7 出発
少し肌寒くなってきた秋の頃だが、今日も日本橋は多くの人が行き交っていた。
日本橋には木屋百貨店、高島屋、三越呉服店など、有名な百貨店が集まっている。全国でも少ない大型百貨店そのものが名所であり、市電に乗って訪れる人々も多い。
そんな明るい雰囲気とは裏腹の、物騒な話題を明神は口にする。
「殺人かもしれない――ですか」
「さあな。もしかしたら思っただけだ。確かな事は実際に調べてみないと分からん」
殺人の可能性について疑っているのか、と花房に指摘された宮元は青ざめながらも否定した。
いや、否定とは違うか。
「殺人ではないと、警察はそう判断しました」
「では貴方は何を恐れているのでしょうか?」
花房はそう言った。
物事には相場というものがある。封筒の中に入っているであろう金額は表向きの依頼内容とはおそらく釣り合ってはいない。いくら宮元が経済的に裕福とはいえ、無為に金をばらまく様な真似はしないのではないか。
金額なりの事情があるのではないか?
「分かりません。分からないのです。ただ、叔父の死には、得体の知れない何かが関わっているのでは無いかと、そんな気がしてならないのです」
――殺人の可能性について疑っておいでなのでしょうか?
それで、殺人、か。
「得体の知れない何かとは、何なのでしょう」
「さあな。俺に聞くなよ」
「宮元さんは何かに怯えているようでした」
単純に叔父の自殺の動機を調査してくれという依頼だけなら、納得できる。しかし、宮元の態度はそれだけでは説明がつかないものがある。殺人者が恐ろしいのなら警察に届けるなり護衛を雇うなりすればいい話だ。
殺人でも無く、それでいて宮元を恐れさせる得体の知れない何かが、この件にはあるのだ。
「そうだな。出来れば、どうしてそう感じているのかをご教授願いたい物だったが」
それを尋ねる前に、宮元は逃げる様に探偵事務所を去ってしまった。
「花房さんが無事に叔父上の死の原因を突き止めさえすれば、解決すると考えているのかもしれませんね。だから出来れば話さずに済ましたい、と」
「こっちの仕事が増えるだけなんだけどな。一応さっき知り合いの刑事に電話で、件の自殺についてもう一度確認してくれるよう頼んでおいた。再捜査というわけじゃあないが、怪しい所があれば知らせてくるはずだ」
「ほおー。やりますね」
明神は素直に感心した。花房はこう見えて意外と人脈があるのだろうか。まあ、そうでもなければ探偵などやっていられないのか。
「勿論、ただじゃないがな」
花房は溜息を吐く。
「それで、お前は何でついて来てるんだ?」
当然の様に隣を歩いている明神に、花房が怪訝な表情をする。
「それは、しっかりこの件を解決していただかないと借金を返して貰えませんからね。店長からもきっちり取り立てるまで帰ってくるなと言い含められていますし、及ばずながらお手伝いしますよ」
「手伝いだと?」
「古物の鑑定に関しては多少心得がありますから、事件に骨董品が関わっていればお役に立つと思いますよ。助手と思って使ってください」
「限定的過ぎるだろ――」
花房が鼻白む。
今明神が花房に語ったことは嘘ではない。嘘ではないが、どちらかというと、大義名分に寄りすぎている。本来なら、前金の一部だけ預かってさようならでも一向に構わないのだ。むしろそれが普通の反応だろう。
しかし、そうする気はしなかった。
興味が湧いたのかもしれない。宮元の語った依頼と、実際の探偵の仕事と、その両方に。
勿論花房に拒否されたらどうしようも無いことではある。花房は呆れてはいたが、拒絶もしなかった。明神の鑑定眼を当てにしたかは、怪しい。というか、絶対それはない。単純に、調べ物をするに当たって一人よりも二人の方が効率がよいと考えたのかもしれない。
「あ、タクシー来ましたよ」
明神は目に止まったタクシーを捕まえた。宮元から渡された住所のメモ書きは帝都郊外を示している。歩いて向かうには流石に遠い。タクシー料金は最初の一哩は五拾銭で、以降、半利毎に拾銭掛かる。円タクならば市内均一で一円であるが、これから向かう先は日本橋から離れた郊外であるため円タクは使えない。
花房が行き先を示すと、運転手は短く「はいよ」と応じて車を走らせた。
しばらくタクシーに揺られていると、徐々に人も建物もまばらになってきていった。大正も十一年ともなれば、郊外にもかなりの家屋が建ってきていたのだが、神津深雪の屋敷の辺りはまだらしい。
やがて西洋風の館の前で、タクシーは停まった。明神と花房はタクシーから降りて館を見上げ溜息を吐く。
「これはまた豪奢な建物だな」
花房が感心した様に呟く。大金持ちが帝都郊外に建てた物、となれば何となく大きな建築物を考えていたのだが、これは明神の予想を遙かに上回っていた。
「まるで、お伽噺のお城ですね」