13 死地
「牛之助さん!」
獣人の五枚の爪が、牛之助の胸元を背中から貫いていた。しかしそれでも牛之助は一瞬たりとも怯みはしなかった。凄まじい形相で歯を食い縛ると、振り向き様に肉切り包丁を獣人の脇に叩き込んだ。
獣人は宙を吹き飛び床に叩き付けられ、そのまま動かなくなった。
「ぐ、う――」
それを見届けた牛之助が膝から崩れ落ちる。
「牛之助さん! 牛之助さん!」
ハッと正気に戻った初瀬が慌てて駆け寄り何度も牛之助の名を呼ぶ。
「お嬢、早く、逃げ――」
「えっ?」
離れた所から、ガタガタと何かが動く音が聞こえた。
まだ、いるのだ。
――速く逃げないと!
しかし牛之助は立つのもままならない様子だった。初瀬は牛之助の肩を担ぐ様にして無理矢理立たせた。
今の音はどこから聞こえた? さっき初瀬達が通ってきた道からだった様な気がする。引き返す事は出来ない。違う出口を探さなければ。
初瀬はさらに奥の方へと、牛之助に肩を貸しながら進んだ。しかし牛之助の体重は初瀬が支えるには重すぎた。初瀬は歯を食い縛り、全霊の力を込めて歩みを進める。
「ぐう、うう――」
大して進まないうちに、初瀬の息は上がってしまった。慣れない力を使ったせいか、全身が痛い。口の中に塩辛い液体が入る。初瀬の視界は涙で歪んでしまっていて、口の中の液体が汗なのか涙なのかも分からない。
「お嬢、あっしの事は置いて――」
「黙ってて!」
初瀬は怒鳴る。今の事に必死で口調や態度に気を使う余裕などない。
――私のせいだ。私のせいだ。私のせいだ!
今の初瀬に渦巻いているのは自責の念だけだ。
――私がここに来るなんていったから! 牛之助さんに頼ったから!
――私がぼんやりしてるから! 牛之助さんが私を庇った!
「う、ううう――」
初瀬は歩みを止めようとはしなかった。とにかく、前に進まなければならない。立ち止まる事、獣人に見つかり追いつかれる事、それはそのまま死を意味する。
死。
それを意識した瞬間に、初瀬の胸の奥に氷の様に冷えた感覚が過ぎる。
こんな何処とも知れぬ廃工場で、朋惠を救うどころか何一つ成し遂げる事なく、牛之助まで巻き込んで、死んでしまう。
「そんなの、いやだ、よ――」
しかし、進むうちに今自分達が工場内のどこにいるのかさえよく分からなくなってしまった。先刻までは少し入り組んでいる程度の認識しかなかったが、今は大迷宮の様にさえ思えてくる。
「お嬢――もう、いいです。あっしを連れて行けば、逃げ切れやせん――」
「うるさい!」
力なく呟く牛之助に、初瀬は半狂乱になって叫ぶ。
「あっしも、昔はもう少しマシな人間でした。あっしには勿体ないくらい出来た女房もいて、真面目に働いてやした。娘もいて、あっしじゃなくて女房に似た可愛い子でしたが、九つの時に流行病に罹って死んじまった。気落ちした女房も後を追う様にして――」
歩きながら、牛之助はぽつぽつと語り出した。初瀬は、耳には入っているものの、半分も聞いていない。
「それから、あっしは酒に溺れて、落ちに落ちてこの有様でさ。もし娘が生きていたら、丁度お嬢くらいの歳頃だから、お嬢は何だか、他人の様な気がしなくて――」
「諦めないで! 一緒に、ここから、逃げるの!」
その時、何者かが駆けてくる足音が聞こえてきた。振り返るとさっきと同じ様な姿の獣人が凄まじい速さでこちらに近づいてきているのが見えた。




