23 不安の種
「どうしたのよ旦那。何か心配事でもあって?」
捨十の気分の変化を目敏く感じ取ったアケミが尋ねた。
「ほ、馬鹿だ馬鹿だと思うておったら、嫌に鋭いの」
「茶化さないでよ。色が変わったら分かるわよ」
「色?」
「ああ、顔色よ顔色。真っ青な顔しちゃってもう」
アケミが早口で言った。捨十は少し訝しがりながらも答えた。
「お嬢の事じゃよ」
「なんだか、野暮用って言っていたわね? それがどうしたってのさ」
「行く先が少々危険な場所かもしれんのでな。牛之助をつけてはおるのじゃが――」
訝しげなアケミだったが、牛之助の名を聞くと安心した様に笑顔になった。
「なんだ、牛さんがいるなら何も問題ないじゃないのよ。あたし、牛さんより強い人見た事ないわよ。今日だって、あたしの取り合いで喧嘩になった男達を両成敗にしたんだから!」
アケミがそう言って拳をぶんぶんと振り回す。
「確かに、牛之助なら百人力じゃが、しかし――」
初瀬から聞いた、得体の知れない男の話を捨十は思い出す。
まともに戦って牛之助に勝てる人間はそうはいない。多勢だろうがドスを持とうが、返り討ちにしてしまうだろう。
しかし、まともでなければ?
初瀬や捨十の理解を超えた何かが起こっていたら、それでも牛之助は初瀬を守り切れるだろうか。
「何よもう、辛気くさいわねえ。じゃあいいわ。あたしと一緒に待ちましょ。二人が無事に帰ってきたら、一杯奢って貰うわよ」
アケミはそう言って捨十の傍らに、背後の塀に寄りかかる様にして立った。
アケミが正しい、と捨十は思った。
――儂もやきが回ったかな。
逃げ隠れするばかりの人生を送ってきた捨十だ。耄碌するのも仕方ないのかもしれない。
アケミはぼんやりと夜空を見上げている。日は完全に暮れて、星が瞬き始めていた。
「あれ、おうし座ってどれだったかしら。初瀬ちゃんに教わったのに」
「あそこに赤い星があるじゃろ。あれの周りじゃ」
「分からないわ。学がないったら。まあ、あたしってそんなものね」
ふう、とアケミが溜め息を吐く。そうした時の彼女は、世間擦れした娼婦の顔ではなく、何故だかひどく幼く見える。アケミが十二階下で娼婦を始めたのは、震災で父を亡くしたために、長女のアケミが下の弟妹三人を養う必要に迫られたからだと聞いていた。
「おぬし、辛くはないかえ?」
「こんな仕事でも二年もやってるとね。もう慣れちゃったわよ」
仕事に慣れたのか、辛い事に慣れたのか、捨十には分からなかった。
「初瀬ちゃんって震災で死んだ妹と歳が近いから、何だか他人みたいな気がしないのよね」
アケミがぽつりと言った。初めて聞く話だったので、捨十は興味深げにアケミを見やる。
「おぬし、妹を亡くしておったのかえ?」
「あら、言ってなかった? 元々は私を含めて五人兄弟だったのだけど、一人逃げ遅れたの。まあ、だから何とか養っていけてるのだけど、本人にしてみればとんだ貧乏籤よね」
だから、その死んだ妹と同い年の初瀬ちゃんは何だか他人みたいな気がしなくって――と、アケミは照れくさそうに笑った。
「ほほ、牛之助も同じ様な事を言っておったぞ。娘が生きていたらきっと、お嬢みたいになっていたじゃろうと」
「やだ牛さんも? あはは、牛さんに似ちゃったら絶対に初瀬ちゃんみたいにはならないわよ」
その時、小さな人影が消えかけた街灯の先に見えた。
「あ、初瀬ちゃんが帰って来たんじゃない?」
捨十はがばりと立ち上がり、目を凝らしてその人影を確かめる。
――む?
捨十は違和感に眉根を寄せる。帰って来たのは確かに初瀬だった。しかし、様子がおかしい。誰かの背に負われて眠っている様に見える。しかも背負っているのは牛之助ではなく、軍服に黒い外套を羽織った見知らぬ人物だった。




