佐藤宇子
『瀬原集落聞書』シリーズ、『相生の松』前日譚です。推理、という感じにはならないと思うので、ジャンルをホラーにしてみました。
着けられた呼吸器の紐に、自分の髪が絡まって気持ちが悪い。
しかし其れも、ほんの一瞬の事だった。
急に、ぼんやりした気分になる。
ぼんやりした後、目の前が真っ暗になった。
目覚めると手術は終わっていた。
術前の説明の通り、五分程度の手術だったらしい。
手術室からストレッチャーで移動する途中、立ち合いと称して、手術中、モニターの在る部屋で見守ってくれていた妹の宙子が、泣きそうな顔をしているのが見える。
声が上手く出ない。お姉ちゃん、いいよ、喋んないで、という、宙子の涙声が聞こえる。
夫の大輔には、息子の馨を預けてある。幼過ぎて、未だ待合室で大人しく出来ないのだ。病院にも迷惑になってしまう。
また、トロトロと眠りにつく。
しかし、こうして麻酔薬で眠らされるのと、自然に眠るのは違う様だ。ぼんやりした感じが続く。横になっても、睡眠を取っているという感じはしない。
六人部屋の一番奥の窓側で寝ていると、対角線上に位置する、病室の一番端のベッドから、一晩中、何か、小さな機械音がする。
偶然同じ日に、同じ病室になった同姓の女性だが、手術は如何やら、相手の方が大きな手術で、時間も掛かったらしい。
漏れ聞こえる会話から察するに、子宮全摘手術だった様である。手術当日まで自分の親に説明しなかったそうで、看護師の女性に、酷く叱られていた。
確かに、病院で手術の立ち会いを頼まれて、当日行ってみたら、自分の娘が子宮全摘すると知ったら、親は驚いたであろう、とは思うが、気持ちは分かる、と佐藤宇子は思った。
親を心配させたくない、という思いは有るが、それより何より、自分の気持ちの整理がついていないと、例え実の親と言えど、上手く説明出来ない事もある。自身は一日入院だったので、結局一度も其の女性と会話する事は無かった宇子だが、何と無く、其の女性は、子宮全摘手術を受ける事を、ギリギリまで受け入れられなかったのではないか、という気がした。
今日は、三月二十九日で、本来なら宇子の誕生日だった。
しかし、其の日が、自分の二人目の子供の命日になってしまった。
稽留流産である。
大量出血の恐れがある為、妊娠十週目で掻爬する事になったのである。
頭では分かっていた筈だった。
其の手術をしない方が危険なのだと。
大量出血した後は、きっと著しく体が弱る。
そんな状態で、如何やって、今居る最初の子供、息子の馨を育てれば良いというのか。
其れなのに、感覚としては、全く納得していなかった。堕胎と何が違うのだ、と。
御腹の中で、子供の心臓が動かなくなっていると知った後も、ギリギリまで、其れは嘘なのではないか、と思い込む様にしていた。如何にかしたら、ちゃんと産んであげられるのではないかと。
しかし、術前の検査でも、やはり心臓は動いていなかった。
理解はしていた心算だった。宇子は、術前数日前から、少量の出血を起こすようになっていたからである。もう胎盤が、胎児の状態を保っていてくれない状態になりつつあったのだ。
其れでも、自分が諦めてしまったから、諦めて手術をしてしまったから、御腹の子を流してしまった様な気がしていた。泣くのは出来るだけ我慢していた。
泣いても叫んでも、誰のせいでもないからだ。
泣いている自分の姿は、支えてくれている家族に、自分を責めさせてしまうと考えたからだ。宇子のせいでないのなら、家族のせいでも、ましてや、手術を決めた医師の判断のせいでもない。
誰かを責めるのだけは止めよう、と宇子は心に誓っていた。原因を探すのも止めよう、と。
何をしても、子供は生きては戻らないのだ。
手術の日が決まってから、手術当日まで、宇子は必死で調べたが、妊婦の六人に一人は経験している、妊娠初期の胎児の染色体異常だという事しか分からなかった。原因は特にない、自然淘汰の範疇の出来事なのだという。
宇子には、なす術が無かった。
