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地に満つるは槐花 『瀬原集落聞書』  作者: 櫨山奈績
エピローグ
2/2

実方岐顕

「よう、何か食えよ」


 実方(さねかた)(みち)(あき)が目を覚ますと、岐顕の息子、(りゅう)(けん)を抱いた、岐顕の曾祖父である実方顕彦(さねかたあきひこ)が顔を覗き込んでいた。

 目が大きい。


「…あ、(ひこ)じぃ」


 (みち)(あき)は、自室の床の上で、大の字に寝転がって、其の(まま)眠っていたらしい。


 最後に食事をしたのが、何時(いつ)か思い出せない。


 Tシャツとジーンズ姿の岐顕の腹の上に、顕彦が龍顕を乗せた。


 龍顕の口から、長い(よださ)が糸を引いて、岐顕の胸元辺りに垂れた。


「うおっ?」


 岐顕が驚いて声を上げると、顕彦が、お、悪ぃな、と言って、龍顕を、もう一度抱き上げ、龍顕の(よだれ)掛けで龍顕の口を拭いた。


 抱き上げられた龍顕は、顕彦に、しがみ付き、顕彦の顎を、ガジガジと齧った。


「こら、(りゅう)。こいつ、俺の髭が伸びると()ぐ、こうやって顎を(かじ)って来るんだ」


 美味くないから止めとけ、と言って、顕彦は、自分の顎から龍顕を離し、ガーゼハンカチを龍顕に渡した。


 龍顕は、不満そうな声を出しながらも、ハンカチをガジガジ噛んだ後、しゃぶり始めた。


 歯が伸びて来てるのかねぇ、と顕彦が言った。

「歯が痒いんだろう。何でも(かじ)る」


 岐顕が腑抜けになっているので、親戚中が(こぞ)って、()だ赤ん坊の龍顕の世話をしてくれている。


 特に、曾祖父の顕彦には一番龍顕が懐いていて、岐顕は申し訳ない気分になる程だった。




 しかし、分からないのだ。


 今が何月何日で、自分が今日何をしていたのか、(ほとん)ど思い出せない。


 岐顕は、自分のTシャツに付着した息子の(よだれ)の染みを見詰めた。


(みち)()(かく)(なん)か食え。如何(どう)したって、(りゅう)を育てていかなきゃなんないんだからよ。其のまんまじゃ、(れい)(いち)の阿保から、親切ぶった顔で再婚の話が来るぞ」


