9 路地裏の友人達
初瀬が浅草六区に出入りをしているのは、己の貞操を売るためではない。この捨十という高齢のルンペンは、こう見えてこの辺りの裏通りの顔役であるのだ。
初瀬は浅草の大通りで辻占紛いを行っているが、営業に法的な許可が必要ないとはいえ、そこにいるやくざ者達の認めは必要である。
国家の法に規定されていない分、裏通りのしきたりというのは厄介なもので、知らずにそれを破ると痛い目に遇わせられる。
初瀬が浅草で稼業が出来るのは、捨十の後ろ盾があるからである。
初瀬が捨十に出会ったのは震災当時の事で、彼がいつも大事に持っている巾着をなくして困っているのを、偶然見かけた初瀬が『失せ物探し』で見つけてやったのだ。
それ以来、捨十は初瀬をお嬢と呼んで下にも置かない。
「お嬢がここまで来るのは久し振りですな。して、どうですかな? 稼業の方は――」
「ええ、お陰様で上々よ。捨十やここの皆には本当に感謝してる」
これは初瀬の素直な気持ちだったが、捨十はとんでもないとばかりに頭を振って否定した。
「全てお嬢の才覚あってこそのもの。お嬢がここの皆に好かれるのも、お嬢が儂らの様なやくざ者にも分け隔てなく接するからこそ。何も遠慮する事なぞ、ないのですぞ」
「それは喜んでいいのかしら?」
初瀬がこうして捨十と話している事が親や教師に知れれば、きっと泡を吹いて卒倒するだろう。捨十達はこの社会において、そういう地位にある。初瀬とは住む所が違うのだ――と、周囲の大人は思う。
初瀬だって馬鹿ではないのでそれくらいの認識はある。
しかし、初瀬自身にはどうにもその実感に乏しい。世間がそういう風に出来ている事を頭で把握していても、感覚的には分かっていないらしい。
――世間知らずって事なのかしら?
それも何だか変だ。帝都の裏通りに通じている初瀬は、温室育ちの同級生達より余程世知に長けているはずだ。
何だかよく分からない。
結局、初瀬にとっては捨十も繭子も、同じ人間で等しく友人なのだ。
「して、何か用があるのではないですかな?」
「実はそうなのよ。大事な用事があるの。車引きの牛之助さんはいらっしゃる?」
「ああ、牛之助ならついさっき、向こうの方で起こった喧嘩の仲裁に行きましてな。そろそろ戻る頃かと思いますが――」
「牛之助さんが仲裁って、途中で面倒になってどっちもやっつけて仕舞いになるんじゃないの」
初瀬が眉を顰めて言うと、捨十は大笑いした。否定はしないらしい。捨十がひとしきり笑った所で、大柄な影がのっしのっしと歩いて来ているのが見えた。
「あっ、お嬢じゃありやせんか!」
大柄で筋骨隆々、武蔵坊弁慶もかくやという大男が初瀬の姿を見て大声を出した。ぼさぼさの無精髭と角刈りの頭に、酒に酔った様な赤ら顔をしたこの男が、初瀬が待っていた車引きの牛之助さんその人である。
「牛之助さん、貴方も『お嬢』なのね――」
「そりゃあ、捨十さんのお嬢なら、あっしにとってもお嬢ですよ」
「何よそれ」
初瀬はうんざりと言ったが、牛之助は屈託なくニコニコとしている。牛之助は表通りで人力車引きを営む傍ら、裏通りでは用心棒を行っている巨漢である。少々頭の働きが鈍い所もあるが、酒に酔いさえしなければ気の良い男である。
「喧嘩の仲裁は済んだのかしら?」
「そりゃあもう。両成敗にしてやりやしたよ!」
「ああ、そう。まあ、武士の喧嘩は両成敗っていうものね――」
初瀬は引き攣った笑みを漏らしたが、捨十はまた大笑いした。牛之助は褒められたと思ったのか、自慢げに腕まくりをしている。




