18 帝都の幽霊
影はそのまま牛之助の身体まで伸びていく。そしてまるで物理的な力でも持っているかの様に牛之助に巻き付き、縛りあげた。
たまらず床に倒れた牛之助は必死でもがくが、影の拘束は外れない。
「何なのよ――一体何のなのよお!」
牛之助の下の床に、黒い影の池が出来る。そこに牛之助がずぶずぶと沈んでいく。初瀬は這いつくばりながら近づき、沈みゆく牛之助に向かって手を伸ばした。
「お嬢、逃げ――」
しかし手は届かず、牛之助の身体は完全に闇の中に消えた。影で出来た池もすぐに収縮し、後に残ったのはひび割れた床だけだった。
「いやあああああああああああ!」
初瀬がこれまで必死で耐えていた何かが、決定的に切れた。感情が決壊し、何もかもがぐちゃぐちゃになって、涙と叫びが止まらない。
黒衣の男はそんな初瀬を冷然と見下していたが、襟首を掴み無理矢理に立たせた。
「さて、お前にはまだ訊きたい事がある。西村朋惠を知っているな。肋骨の事も知っている。それはいい。大方、ご学友か何かだろう。しかし――」
男が首に力を込める。
「どうしてここが分かった?」
「う、ぐ――」
初瀬が息苦しげに呻く。もはやこの男に抗する力は何も残っていなかった。
――私は、ここで死ぬの?
ここに来て、あの獣人に襲われてから幾度となく考えてきた事。しかし、初瀬は何度もそれを振り払い、力と知恵を振り絞ってここまで来た。しかしもう、その気力も残ってはいない。
牛之助が闇に飲まれた瞬間、初瀬の心は完全に折れた。
そういえば、朋惠もこの男にこうやって首を絞められて、自分はここで死ぬのかと思ったと言っていた。きっと彼女も今の初瀬の様にやられたのだろう。
――怖かったろうな。
他人事の様にそんな事を考えた。初瀬はもう諦めていた。どうせ殺されるなら『失せ物探し』について教える事もない。初瀬がここに来られた理由は謎のまま。これがせめてもの抵抗だ。
意識が霞む。
朋惠は生きているのだろうか。自分は何の役にも立てなかったけど、誰かもっと自分なんかより強い人が、朋惠を助けてくれるよう、祈った。
それから両親の事、自分達の帰りを待っているだろう捨十の事、最後に少し有馬たつきの事を考えて、意識を手放そうとした。
「そうか、どこかで見た様な気がしたが、思い出した。お前は――」
男が何かに気がついた様に呟いたのが、微かに聞こえた。
その瞬間、激しい打撃音が部屋に響いた。それに気を取られた男の手が緩み、初瀬は床に倒れ込む。
「うう――」
激しく咳き込んだ。何を考える余裕もなく、とにかく空気を吸い込んだ。
「何だ?」
男の声に初瀬はハッと振り返る。涙で歪んだ視界の先には、黒衣の男の姿がある。しかし、その目は初瀬の方を向いてはいない。
視線はこの部屋の扉の方にあった。正確には、扉があった方に、だ。
そこにあったはずの扉は、壊されていた。
そして代わりに、知らない人間がそこに立っていた。
初瀬と同じくらいの背丈しかない小柄さだが、それとは不釣り合いな軍服に黒い外套を羽織り、腰には軍刀を携えている。軍帽を目深に被っていて、表情は窺い知れないが、少年――の様に初瀬には見えた。
「やっと見つけたよ。久世純一」
発せられた声は高い。その声は少年ではなく、少女のそれだった。
初瀬はその響きに、どこか懐かしさを感じた。
「何者だ?」
久世と呼ばれた男は、ぼそりと軍服の少女に問いかける。
「――巳継剱。あるいは、帝都の幽霊と呼ばれている」