「うっ…」

 岐顕は、其の名を聞いただけで吐き気を催した。


 いけね、と言って、顕彦が、岐顕にビニール袋を手渡した。

 準備の良い事である。


 対して吐く物が無いのに散々吐いた岐顕に、顕彦は、歯を磨いてから食事をしに来い、と言った。


 岐顕は、素直に従った。




 妻の理佐(りさ)が亡くなった。


 無残な首吊りの状態だったという。


 仕事で福岡に行っていた岐顕が家に戻った時には、全ては終わっていた。


 畳は取り替えられていて、遺体は見せてもらえなかった。


 見ない方が良いと言われた。


 多分、令一に殺されたのだ。




 だが其れは、岐顕には、よく分からない事だった。




 呆然自失の(まま)、龍顕を抱いて葬儀に出た。


 話し掛けられる声が、全て遠くに聞こえた。


理佐(りさ)って、如何(どう)して死んじゃったんだっけ。俺のせいなんだっけ。いや、理佐って、如何(どう)して今、居ないんだっけ。


 令一のせいらしい事は岐顕にも分かった。


 しかし、酷い状態だというので遺体を見せてもらえなかったから、岐顕には、理佐が死んだ事が、よく理解出来なかった。


―理佐は今何処に居るんだっけ。俺が仕事で居なかったから、俺のせいなんだっけ。


 分かるのだ。


 葬儀も出した。

 家の何処にも理佐が居ない。


 分かっているのに、世界の全てがソフトフォーカスで、音も聞こえ(にく)くて、何をしたのか、何をしなかったのか、全く覚えている事が出来ないのだ。


 父か曾祖父、大叔母に指示されないと何も出来ない。


 歯を磨け、と言われたから歯を磨き、風呂に入れと言われたから風呂に入る、という具合だった。

 其れも、其の日の、何時(いつ)に遣ったのだか思い出せないのだ。


「あ、此れ、理佐にも食べさせないと」

 食事をしながら、つい、そう言ってしまってから、岐顕は、ハッとした。


 牛肉の時雨煮(しぐれに)は、確かに理佐の好物だった。

 岐顕は、理佐が居なくなってからも、つい、()だ居る(よう)な気がして、こういう事を自然に口走ってしまうのだ。


 食卓が沈黙に包まれる。


「おう、そうだな。向子(さきこ)、頼むわ」


 龍顕に離乳食を食べさせていた顕彦が、顔色一つ変えず、岐顕の大叔母の向子(さきこ)に、そう言うと、向子(さきこ)は、少し躊躇(ためら)いがちに、はい、と言って、小鉢に少し時雨煮(しぐれに)を取り分け、何処かに持って行った。

 遺骨の前に置いてくれるらしい。


 岐顕の父、(むね)(あき)が、立ち上がって、龍顕の口を拭いた。

 潰した人参のベビーフードで、口の周りがオレンジ色になっていた。


 顕彦は、おお、(そう)(わり)ぃな、と言った。


「こら、(りゅう)。人参より(よだれ)掛けが好きなのか。そんなもんガジガジ(かじ)るなら、人参食え、人参」


 顕彦が龍顕を(たしな)める。


 龍顕は、宗顕に口を拭かれて以降、勝手に食事を止めてしまい、食事の汚れ避けに付けられた(よだれ)掛けの方を口に入れて、ガジガジ噛んでいる。


 おかしいな、と岐顕は思った。


如何(どう)して俺が、遣ってないんだろう。


 御供えも、息子の食事も、如何(どう)して自分で遣っていないのだろう、と、岐顕は、ぼんやりと思った。皆に遣ってもらっている。


如何(どう)して、理佐が居ないんだっけ。


 自分で何かしないと、と思うのに、身体が全然動かないのだ。


 戻って来た向子(さきこ)が岐顕を(たしな)めた。

(みち)。食べるのを途中で止めないの」


「あ、はい」

 岐顕は、箸と飯碗を持った(まま)、動きを止めていたらしい。

 岐顕は、食事を再開した。


 おかしいな、と岐顕は思った。何もかもが、あまりよく分からないのだ。




 龍顕が泣き止まない。


 岐顕は如何(どう)して良いか分からなくなって呆然としていた。


 龍顕がパンを残したのである。残ってしまったパンを、岐顕が食べてやったのだ。そうしたら龍顕が、食べるんだったのに、という(よう)な趣旨の抗議をしてきて、其れ以降、ずっと泣いている。


