実方岐顕
「よう、何か食えよ」
実方岐顕が目を覚ますと、岐顕の息子、龍顕を抱いた、岐顕の曾祖父である実方顕彦が顔を覗き込んでいた。
目が大きい。
「…あ、彦じぃ」
岐顕は、自室の床の上で、大の字に寝転がって、其の儘眠っていたらしい。
最後に食事をしたのが、何時か思い出せない。
Tシャツとジーンズ姿の岐顕の腹の上に、顕彦が龍顕を乗せた。
龍顕の口から、長い涎が糸を引いて、岐顕の胸元辺りに垂れた。
「うおっ?」
岐顕が驚いて声を上げると、顕彦が、お、悪ぃな、と言って、龍顕を、もう一度抱き上げ、龍顕の涎掛けで龍顕の口を拭いた。
抱き上げられた龍顕は、顕彦に、しがみ付き、顕彦の顎を、ガジガジと齧った。
「こら、龍。こいつ、俺の髭が伸びると直ぐ、こうやって顎を齧って来るんだ」
美味くないから止めとけ、と言って、顕彦は、自分の顎から龍顕を離し、ガーゼハンカチを龍顕に渡した。
龍顕は、不満そうな声を出しながらも、ハンカチをガジガジ噛んだ後、しゃぶり始めた。
歯が伸びて来てるのかねぇ、と顕彦が言った。
「歯が痒いんだろう。何でも齧る」
岐顕が腑抜けになっているので、親戚中が挙って、未だ赤ん坊の龍顕の世話をしてくれている。
特に、曾祖父の顕彦には一番龍顕が懐いていて、岐顕は申し訳ない気分になる程だった。
しかし、分からないのだ。
今が何月何日で、自分が今日何をしていたのか、殆ど思い出せない。
岐顕は、自分のTシャツに付着した息子の涎の染みを見詰めた。
「岐、兎に角、何か食え。如何したって、龍を育てていかなきゃなんないんだからよ。其のまんまじゃ、令一の阿保から、親切ぶった顔で再婚の話が来るぞ」
「うっ…」
岐顕は、其の名を聞いただけで吐き気を催した。
いけね、と言って、顕彦が、岐顕にビニール袋を手渡した。
準備の良い事である。
対して吐く物が無いのに散々吐いた岐顕に、顕彦は、歯を磨いてから食事をしに来い、と言った。
岐顕は、素直に従った。
妻の理佐が亡くなった。
無残な首吊りの状態だったという。
仕事で福岡に行っていた岐顕が家に戻った時には、全ては終わっていた。
畳は取り替えられていて、遺体は見せてもらえなかった。
見ない方が良いと言われた。
多分、令一に殺されたのだ。
だが其れは、岐顕には、よく分からない事だった。
呆然自失の儘、龍顕を抱いて葬儀に出た。
話し掛けられる声が、全て遠くに聞こえた。
―理佐って、如何して死んじゃったんだっけ。俺のせいなんだっけ。いや、理佐って、如何して今、居ないんだっけ。
令一のせいらしい事は岐顕にも分かった。
しかし、酷い状態だというので遺体を見せてもらえなかったから、岐顕には、理佐が死んだ事が、よく理解出来なかった。
―理佐は今何処に居るんだっけ。俺が仕事で居なかったから、俺のせいなんだっけ。
分かるのだ。
葬儀も出した。
家の何処にも理佐が居ない。
分かっているのに、世界の全てがソフトフォーカスで、音も聞こえ難くて、何をしたのか、何をしなかったのか、全く覚えている事が出来ないのだ。
父か曾祖父、大叔母に指示されないと何も出来ない。
歯を磨け、と言われたから歯を磨き、風呂に入れと言われたから風呂に入る、という具合だった。
其れも、其の日の、何時に遣ったのだか思い出せないのだ。
「あ、此れ、理佐にも食べさせないと」
食事をしながら、つい、そう言ってしまってから、岐顕は、ハッとした。
牛肉の時雨煮は、確かに理佐の好物だった。
岐顕は、理佐が居なくなってからも、つい、未だ居る様な気がして、こういう事を自然に口走ってしまうのだ。
食卓が沈黙に包まれる。
「おう、そうだな。向子、頼むわ」
龍顕に離乳食を食べさせていた顕彦が、顔色一つ変えず、岐顕の大叔母の向子に、そう言うと、向子は、少し躊躇いがちに、はい、と言って、小鉢に少し時雨煮を取り分け、何処かに持って行った。
遺骨の前に置いてくれるらしい。
岐顕の父、宗顕が、立ち上がって、龍顕の口を拭いた。
潰した人参のベビーフードで、口の周りがオレンジ色になっていた。
顕彦は、おお、宗、悪ぃな、と言った。
