序章
なろう初投稿です。よろしくお願いします。
――ここは帝都の裏側です。
白髪の老人は嗄れた声で言った。
昏い街並みであった。古ぼけた露店が路の左右に雑然と並んでいるが、どこにも人はいない。その奥に並んでいる煉瓦作りのビルヂングにも、やはり人の気配は無い。
ただ、ガス灯と月の光が、冷たい街並みにぼうとした灯りを注いでいた。ただ、遠く見える空は赤色だ。星や月は深夜のそれなのに、空の果てだけが何故だか深紅に染まっていた。
老人の店の奥から、チャイコフスキーの『秋の歌』のレコードの音が小さく、途切れ途切れに聞こえて来る。
まるで、世界にはこの音しかないかの様に。
「帝都の、裏側――?」
三条蓬子は掠れた声で聞き返した。
老人がこくりと頷く。
蓬子は横目でちらりと、隣に立っている織川苑緒の顔を窺う。しかし、彼女の表情にはこれといった変化は見られない。彼女の持つどこか昏い瞳は、ただ静かにこの不可思議な街並みを映している。
「人々から棄てられた、記憶から忘れられた我楽多の寄せ集め」
ここは、そういうものです――と老人は言った。
「お爺様、ここには――帝都の裏側には、貴方しか人間はいないのでしょうか?」
レコードの音が途切れる。同時に世界から音が消えた。
老人は皺だらけの顔を歪ませた。
「よく目を凝らして御覧なさい」
蓬子は言われるままに街路を凝視する。
人型の、薄い影の様なものがいくつも、ゆらゆらとした足取りで往来を行き来しているのに気がついた。それは余りにも薄く、通りの向こう側まで透けて見える様であった。これほど希薄であったのだから、きっと老人に言われるまで気が付かなかったのだろう。
「彼らも裏側の住人です。御安心なさって結構ですよ。ここに居る限り、彼らは無害ですから」
何をするわけでも、何処に行くわけでもなく、彼らはただ歩き回っているだけ、らしい。
「ここは、本当に帝都なのですか?」
蓬子は、そう尋ねずにはいられなかった。
違う。ここは、蓬子が今まで生き、育って来た帝都とはあまりにも異なっている。
「紛れも無く、帝都ですよ」
老人ははっきりと、断言した。
「もっとも、貴女が知る帝都――世界とは異なるかも、しれませんがね」
ゆらゆらと影が揺れる。
蓬子の周りを取り囲んでいる様だ。
老人は、ここに居る限りは、彼らは無害だと言っていた。
では、ここにいなければ?
苑緒が黙って空を見上げる。見えるのは月と、深紅に染まった空の果て。赤と黒の夜空。
苑緒の青白い、陶器の様な肌がここの不可思議な光に映っている。
その姿はまるで、初めから彼女がこの世界の住人であるとでもいうかの様に感ぜられて――蓬子は思わず目を背けた。