23 星空
「彼らも、裏側の住人です。御安心なさって結構ですよ。ここに居る限りは、彼らは無害ですから。何をするわけでも、何処に行くわけでもなく、彼らはただ歩き回っているだけですよ」
ここにいる限りは、という言葉に嘘はない。しかし一方で、音楽室で環が使っていたのも、この影ではないだろうかという気もする。
環の影はもっと濃く、こんな朦朧とした存在ではなかったけれど、もしこの影が何重にも重なれば、あるいは環の持つそれと同じ物になるかもしれない。
「ここは、本当に帝都なのですか?」
絞り出すような声で、蓬子は言った。
「紛れも無く、帝都ですよ」
老人ははっきりと、断言した。
「もっとも、貴女が知る帝都――世界とは異なるかも、しれませんがね」
ゆらゆらと影が揺れる。
苑緒の周りを取り囲んでいる。
何となく、苑緒は空を見上げた。星が瞬いている。
苑緒が知る帝都から見えるものと、同じ星だ。ただ遠く、果てしなく遠く、か細い光を送っている。それだけだ。
だから苑緒は星を見るのが好きだ。
――星は嘘をつかない。
人の手には届かない場所にあるから、その輝きに意図も思惑も介在しないから、見ていて落ち着く。
蓬子は観念した様に溜め息を吐く。
「お爺様。ここについて詳しく教えてくれませんか? こう、記憶の寄せ集めとか何とかの観念的な話じゃなくて、出来たらもう少し私にも分かる様にお願いしたい」
「ここは帝都の裏側の中でも、常夜の通りと呼ばれる路です。その名の通りここは常に夜――日が昇る事はありません。あの星空が固定されているのです。月は巡らず日は昇らず、星は燃え尽きる事なく、ずっと空にあり続けます」
ここは、そうした所です――と白髪の老人は結んだ。
「ではその、帝都の裏側というのは、ずっと夜だという事ですか?」
「いいえ、それはここだけです」
「はあ――」
苑緒の嘘を見抜く異能は、どんなに出鱈目な事でも相手が本当にそれを信じているなら察知しない。嘘ではないと判断する。
しかし当然、嘘を吐いてないから真実を言っている、とは限らないのだ。勘違い、狂人の妄想、苑緒の異能を誤魔化す手段はいくらでもある。
ではこの老人はどうだろう。全くもって信じがたい話ではある。しかし現在の非現実的な状況とその説明をを否定する材料を、苑緒達は持っていない。
「お爺様、この裏側とやらについて興味は尽きませんがね、私達は出来たら帝都の表の方に帰りたいと思っているんですよ。帰り道を教えて頂けませんか?」
ふむ、と老人は白い口髭に手をやる。
「君達はどうやってここに来たのですか? 表の人間が彷徨いこんでくる事は、時々はありますが、どうも何か事情がお有りの様に見えます」
「連れてこられたのですよ。多分」
「連れてこられた?」
老人の顔に一層深い皺が刻まれる。
「ええ、学校の先輩に、ね」
蓬子はこれまでの経緯を老人に語った。
「どうやら、難しい事になっているようですね」
「環先輩は何者なんです? 先輩が私達に襲わせた影は、ここでふらふらしてる影に似ている。先輩は裏側とやらの関係者ではないでしょうか? 知っている事があったら、教えて下さい」
老人は答えず、指を伸ばして路の奥を示した。
「これは実際の空ではなく、記憶の空。それを映し出す常夜の通りを抜ければ、夜明けは来ます。差し当たり、常夜の通りを抜けた先に、裏側の管理人が住む家があります。現在は不在の事が多いですが、今はおそらく――いるでしょう」
「管理人、ですか」
「ええ、普段は裏側の治安維持を仕事としています。しかし、最も重要な職責は、裏側に迷い込んできた人間を表に送り返す事です。貴女がこうなった事情は分かりませんが、管理人に会えば、何かしら分かる事もあるでしょう」
確かめる様に、蓬子は苑緒の顔を窺う。実際確かめているのだろう。この老人が嘘を吐いていないかどうか。
そしてこれまでの会話中、老人の言葉に嘘はない様に思えた。
「いいんじゃないかしら? その管理人さんが表の人間を裏に返す事を仕事にしているのも本当みたいだし」
「そうか。じゃあそうしよう。お爺様、本当にありがとうございました」
「ありがとうございました」
苑緒と蓬子は頭を下げる。苑緒が頭を上げると、老人は苑緒の顔を凝視していた。
「えっと――」
会話はずっと蓬子に任せきりだったので、不意に自分に注意が来るとどぎまぎしてしまう。
「君も、友達と一緒に表から連れて来られたのですよね?」
「ええ、そうですけど――」
環の口振りからすると、むしろ苑緒が標的で蓬子がついてきたのは予想外の出来事であるという印象だった。環の目的が全く不明な現状では、その情報も特に使い道がないが。
老人は苑緒の顔をまじまじと見る。
「君は表の人間とは異なる魂を持っていますね」
「え?」
苑緒は思わずドキリとする。まさか、異能の事を言っているのだろうか。
「裏の者とも表の者とも違う。両方の性質を持った魂、まるで『彼女』のような――」
老人は遠い目をして呟く。苑緒はただ困惑するばかりだ。
「彼女、ですか?」
苑緒に聞き返されて老人はハッと我に返る。
「失礼しました。どうぞ、お忘れ下さい」
自分の呟きを後悔するかの様に苑緒に謝った。
忘れるも何も、そもそも意味が分からないのだが。
「どうぞ、お気をつけて――」
老人は言った。今の言葉について説明するつもりはないらしい。苑緒も追求する価値があるのかどうかも分からないので、あえて深く聞こうとは思わなかった。
それから苑緒と蓬子は老人が指し示した通りに真っ直ぐに歩みを進めた。
先に進むに連れて、月は少しずつ沈み、東から朝日が昇ってきた。そう何時間もかけて夜通し歩いていたわけではない。精々、一時間程度の道程を歩く間の出来事である。
「何というか、本当に異世界にいるんだなって実感するよ」
蓬子は空を見上げて呟いた。