「こら、龍。人参より涎掛けが好きなのか。そんなもんガジガジ齧るなら、人参食え、人参」
顕彦が龍顕を窘める。
龍顕は、宗顕に口を拭かれて以降、勝手に食事を止めてしまい、食事の汚れ避けに付けられた涎掛けの方を口に入れて、ガジガジ噛んでいる。
おかしいな、と岐顕は思った。
―如何して俺が、遣ってないんだろう。
御供えも、息子の食事も、如何して自分で遣っていないのだろう、と、岐顕は、ぼんやりと思った。皆に遣ってもらっている。
―如何して、理佐が居ないんだっけ。
自分で何かしないと、と思うのに、身体が全然動かないのだ。
戻って来た向子が岐顕を窘めた。
「岐。食べるのを途中で止めないの」
「あ、はい」
岐顕は、箸と飯碗を持った儘、動きを止めていたらしい。
岐顕は、食事を再開した。
おかしいな、と岐顕は思った。何もかもが、あまりよく分からないのだ。
龍顕が泣き止まない。
岐顕は如何して良いか分からなくなって呆然としていた。
龍顕がパンを残したのである。残ってしまったパンを、岐顕が食べてやったのだ。そうしたら龍顕が、食べるんだったのに、という様な趣旨の抗議をしてきて、其れ以降、ずっと泣いている。
頭の中で、龍顕の泣き声が、ワーンと反響する。
龍顕の顔が、ぼんやりして、良く見えない気がする。声も聞こえ難くなってきた。
岐顕は、別にパンが食べたかったわけでは無かった。如何して、こうなったんだっけ、と、岐顕は思った。
「如何した、龍。岐、おい、如何した?」
顕彦が、台所に駆け付けてきて、龍顕を抱き上げた。
「あ、岐。御前、頭痛い時の顔をしてるぞ」
「…え?」
「薬飲んで寝とけ」
顕彦に言われて気付いたが、確かに頭痛がする。
岐顕が呆然としていると、顕彦が、龍顕を抱きながら走って、鎮痛剤を持ってきた。
そら、と言って、水を入れた硝子のコップと一緒に、錠剤を渡される。
岐顕は素直に飲んだ。
駆け回る顕彦に抱かれていた龍顕は、何時の間にか泣き止んで、キャッキャッと笑っていた。
顕彦は、あ、と言った。
「何だ、アンパンマンのパン、空っぽじゃねぇか」
龍顕が、アンパンマン、と言うと、分かったよ、と言って、顕彦が、龍顕を抱いた儘、新しいパンを戸棚から出して袋を開け、龍顕に渡した。
「有難う、って言え」
「がと」
「よし、御礼言えて偉いな。頂きます、って言え」
「いーたあーきましっ」
龍顕は、手を合わせて、そう言ってから、パンを手掴みでモグモグ食べながら笑った。
―あれ、そう言えば、ちょっと喋ってるな、龍。此の子は離乳食、何時終わったんだっけ。
岐顕が呆然としていると、寝とけ、と顕彦が言った。
「茄子みたいな顔色してるぞ」
「あ、いや、今日は、仕事の電話をしないと」
「いや、無理だ。向子には言っておいてやるからよ。寝ろ」
「いや、大丈夫。電話しようかと思っていたら、龍がアンパンマンのパン食べたいって言ったから、出してやって。それで、残したから食べたら、未だ食べるんだったって泣かれて」
「御前、アンパンマンのパン取っちゃったのかい。そりゃ泣くよ」
「いや、取ったわけじゃ無くて」
「そんな説明しても、こいつは未だ聞く耳持たねぇぞ。輪ゴムか何かで袋の口括っとけ。次からは残しておいてやれよ。…懐かしいなぁ」
「え?」
「誰かさんが、宗が、自分の残しておいた何かを食べたって大騒ぎして泣いて。あとは、菓子パンか何かを平と取り合いしてたなぁ。新しい菓子パンが出てくるまで黙らない、黙らない。俺ぁ軽トラに乗って、買いに行って、ストックしておいてな。喧嘩にならない様に。こりゃ、其の時の癖が役に立ったな」
「…あ、俺も似た様な事してたの?」
「そうだよ。安心しろ。こいつも、どうせ、遣ってもらった事ぁ覚えちゃいねぇよ」
頭痛がマシになってきたせいか、岐顕は先刻より龍顕の存在がクッキリ見える気がした。
顕彦に抱かれて、ニコニコしながらパンを食べている龍顕は、凄く可愛い顔をしていた。
「あ、岐。だから、寝てろ。俺が向子に電話するわ」
「え?」
気付くと、岐顕は、ボロボロ泣いていた。自分が泣いている事に気付かなかったのだ。
