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帝都の歩き方  作者: 初瀬灯
第一部 帝都の歩き方
11/180

10 影

「影?」


 訳が分からない花房はただ言葉を繰り返す。


「人の形をした影の様な物、と言えばいいでしょうか。窓から外を見ると、そんな得体の知れない影が、じっとこちらを見ているのです。きっと、私を見張っているのでしょうね。それはまだ家の中までは入っては来ません。しばらくすると、いつの間にか消えています。まるで煙の様に」


 神津深雪の表情も、語り方も淡々としている。話をもっともらしく見せよう等という外連味がまるで感じられない。ただ、あるがままを語っているだけに過ぎない。そんな態度である。だから、この話を明神達が信じたとしても、特段不思議な事では無いだろう。内容がここまで突飛でなければ。


「勿論、信じられませんよね」


 そう言って、深雪は微笑んだ。どこか、妖艶な笑みだった。


 ゆらり、と立ち上がる。


「私は父の死について調査をするのならば協力は惜しまないと言いました。その言葉に偽りはありません。しかし、それは探偵様が調査を続けるならばのお話です。いいですか? ここが貴方方の分岐点です。今、貴方方は正気の世界にいます。しかし、父の死を調査するならば、必ず狂気の世界に足を踏み入れる事になる。狂気と正気は地続きです。あるいは双方が重なり合う様に存在している。しかし、境界はあります。それを踏み越える覚悟は、お有りですか?」

 深雪は窓の方を指差した。窓にはカーテンが掛かっている。


 明神と花房は目を合わせた。深雪の話を真に受けるなど、本来ならば有り得ない。理性と論理は下らない戯れ言だ聞き流せ、狂っているのは深雪の方だと告げている。


 しかし、一方で深雪は本当の事を語っているのだと、自分の心の中の何かが信じていた。

 どちらからともなく立ち上がり、そっとカーテンの隙間から窓の外を見る。


 これと示されずとも、一目で分かった。


 影だ。


 何か得体の知れない黒い影が、庭先にぽつりと立っている。

 それは真っ黒でありながら人型をしていて、表面は陽炎の様に揺らめいている。全身が暗闇の様で顔も何も認識できたものではないが、それでも何故か、そいつがこっちを見ている事が本能的に分かる。


 明神と目があった事も、本能的に分かってしまう。


「う――」


 激しい寒気に襲われて、明神は思わず目を逸らした。


 次の瞬間には、影の姿が消えていた。


「今のが、影――ですか」


 花房が言った。普段は飄々とした花房であるが、今は少し青ざめている。


「お分かりですか探偵様。今の影は確かに存在する物。私達はずっとあの影に付き纏われているのです。頼りにしていた父は亡くなりました。もしかすると、あれの仕業かも知れません。もしも私が暴漢に狙われているのであれば、いくらでも護衛を雇います。きっとそれで済む話です。しかし、あれは違う。狂気の世界の住人が私達を狙っています。探偵様、正気と狂気の境界を踏み越える覚悟がお有りなら――」


 深雪の声は、震えていた。


「どうか、私達をお助けてくださいませ」


 明神は花房を見た。明神は宮元の話を聞いて、もしかしたら花房の力になれるかもしれないと思って、花房に随行した。そしてその予感は当たっていたらしい。


 この影。得体の知れない現実離れした影。


 しかし、花房がこの件から手を引くというのであれば、それは仕方の無い事だ。旨い話は裏があると言うが、宮元の高額報酬はきっとこれが原因だったのだろう。


 もしかすると宮元自身もあの得体の知れない影を見たのかも知れない。それも含めて調査をさせるために花房に依頼したのだろう。


 事務所でその話をしなかったのは、きっと実物を見ないと頭のおかしな人間と思われてお仕舞いだと考えたのだろう。


 果たして、花房は笑みを浮かべていた。


「大丈夫ですよ。私は既に依頼を受けていますからね。探偵として、依頼は達成する覚悟です」


 深雪は驚いた様に目を見開いた。


「やるだけの事はやってみましょう。あれを相手にどれだけの事が出来るか含めてね」

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