22 裏側
――大丈夫、私は誰にも言わないから。
一瞬、脳裏にかつての映像が浮かぶ。
幼い少女、苑緒だ。若い家政婦がいる。千代だ。
苑緒は彼女に声を掛ける。小さな声で、囁きかける様に。
これを思い出したのは久しぶりだ。ずっと忘れていた事なのに。
もしかしたら、これがさっきの夢なのか。
なるほど。魘されるわけだ。
生まれてきたのを後悔するような、自分自身をばらばらに引き裂いてしまいたい感覚。
「私は、どうしてたの?」
「えっ?」
「寝言でも言っていたのかしら?」
「ああ、うん。――ごめんなさい。ごめんなさいって、誰かにずっと謝ってたよ」
「そう――」
蓬子は、これ以上は何も問わなかった。しかし、心配そうな顔をしていた。
我が事ながら、何を謝っていたのやら。
さらに蓬子に聞かれたというのも、嬉しくない事実ではある。しかしそれを表に出すと余計に気を遣われそうなので、これ以上触れないでおく事にする。
「ん? 何か聞こえないかい?」
蓬子が不意に立ち止まり言った。
「えっ?」
「静かに」
蓬子は口元に人差し指を重ねて黙るよう促す。苑緒も大人しく耳を澄ませる。
小さく、ヴァイオリンの音色が聞こえてくる。
幻想的な世界に、やるせない悲しみを零したような、そんな曲だ。
「『秋の歌』かな。チャイコフスキーの」
「そうなの。よく知ってるわね」
「淑女の嗜みだよ」
蓬子は実家からして、教養についても厳しく指導されているのだろう。苑緒の家庭は爵位持ちの高貴な家柄というわけではないが、それ以前の問題として苑緒は上流階級の女子としては考えられないほど放任されているので、蓬子の様に淑女としての教養を詰め込まれるという事もない。自由というか、ただ宙ぶらりんなだけかもしれないが。
「こっちから聞こえてくるよ」
「人がいるかしら?」
「チャイコフスキーなんて鳴らしてるのだから、ルンペンや暴漢じゃない事も期待できるんじゃないかな。あんまり誰もいないのも困るけど、危ない奴にぶち当たるのも避けたい所だったしね」
二人はヴァイオリンの音の元に向かった。
立ち並んでいる無人の露店の一つに、レコードが掛かっているのを苑緒は見つけた。
そしてその奥に、白髪の老人が背中を丸める様にして座っていた。
苑緒と蓬子は互いの目を合わせる。この老人に声を掛けてみよう。目だけでそう語り合って、二人は老人のいる露店に歩み寄った。
「すいません。お仕事中申し訳ない。私達、道に迷って困っているんです。ここが何処なのか教えて頂けませんか?」
口下手な苑緒ではなく、当然の様に蓬子が老人に声を掛ける。何時ものような横柄な語り口ではなく、流石に敬語を使っている。
ずっと俯いていた老人は、話しかけられて初めて蓬子達に気がついたと言わんばかりにちらりと視線を上げた。
「君達は?」
「えっと、私達は桜ヶ崎女学院の生徒です。それがどうしてこんな時間にこんな所にいるのかというと、私達自身でも分かってないのですけど。ここは帝都のどの辺りなのでしょうか?」
老人は何も言わず、ただ苑緒と蓬子の顔を見比べた。
レコードから漏れるヴァイオリンの音が途切れ途切れに聞こえる。
ここは何処なのか?
その問いに対して、苑緒はずっと、予感めいたものを感じていた。
目が覚めて、蓬子と共に歩いている間も、ずっとその感覚は拭いきれないでいた。
ここは、今まで苑緒が生きていた世界とは、違う場所なのではないか、と。
――ここは、帝都の裏側です。
老人がゆっくりと口を開いて、言った。
「帝都の、裏側――?」
蓬子は掠れた声で反芻する。老人はこくりと頷く。
帝都の裏側。何だろうそれは。聞いた事のない単語である。
しかし一方で予感が確信に変わっていくのを感じる。
「人々から棄てられた、記憶から忘れられた我楽多の寄せ集め。ここは、そういうものです」
老人は言った。一言一句意味不明である。
しかし彼は、何一つ嘘を吐いていない。
「お爺様、ここには――帝都の裏側には、貴方しか人間はいないのでしょうか?」
蓬子が質問を重ねる。このままでは埒が開かないと思ったのだろうか。質問の趣旨を少しずらしている。
ここは異世界である。そういう思いを抱いて、通りの向こうに目を向けると、今までとは違う物が見えた。
――いる。
どうして気がつかなかったのだろう。苑緒が目覚める前も、その後も、歩き出してからも、多分ここに来てからずっと、あれは苑緒達の傍にいたのだ。
人の形をした薄い影の様な物が、ゆらゆらと往来を行き来している。
彼らは余りにも薄っぺらで、存在そのものが幽霊の様に曖昧だった。
こんなにも儚げであるから、ここが異世界であると分かるまで、苑緒は気がつかなかったのだろう。
正気の世界には有り得ない存在であるから。
ならば今、苑緒は一歩、狂気の世界に踏み出したというのだろうか。




