡い恋心を抱いていた僕は当然のようにその案にのった。

 それどころか「せっかくなら負けた方がジュースを奢ることにしない?」なんて余計な提案を付け加えるアホさ加減。今の僕ならもちろんそんなことは口にしないが、その頃、推理小説にはまっていた僕には自信があったのだ。

 そして、犯人を当てるなんてすごいと目を光らせる彼女に対して、「こんなの僕には簡単すぎるよ。この程度の問題でジュースを奢ってもらうなんて申し訳ない」なんてかっこつけながら断る妄想が頭を埋め尽くしていた。


 でも、現実はそんな風にはならなかった。

 彼女が出題者のときには僕は推理を外し、僕が出題者のときには彼女が犯人を正確に言い当てる。僕ばかりが彼女にリンゴジュースを奢るということが数回続いたところで、彼女から再び提案があった。


「何か飲みたいジュースはない? 一緒に飲もうよ。私が奢ってあげる」


 自販機のジュースなんてたかが百数十円だ。だが、それが四回も五回も続くと中学生のお小遣いには手痛い出費となる。彼女もそのことが分かっていたのだろう。一方的に奢ってもらってばかりなのが心苦しくて、言ってくれたことだというのは僕にも分かった。

 

 自分から言い出したことなのに彼女の言葉に甘えてもいいのかというプライドと、彼女の気遣いを無駄にしてもいいのかという想い。少しの逡巡の末、僕は彼女の言葉に頷いた。


「加藤君、何飲む?」


 自販機を前にそう問う彼女に、僕はやはりかっこつけずにはいられなかった。


「コーヒー。ブラックで」


 もちろんブラックコーヒーなんて苦くて全然好きではない。それは大人となった今でも変わらない。でも、彼女の、好きな人の前ではかっこつけたかった。かっこつけずにはいられなかった。


 その日以降、僕たちはまず最初にお互いに相手の分の飲み物を買ってからベンチに座り、犯人当てゲームをするようになった。

 

 好きな人と好きなことについて話す幸せな時間。その時間に終止符を打ったのは高校入試というイベントだった。

 

 僕と彼女は同じ高校が第一志望だった。一緒に同じ高校に進学しようと言いあっていた僕らは、この関係は中学を卒業しても続くのだと微塵も疑っていなかった。

 

 でも、現実は残酷で、彼女は合格で、僕は不合格。


 別の高校に行こうが僕は彼女のことを好きなままだ。しかし、彼女に連絡をとろうとする度に微かなプライドが、彼女への劣等感が僕の手を止めるのだ。

 だから、高校入学してすぐの頃は、彼女の方から連絡が来ないかと休み時間のたびに鳴らない携帯を確認するなんてことをしていた。

 そして、毎度、連絡が無いことに失望すると同時に、何の連絡を寄越さない彼女に理不尽に腹を立てる、というガキ根性丸出しのことを繰り返していた。


 きっと彼女の方も自分だけ受かってしまった気まずさから連絡を取りにくかったのだろう。大人となった今では、そんな彼女の心境も想像できる。


 一年も連絡を取らなければ、もう僕と彼女はただの赤の他人だ。そのまま高校を卒業し、大学進学、卒業、今の会社への入社と僕の人生は彼女が居なくともつつがなく進んでいく。


 大学時代や社会人になってからも何人かの女性と付き合う機会はあった。彼女たちと過ごす日々は楽しく、幸せだった。でも、何気ない瞬間に宮原さんのことが頭を過るのだ。

 彼女たちにもそのことはなんとなく伝わっていたのだろう。振られるときはいつも「私じゃ、あなたを満たしてあげることはできないみたいだから」、そんな感じのことを言われた。


 自分でも不誠実なことは分かっている。でも、どうしようもなかったのだ。

 二年前最後の彼女に振られたとき、僕は決めた。この恋心を、初恋を抱えたまま、一生一人で生きていこうと。


 なのに、宮原さんは再び僕の前に現れた。あのときの感情は言葉では言い表せない。


 * * *


 自販機の前、僕の返事を待つ宮原さん。


 手触りのよさそうな生地できたベージュのスーツはしわ一つ無い。その高級そうなスーツをパリッと着こなし、まさにできる女といった様相でありながらも、決して隙の無い印象を与えることはない彼女は、きっと様々な経験を経て、一人の人間として、大人の女性へと立派に成長したのだろう。

 ほんのりと化粧が施された顔には、中学生の頃の面影は僅かにしか残っていない。


 対する僕はどうだろう? 

 大人になれたのだろうか?

 自分では分からない。


 でも、客観的に見て、当時は同じただの中学生だった僕と宮原さんの間には、今では途方もないほどの隔たりがある。課長と平社員、本社と子会社、ほかにも、学歴、年収、頭の良さや人望。

 僕が気がついていない差ももっとあるに違いない。


 そのことを思うと胸の奥がじくじくと痛む。


 けれども、

 

「コーヒーをお願いします」

 

 けれども、もう僕は、


「砂糖が入ってるやつで」


 些細なプライドなんかに囚われるわけにはいかない。


 ブラックの缶コーヒーのボタンを押しかけていた宮原さんが少し驚いた様子で振り向く。


 もう僕はちっぽけなプライドのために彼女を諦めることなんてしたくない!

 彼女とは不釣り合いなのだと分かっていても、彼女には僕よりも相応しい人がいるのだと確信があったとしても。


「実はブラックコーヒー苦手なんです……中学校のときは君の前だから、好きな人の前だから、かっこつけたかっただけなんだ」

 

 今言わないときっと後悔する、そんな予感に、考える前に言葉が口をついて出た。


「今でも僕は--君のことが好きだ」


 唐突な告白に目を丸くした宮原さんは、


「ゴメンね」


 そう言って僕に背を向け、自販機のボタンを押す。

 落ちてきた飲み物を取り出しながら、彼女が続ける。


「実はわたしも嘘ついてた……本当は甘い飲み物苦手なの」


 少し気恥ずかしげに振り返る彼女の手元を見ると、そこにあったのは緑茶だった。


「……なんで?」


 口から洩れたのはなにもかも端折られた短い質問。


「だって、緑茶を選ぶ中学生なんて可愛くないと思わない? ……好きな人には少しでも可愛いと思ってもらいたいでしょ」


 言い訳するよな口調で真っ赤に染まった顔を少し背ける様子は、どこかあどけなくて、そこには中学生の頃から変わらない宮原さんがいた。

 

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