15 明神顕彦
さて妙な事になってきた。
道理で妙に金払いがいいわけである。何かしら危険を伴う可能性が生じるであろう事は予感していたものの、まさかこんな非現実的な出来事に遭遇するとは思ってもみなかった。
神津深雪を見張っている奇妙な影。
思わず愚痴りたくなる。
花房は探偵であって霊媒師ではないのだが。
まあいい。そろそろ纏まった金が必要な時期だった。如何に奇妙な事件であってもここで手を引くという選択肢は花房にはなかった。であれば気弱に振る舞うのはよくない。深雪達の前では勇ましい事を言ったのは、九割方それが理由である。
「煙草を吸っても大丈夫ですか?」
深雪が頷いたので花房は煙草に火を点けた。
もっとも、深雪達も随分と人を食った連中である。主従を入れ替わっていた事からもそれが感じられる。口ではどうか助けてくださいなどと言っていたが、どれだけ自分達があてにされているかは計りかねる。
とはいえ、何も当てが無いわけでもない。
ここまで勝手に突いて来た和装の青年を見やる。
骨董屋『薄月堂』の書生、明神顕彦。
こいつはこういう展開を見越して付いてきたのだろう。ならば多分、物の役には立つだろう。
「おい明神」
「なんですか?」
「お前、あれについて何か知ってるだろ。話せ」
花房の言い草が気に入らなかったのか、明神は僅かに眉を顰めた。
「いいですけど、僕だってそんな詳しい訳ではないですからね」
「構わない」
ふう、と明神は溜息を吐く。
「あれは帝都の裏側にいる影だと思います」
「帝都の裏側?」
また妙な単語が出てきた。明神の言っている事の意味はまだよく分からないので花房には評価のしようがないのだが、今はそれよりも花房の目を引く物があった。
神津深雪と奥山雲雀が、明神の言に驚愕の表情を浮かべていたのだ。
『薄月堂』の遠野文はこういう非現実的な出来事に詳しい。だからその書生である明神も何か知っているのではないかと花房は考えた。それで出てきた単語が帝都の裏側、である。
幽霊や天狗の仕業等と言っているのではない。
この場合、初めてそんな単語を聞いた花房と同じ様に、怪訝そうな顔をするのが自然ではないだろうか。ここで驚くという事は、帝都の裏側というものについて、彼女らも知っているからではないか。
明神に先を話すよう促す。
「店長から聞いた事があります。帝都のどこかに、表から弾き出されたものが住まう、帝都の裏側が存在する、と」
「表から弾き出されたもの、っていうのがあれなのか?」
得体の知れない影。狂気の世界の住人。
明神が頷く。
「帝都の裏側には薄ぼんやりとした影みたいなのが往来にいるらしいですけど、あれは少々勝手が違いますね。あの影は、誰かに使役されているのではないかと思います」
「使役?」
「例えるなら、魔術師が使い魔を放つようなものですよ。誰かが何かの理由であの影を放って神津邸を見張っているのは間違いないかと思います」
花房は再び窓の外を見た。件の影はもう消えてしまっている。誰かがあれを放ったというのならば、その誰かが神津直の死に関係している可能性は大いにあるだろう。
「でもこの屋敷の周りには強力な結界が張ってあるみたいです。立派な建物なので神事等きっちり行ったんでしょうかね? だからあれがここに入っては来られず、遠巻きに見張っているばかりなのでしょう。さしあたってはこの屋敷から出なければ危険はないかと思いますよ」
深雪が困った様に首を傾げる。
「とはいっても、ずっとここに籠もっているわけにもいかないですから――。今は父の事があって演奏活動は休止していますけれど」
いつかは再開したいと、当然の事である。
「ならば身の安全を確保するためにも、必ず犯人を捕まえなければなりませんね。――そういう魔法使いじみた人間に心当たりはありますか?」
深雪は首を横に振った。
「いえ――」
「では、帝都の裏側という物を知っていましたか?」
深雪は顔を伏せる。今度は答えないつもりらしい。
花房の勘だが、彼女はこの事件についてある程度の事は知っているのではないかという気がする。答えないのは、話せない事情があるからなのか、花房達の事が信用出来ないのか。
「明神、あの影の使役者とやらを逆探知して追跡する事は可能か?」
話す気が無いのなら今無理に問い詰める必要は無いだろう。今出来る事をやって、事情は機を見て聞き出せばよい。
「不可能――ではないはずです」
「頼りない返事だな」
明神は苦笑した。
「単純に走って追いかけるというわけにはいかないですからね。やってみなければ分からないとしか言えません」
「じゃあやれ」
はいはい分かりましたよ――と明神は溜息まじりに懐から何やら札を取り出した。
「何か書き物はありますか?」
ではこちらをお使い下さい、と深雪が明神に筆を渡した。
「では一筆失礼します」
明神は札にさらりと『蹟』という文字を書いた。




