6 怪談
瀬川環という名前には聞き覚えがあった。一応苑緒は天文部の部長なので、文化部の集まりがあれば顔を出さなければならない。その時に見た瀬川環の姿は、銀縁眼鏡をした理知的な少女だったと思う。
『瀬川環』という単語を口にした時、松子にはうっとりと陶酔する様な表情が垣間見えた。
なるほど、と苑緒はようやく合点がいった。これがいわゆるエスというものなのだろう。先程の蓬子の説明がなければきっと、なんだこいつ――と思っていたに違いない。
今もまあまあ思ってるけど。
ただ、話を聞いた限りでは、松子が環と擬似姉妹というわけではなさそうだが。
その事を指摘すると「あ、あたしなんかじゃとても!」と顔を真っ赤にして否定された。苑緒でなくても嘘ではないと分かる。
興味が無いので話を戻す。
「それで、環さんがどうしたの?」
「その、最近お悩みがあるみたいなんです」
まるで花が萎む様に、松子はしゅんとした風情である。環の悩みは自分の悩みという事なのだろうか。
「そのお悩みについて、私に相談したいって事?」
苑緒の言葉に松子は頷く。苑緒は困った様に首を傾げた。
「そうは言っても、私は瀬川先輩とは文化部の集まりの時に何回か話をした程度で、それ程親しいわけではないのよ? 私が力になれるものかしら?」
「それは――」
松子が助けを乞う様な目で蓬子を見た。そもそも、松子と苑緒を引き合わせたのは蓬子なのだ。何か考えがあるとすればそれは蓬子の胸の内にある。
「苑緒、君は最近妙な噂が学院に流れているのを知っているかい?」
「妙な噂?」
苑緒は記憶を掘り起こそうとするが、そもそも人付き合いの極端に少ない苑緒は常に噂の情報網の外にいる。蓬子から聞いた事がないなら、それは分からないという事だ。
「ごめんなさい。降参よ」
「誰もいない夜の音楽室でピアノが、鳴るんです」
松子が恐ろしげな声で言った。
「ピアノが?」
「はい。真っ暗な音楽室でピアノが一人でに悲しげなソナタを奏でているらしいのです。それを寄宿舎に住んでいる生徒が何人も聞いていて、これは一体どういう事だろうと、噂になっているんです」
苑緒は思わず眉を顰めた。わざわざ改まって何の話をするのかと思えば、どこの学校でもありそうな怪談である。
音楽室の天井から血が滴ってピアノを鳴らすとか、ベートーベンの肖像画が夜中に勝手に動き出すとか、理科室の人体模型が勝手に走りだすとか、標本にされた昆虫の様な噂話である。真に受けるとか受けないという段階ではない。
「はあ――」
苑緒は溜め息のような曖昧な返事を漏らす。今は大正十一年。時代は科学である。今時お化けピアノなぞ、幼い童でも信じないだろう。
「馬鹿馬鹿しいって顔に書いてあるよ苑緒」
「そんなのただの噂でしょう?」
「まあ基本的には私もそう思うよ。ピアノが勝手に鳴るなんて阿呆な話だ。残念な事に現実にはそんな事は有り得ない」
でもね――と、蓬子が囁く様に言う。
「夜な夜なピアノが鳴っているのはどうやら事実らしい。複数の生徒が確かに聞いている。天井から滴った血が鳴らしてるなんていうのは眉唾だけどね。大体、血液なんかでピアノの重い鍵盤が叩けるわけがない」
「まあ、そうね。――いちいち指摘するのも野暮な気がするけど」
しかし、ピアノが鳴っている事そのものは事実であるとするなら、話は少々違ってくる。
「つまり、誰かが夜の音楽室に忍び込んでピアノを弾いていると言いたいのね?」
松子が頷く。
「そこで、瀬川環さ」
蓬子がどこか楽しげな声色で言う。
「どういう事?」
「誰かが忍び込んでピアノを鳴らすなんて、有り得ないことなんです。だって、ピアノは部長であるお姉様が、部活動が終わる時に必ず鍵を掛け、鍵は家に持って帰っているのですから」
「ああ、そうなの? だったら――」
言い掛けて、苑緒はようやく松子の言わんとする事に思い至った。
「環さんが夜中にピアノを弾いているのはないかって、疑われているのね?」
松子が悲しげに頷いた。
「なるほどね。それでどうして私にそれを――」
そう言いかけた所で、蓬子が待ってましたと言わんばかりに身を乗り出す。
「私達でそれを調べてみようよ」
「はあ?」
思わず間抜けな声が出た。言っている事は分かるが言っている意味が分からない。こんな不可解な気分は初めてだ。
蓬子は松子に聞こえない様に、苑緒の耳元に口を近づけて小さな声で言った。
「ほら、苑緒ならちょいと先輩に話を聞けば、疑いが嘘か本当か分かるだろう?」
「まあ、そうだけど」
「せっかくの機会だし。人助けだと思って手伝ってくれよ」
「人助け、ねえ――」
織川苑緒という少女は、人付き合いを厭うていて積極的に人と関わろうとはしない。だから向こうから勝手に迫ってくる三条蓬子以外に友人はいない。他人に対して余計なお世話を焼こうとはしないし、自ら物事に首を突っ込む事はないと言っていい。
だけど今の苑緒は何だか迷っている。それが自分で不思議だった。
「――分かったわよ」
時間にして少しだけ、心の内ではかなり迷ってから、苑緒はそう答えた。