32 ひとり
大変な事になった。
元々大変な事にはなっていたのかもしれないが、少なくとも緊急性のある事態は直ぐには起こらなかった。
何とか帰る方法さえ見つければそれでいい、と蓬子は考えていただろう。苑緒はこの世界にいくらか興味があったので、出来ればもっと色々調べてみたくはあった。
それが、もはやそんなのどかな事は言えなくなった。
惣也が立ち去ってしばらく経つと、苑緒を拘束していた水の球は勝手に破れた。あれの中にいる間は水の中にいる感覚だったのに、呼吸は止まらなかった。そして解放された今も制服は濡れてもいない。苑緒は急いで惣也を追いかけようとしたが、既に姿はどこにもない。
それでも惣也が向かったらしい方向に向かって全力で走った。しかし後には息も絶え絶えに途方に暮れる苑緒がいるだけだった。
「はあっ! はあっ!」
全速力で走った代償の息切れと全身の痛み。しかし足が止まる事によってある種の興奮状態は収まる。冷静になる事により強く苑緒を襲ったのは、焦燥感である。
――蓬子を助けないと。
蓬子がいなくなって、急に心細くなったのを感じる。異世界に放り出された中で、隣にいた友人がいかに心の支えになっていたのか今更ながらに思い知る。
いつの間にか、昼間といえる程の位置にまで日が昇っているのに苑緒は気付く。
何時間も走り続けたわけではない。だから普通の世界ならばあの暗さからここまで日が昇る程の時間は間違いなく経過していない。
おそらく、時間ではなく移動した距離の問題なのだろう。
苑緒はいつの間にか、常夜の通りを抜けたらしい。
呼吸を整えて辺りを見回す。
先程の常夜の通りは何となく煉瓦造りのビルヂングなどから銀座に近い印象を受けたが、ここは何となく浅草六区を連想する雰囲気だ。
表の浅草六区とは、要するに歓楽街、繁華街である。花屋敷をはじめとして多くの娯楽施設があり、活動写真館や、劇場があり、浅草公園や花屋敷には各種の大道芸が揃っている。反面、浮浪者の住みやすい環境でもあり、一種のスラム街が形成されてもいた。
帝都の明暗が渾然一体となった混沌とした街並み、それが苑緒の知る浅草だった。
そしてここは、そんな浅草によく似ている。
一つだけ違う点があるならば、往来を行き来しているのは兵隊でも丁稚でも、おのぼりさんでもない所だ。いや、そもそも人間ですらない。
それは背広を着た鼠であったり、首から上の無い人間であったりした。
――妖怪?
妖怪か化け物か、何に分類していいかも見当がつかないが、少なくとも人間ではない。
往来に行く者の多くが、人ならざる何かの特徴を持っていた。
夜中に鳴り出すピアノの真偽がどうのこうの言っていた時代がとても懐かしい。もはや七不思議どころの騒ぎでは無い。
連中が苑緒にどれ程の関心を持つのか分からないが、流石にこんな通りの真ん中にいるわけにはいかないだろう。
苑緒は細い路地裏に身を潜めた。
自分まで捕らえられてしまっては、蓬子を助けられる人間が誰もいなくなる。
今の苑緒にあるのはその一念だけだ。
平時には蓬子は苑緒にとって友人であるのかどうかすら自信が持てなかったが、今蓬子を助けたいと強く思うのは、蓬子が苑緒にとって大事な存在であるからなのだろうか。
よく分からない。とりあえず今はこれからやるべき事を考えねばならない。
これからどうすればいいのだろう。まず惣也を探し出さねばならない。でもどうやって?
「見つけたっ!」
その時、背後から不意に何者かに抱きつかれた。