「もう一回言うぞ。今日は無理だ。飯の時起こすから寝てろ。…でも、泣けるようになったのは良い傾向じゃないか」
自室で横になりながら、岐顕は泣いていた。
如何して泣いているのか自分でも分からないのだが、涙が止まらないのだ。
岐顕の母、依は、岐顕の双子の兄、顕平と、岐顕を産んだ時に亡くなってしまった。
父の宗顕は、其れこそ再婚もせず、二人を育ててくれようとした。
祖母の瑛子から、縁起を考えて、双子は離して育てろと言われたのにも関わらず、一緒に育ててくれた。
しかし、顕平は二歳で亡くなった。岐顕は、兄の事を殆ど覚えていない。
祖父の貴顕は疾うに亡くなっていたが、岐顕は、曾祖父の顕彦、曾祖母の安幾、祖母の瑛子、大叔母の向子に育てられた様なものである。
しかし、安幾も瑛子も既に亡くなった。
そして。
理佐も、如何やら、もう、居ないらしいのだ。
そんな事は分かっている心算だったのに、岐顕は、最近、やっと少し分かってきたらしいのだった。
龍顕が、幾ら泣いても、理佐がやって来ないのだ。
―何で皆死んじゃうんだろう。
岐顕は、答えの出ない問いを抱えた儘、ただ只管、目から涙が出るに任せていた。
腹の上に重みを感じて目を覚ますと、岐顕の上に、龍顕が、ピトッとくっ付いて寝ていた。
顕彦が、起こしちまったか、と言った。
「其処で寝るって聞かなくてよ。具合が良くないところに悪いが、龍、熱が有ってな。飯の時間までで良いから、抱いて寝といてくれないか」
「え?熱?」
「今日は特に、午前中から聞き分け無かったろ?若しかしたらな、と思ったら案の定、発熱だ。食欲が有ったのは、あの、パン食べてた時っきりで」
「え、龍、熱が有ったの?」
岐顕は慌てた。
落ち着け、と顕彦が言った。
「歯が生える頃は、よく有る話よ。龍は、年頃の割には熱出さない方だぞ。大した事ぁ無いが、医者呼んでるからよ。さっき水分も摂らせたから、脱水もしないだろう。ちょっと抱いておいてやってくれ。眠れてるようなら、今は熱が上がって来てない証拠だよ。熱が上がる時は、泣いて寝ないからな」
「…だから愚図ってたのかな」
「分からねぇな。未だ気分を言葉に出来ない年だからよ。熱が有ろうが無かろうが、腹が減ってりゃ不機嫌だし、眠たきゃ泣くし、喉が渇けば文句言うぜ」
岐顕は、泣きながら龍顕を抱き締めた。
ピー、ピー、と、鼻が詰まった様な音を規則的に立てながら、目覚めない。
大丈夫だよ、と顕彦は言ってくれた。
「頬っぺたは真っ赤だが、よく寝てるじゃないか。泣くな、泣くな。…なぁ、おい、一回だけ、御節介言うぞ。再婚しないか?別に令一の話に乗るわけじゃねぇけどよ。そういう話も有るってこった」
岐顕は、泣き顔を上げて、曾祖父を見た。
「御前一人で育てられるか?御前が、再婚が嫌だって言うなら、家族で手伝うけどよ。実際のところ、どうだ?」
「しない」
何を何時までもグズグズしていたのだろう、と、岐顕は後悔した。
悲しいのは当たり前だが、一人になったからと言って、子供の世話が出来ない様ではいけない。
実家に甘えっぱなしで、何時まで悲しんでいる気だったのだろう。
子供が熱を出しても気付かず、悲しんでばかりで、自分も臥せっていたとは。
育てないと、と言って、岐顕は泣いた。
「ごめんな、龍。ぼんやりしてて」
久し振りに、物がハッキリ見えた気がした。
ああ、此の子が居て良かった、と岐顕は思った。
此の子が、現実に岐顕を引き戻してくれたのだ。
まぁ良いさ、と顕彦は言った。
「御前の面倒までは見られた。八十越しちゃいるが、オマケで龍も面倒見られそうだ。何歳まで生きるか分からんけどよ。何とか、協力してやっていこうや」
「…ごめん、彦じぃ。甘えて」
「何、良いって事よ。…息子は貴一人きりしか居なかったのに、早くに亡くなって、娘の向子は結婚しないとか言い出すし。孫も、宗一人きりでな。此の家は絶えるのかな、何て思ってたが、曾孫の御前と、玄孫の龍の面倒見られるなんてなぁ。凄いじゃないか。そうそう玄孫の面倒なんか見られねぇよ。人生分からんものだ。玄孫が懐いてくれるなんざ、俺は幸せ者よ」