 頭の中で、龍顕の泣き声が、ワーンと反響する。


 龍顕の顔が、ぼんやりして、良く見えない気がする。声も聞こえ(にく)くなってきた。


 岐顕は、別にパンが食べたかったわけでは無かった。如何(どう)して、こうなったんだっけ、と、岐顕は思った。




如何(どう)した、(りゅう)(みち)、おい、如何(どう)した?」

 顕彦が、台所に駆け付けてきて、龍顕を抱き上げた。


「あ、(みち)。御前、頭痛い時の顔をしてるぞ」

「…え?」

「薬飲んで寝とけ」


 顕彦に言われて気付いたが、確かに頭痛がする。


 岐顕が呆然としていると、顕彦が、龍顕を抱きながら走って、鎮痛剤を持ってきた。

 そら、と言って、水を入れた硝子(ガラス)のコップと一緒に、錠剤を渡される。


 岐顕は素直に飲んだ。


 駆け回る顕彦に抱かれていた龍顕は、何時(いつ)の間にか泣き止んで、キャッキャッと笑っていた。


 顕彦は、あ、と言った。

「何だ、アンパンマンのパン、空っぽじゃねぇか」


 龍顕が、アンパンマン、と言うと、分かったよ、と言って、顕彦が、龍顕を抱いた(まま)、新しいパンを戸棚から出して袋を開け、龍顕に渡した。


「有難う、って言え」

「がと」

「よし、御礼言えて偉いな。頂きます、って言え」

「いーたあーきましっ」


 龍顕は、手を合わせて、そう言ってから、パンを手掴みでモグモグ食べながら笑った。


―あれ、そう言えば、ちょっと喋ってるな、(りゅう)。此の子は離乳食、何時(いつ)終わったんだっけ。


 岐顕が呆然としていると、寝とけ、と顕彦が言った。

茄子(なす)みたいな顔色してるぞ」


「あ、いや、今日は、仕事の電話をしないと」

「いや、無理だ。向子(さきこ)には言っておいてやるからよ。寝ろ」


「いや、大丈夫。電話しようかと思っていたら、龍がアンパンマンのパン食べたいって言ったから、出してやって。それで、残したから食べたら、()だ食べるんだったって泣かれて」


「御前、アンパンマンのパン取っちゃったのかい。そりゃ泣くよ」

「いや、取ったわけじゃ無くて」


「そんな説明しても、こいつは()だ聞く耳持たねぇぞ。輪ゴムか何かで袋の口(くく)っとけ。次からは残しておいてやれよ。…懐かしいなぁ」


「え?」


「誰かさんが、(そう)が、自分の残しておいた何かを食べたって大騒ぎして泣いて。あとは、菓子パンか何かを(ひょう)と取り合いしてたなぁ。新しい菓子パンが出てくるまで黙らない、黙らない。俺ぁ軽トラに乗って、買いに行って、ストックしておいてな。喧嘩にならない(よう)に。こりゃ、其の時の癖が役に立ったな」


