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帝都の歩き方  作者: 初瀬灯
第一部 帝都の歩き方
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3 織川苑緒

 この世は嘘に満ちている。


 他愛のない女学生達の噂話、銀座の通りに貼られた張り紙、露店の客引き、道端で熱弁するアナーキスト。誰もが意識的に、無意識的に、語る言葉に嘘を交えて吐き出している。


 厳格な女教師は「嘘を吐いてはいけません」と言っていた。嘘を吐くのは悪い事である、と。そんな彼女の言葉自体が嘘であるのだから、何とも空虚な話である。


 織川苑緒おりかわそのおは嘘が分かる。


 林檎の色が赤く見える様に、ピアノの音を聞いてF音だと聞こえる様に、苑緒は世の中のあらゆる嘘を、嘘であると判別することが出来る。


 いつから苑緒がそうだったのか。もはや記憶にすらない。


 物心ついた頃から既に苑緒はそういう世界に生きていた。


 それが異常な力だと、幼いうちに気が付けたのは幸運だったと思う。

 それでも、代償は払った。


 例えば、父が不倫をしているのを、暴露してしまった事。


 ――黙っていればよかったのに。


 今の苑緒ならそう思う。

 ただ当時の苑緒には、父と母の会話中、父の言葉に嘘が混じっているのが不思議で、母の目の前でそれについて尋ねてしまった。


 ――どうして、お父様は嘘を吐くのですか?


 以来、織川家の家族関係は冷え切っている。


 父と母は一切口を利かないし、双方とも苑緒に対して腫れ物に触れる様な扱いをする様になった。特に父は、苑緒に対して怯えている様な節さえある。もう、まともな家庭には戻れないのだろうな、と思う。


 今更その事について感傷に浸るつもりは無いけれど、愚かな事をしたものだ。

 高い代償は払ったが、苑緒は一つの教訓を得ることが出来た。


 人は誰しも秘密がある。誰もが仮面を被っている。人はすぐに騙される。嘘を見抜けない。

しかし、それでいいのだ。無理に追求する必要などない。


 それが、今の苑緒の価値観だった。


 しかし、だ。それはそれとして、苑緒が感じる虚ろな感覚はどうしようもない。

 まるで、種の知れた手品を見ている様だ。


 机の上に置いてある古い天球儀を眺めながら、苑緒はそんな事を考えた。


 放課後の天文部の部室は今日も静かだ。教室にいたらきっとこうはいかないだろう。桜ヶ崎女学院に通うは良家のお嬢様方だが、皆年頃の女の子である。皆それぞれお喋りに興じていて、室内は話し声で充満している。どちらかというと苑緒は苦手だ。


 静寂の天文部を苑緒は気に入っていた。放課後はすぐには家に帰らず、ここで天体の本を読んだり、望遠鏡の手入れをしたりして時間を潰している。


「また随分とぼんやりしてるものだね。苑緒」


 不意に声を掛けられて、苑緒は我に帰った。


「ああ、蓬子ほうこ


 声の主、三条蓬子は苑緒の顔を見てにやりと笑った。いつの間に入ってきたのだろう。まるで気がつかなかった。


「ちょっと邪魔するよ」


 そう言って蓬子は、苑緒の向かいの席に座った。蓬子の端正な顔が天球儀越しに見える。


 苑緒が溜息を吐く。蓬子がいかにお喋りであるか、この女学校に通う者ならば誰もが知っている事だ。まさに立て板に水、演説家顔負けである。まるで男子学生の様な口調で機関銃の様に喋りまくる。


これはこれで見物ではあるのだが、自分に向けられるとそんな事は言っていられない。穏やかな時間はお仕舞いである。


「苑緒はエスって言葉を知ってるかい? 言葉というか、概念かな」


「エス?」


 問い返す苑緒に蓬子は頷く。苑緒は少し考えて記憶を呼び起こした。エスとは確か、sisterの略で、女学生同士の特別な関係性の事をいう、とか、そんな話だった気がする。


 よく分からない。よく分からないのでそのまま答えた。


「よく分からないわ」


「そうだろうね。君、そういうのには興味なさそうだから」


 分かっているのに何故聞く? と思ったが口にはしなかった。


 三条蓬子は苑緒の友人、なのだろうと思う。

 暇な時間に他愛の無い会話をしたり、何かの秘密を共有していたりする。そういうものが友人であるのならば、蓬子はきっと苑緒の友人と言って差し支えないはずだ。


 平民の出で、ここ最近に財を成したに過ぎない成金家系の苑緒とは違い、蓬子は正真正銘の華族である。しかも皇族の外戚でもあるらしい。まさに極め付けのお姫様だ。


 苑緒とは根本からして違う。

 その上、眉目秀麗で学業優秀、ピアノの演奏についても並々ならぬ実力を持っている、となればこれはもう全校の乙女達の憧れの的である。実際、毎日の様にご学友からの恋文が下駄箱の中に入っているというのだから、その人気は恐ろしい。


 そんな蓬子が何故いちいち自分に構うのかは、よく分からないけど。

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