「…あ、俺も似た(よう)な事してたの?」


「そうだよ。安心しろ。こいつも、どうせ、遣ってもらった(こた)ぁ覚えちゃいねぇよ」


 頭痛がマシになってきたせいか、岐顕は先刻(さっき)より龍顕の存在がクッキリ見える気がした。


 顕彦に抱かれて、ニコニコしながらパンを食べている龍顕は、凄く可愛い顔をしていた。


「あ、(みち)。だから、寝てろ。俺が向子(さきこ)に電話するわ」


「え?」


 気付くと、岐顕は、ボロボロ泣いていた。自分が泣いている事に気付かなかったのだ。


「もう一回言うぞ。今日は無理だ。飯の時起こすから寝てろ。…でも、泣けるようになったのは良い傾向じゃないか」




 自室で横になりながら、岐顕は泣いていた。

 如何(どう)して泣いているのか自分でも分からないのだが、涙が止まらないのだ。


 岐顕の母、(より)は、岐顕の双子の兄、(あき)(ひら)と、岐顕(みちあき)を産んだ時に亡くなってしまった。


 父の宗顕(むねあき)は、其れこそ再婚もせず、二人を育ててくれようとした。


 祖母の瑛子(えいこ)から、縁起を考えて、双子は離して育てろと言われたのにも関わらず、一緒に育ててくれた。


 しかし、(あき)(ひら)は二歳で亡くなった。岐顕は、兄の事を(ほとん)ど覚えていない。


 祖父の貴顕(たかあき)()うに亡くなっていたが、岐顕は、曾祖父の顕彦、曾祖母の安幾(あき)、祖母の瑛子、大叔母の向子(さきこ)に育てられた(よう)なものである。


 しかし、安幾も瑛子も既に亡くなった。


 そして。


 理佐も、如何(どう)やら、もう、居ないらしいのだ。


 そんな事は分かっている心算(つもり)だったのに、岐顕は、最近、やっと少し分かってきたらしいのだった。


 龍顕が、幾ら泣いても、理佐がやって来ないのだ。


―何で皆死んじゃうんだろう。


 岐顕は、答えの出ない問いを抱えた(まま)、ただ只管(ひたすら)、目から涙が出るに任せていた。




 腹の上に重みを感じて目を覚ますと、岐顕の上に、龍顕が、ピトッとくっ付いて寝ていた。


 顕彦が、起こしちまったか、と言った。


「其処で寝るって聞かなくてよ。具合が良くないところに悪いが、(りゅう)、熱が有ってな。飯の時間までで良いから、抱いて寝といてくれないか」


「え?熱?」


「今日は特に、午前中から聞き分け無かったろ?()しかしたらな、と思ったら案の定、発熱だ。食欲が有ったのは、あの、パン食べてた時っきりで」


「え、龍、熱が有ったの?」

 岐顕は慌てた。


 落ち着け、と顕彦が言った。


「歯が生える頃は、よく有る話よ。(りゅう)は、年頃の割には熱出さない方だぞ。大した(こた)ぁ無いが、医者呼んでるからよ。さっき水分も摂らせたから、脱水もしないだろう。ちょっと抱いておいてやってくれ。眠れてるようなら、今は熱が上がって来てない証拠だよ。熱が上がる時は、泣いて寝ないからな」


「…だから愚図ってたのかな」


「分からねぇな。()だ気分を言葉に出来ない年だからよ。熱が有ろうが無かろうが、腹が減ってりゃ不機嫌だし、眠たきゃ泣くし、喉が渇けば文句言うぜ」


 岐顕は、泣きながら龍顕を抱き締めた。


 ピー、ピー、と、鼻が詰まった(よう)な音を規則的に立てながら、目覚めない。


 大丈夫だよ、と顕彦は言ってくれた。


「頬っぺたは真っ赤だが、よく寝てるじゃないか。泣くな、泣くな。…なぁ、おい、一回だけ、御節介言うぞ。再婚しないか?別に令一の話に乗るわけじゃねぇけどよ。そういう話も有るってこった」


 岐顕は、泣き顔を上げて、曾祖父を見た。


「御前一人で育てられるか?御前が、再婚が嫌だって言うなら、家族で手伝うけどよ。実際のところ、どうだ?」


「しない」


 何を何時(いつ)までもグズグズしていたのだろう、と、岐顕は後悔した。


 悲しいのは当たり前だが、一人になったからと言って、子供の世話が出来ない(よう)ではいけない。


 実家に甘えっぱなしで、何時(いつ)まで悲しんでいる気だったのだろう。

 子供が熱を出しても気付かず、悲しんでばかりで、自分も臥せっていたとは。


 育てないと、と言って、岐顕は泣いた。

「ごめんな、(りゅう)。ぼんやりしてて」


 久し振りに、物がハッキリ見えた気がした。


 ああ、此の子が居て良かった、と岐顕は思った。




 此の子が、現実に岐顕を引き戻してくれたのだ。




 まぁ良いさ、と顕彦は言った。


「御前の面倒までは見られた。八十越しちゃいるが、オマケで(りゅう)も面倒見られそうだ。何歳まで生きるか分からんけどよ。何とか、協力してやっていこうや」


「…ごめん、彦じぃ。甘えて」


「何、良いって事よ。…息子は(たか)一人きりしか居なかったのに、早くに亡くなって、娘の向子は結婚しないとか言い出すし。孫も、(そう)一人きりでな。此の家は絶えるのかな、何て思ってたが、曾孫の御前と、玄孫(やしゃご)(りゅう)の面倒見られるなんてなぁ。凄いじゃないか。そうそう玄孫(やしゃご)の面倒なんか見られねぇよ。人生分からんものだ。玄孫(やしゃご)が懐いてくれるなんざ、俺は幸せ者よ」


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