自分の努力では如何にもならない事だった。
逝ってしまった、と宇子は思った。
夫に稽留流産を告げる時と、一人で調べ物をしている時しか泣かなかった宇子だが、夜の病室では、流石に一人で泣いた。
手術した筈の場所は痛まなかった。
説明でも、痛んでも生理痛程度の事が多いと聞いていたが、其れは本当だったらしい。成程、掻爬も、仕組みとしては割と月経と近い。
しかし、点滴が刺さっている腕が痛いし、宇子は惨めだった。
一晩中、点滴の針が腕に刺さっている感覚が有る。眠りが浅い。鎖骨の上から何かに押さえつけられる様な感覚がして、ビクッとして起きたり、笑いながら起きたりする。何時眠ったか、よく分からない。体に麻酔が残っているのかもしれない。
目が覚める度に、宇子は泣いた。
見回りの看護師に、何度も大丈夫か聞かれたが、大丈夫だと言うしか無かった。麻酔が体に残っている事も、眠りが浅い事も、手術するのが嫌だった事も、自分が子供を失った事も、今此の人に言っても何にもならないのである。看護師のせいではないし、話したところで気を遣わせるだけで、相手にも、何か出来る事は、少なくとも今夜は無いのだ。点滴しているとは言え、一人でトイレにも行けるし、夕食も美味しく頂いた。取り敢えず、子供の食べ溢しが付いた服の染み抜きや、誰かの食事を用意する、という、日常の雑多な事を、今夜だけは一切しなくても良い、というのは、純粋に有り難かった。今まで、一人で無理をしていたんだな、と宇子は思った。
頭の中で、郁ちゃん、と呼び掛ける。
息子の馨は、宇子の父の坂本紘一が、宇子の好きな白い蓮馨草から取って付けてくれた名前である。
男女の何方にも通用しそうな名前なので、宇子は気に入っていた。
気が早いけど、二人目も名付け親になってくれないかなどと、入院中の父親に軽い気持ちで頼んでしまった宇子に、紘一は、宙子の好きな郁金香から取って、郁と名付けてくれたのだった。此れも、男女共に通用しそうだと思い、宇子は心から紘一に礼を言ったのだった。
御父様、ごめんなさい、と思い、宇子は再び泣いた。
気が早過ぎた。安定期に入るまで周囲にも黙っていれば良かった。期待させた分、喜んでいた父をガッカリさせたのだと思うと、自分のせいではないとは思っていながらも、何か、酷い親不孝をしてしまった様な気持ちになるのである。
偶然、大学時代の同窓会が二月にあったので、うっかり友人達にも妊娠中だからカフェインやアルコールが摂れないと言ってしまったのである。次会ったら、友人達にも気を遣わせてしまう事だろう。浅慮だった。
しかし宇子は、二人目の妊娠が、あまりにも嬉しかったのである。
特に、年老いた父には、早く教えてあげたい気持ちがあったのだ。
妻の成子を亡くしてから気落ちしている紘一に、沢山孫を見せてあげたい、と常々思っていたのである。
郁ちゃん、と、宇子は、もう一度頭の中で呼び掛ける。
妊娠中は何となく感じていた胎児の存在を、今は微塵も感じない。
駄目だ、と宇子は思った。
此の気持ちに今、向き合えない。
どれ程深く自分が傷付いたか確かめるのが怖いのだ。
其れきり、宇子は泣けなくなった。
退院の日、退院時の会計を待っていると、あんぱん、と言いながら、大輔に連れられてやって来た、笑顔の馨が、チョロチョロと走って寄って来た。
宇子は、馨を笑顔で抱き上げた。
馨は、何故か、宇子の事を、あんぱん、と呼ぶのである。大輔の事は、ママと呼ぶ。パパ、は、何故か未だ言えない。
初めての言葉はママで、其の時は、ママとは、確実に宇子の事だった。
しかし、両親共ママと呼び始めたかと思うと、パパを覚えてくれずに、アンパンマンを覚え、次に何故か、宇子の事は、あんぱん、と呼ぶ様になった。
アンパンマンくらい好き、という事なのだろうか。我が子の思考ながら、詳細は不明である。
―こんな、未だ、パパって言えないくらい小さいのに。
夫が休みを取ってくれたとは言え、こんな頑是無い息子がいるのに、一日入院して、家に一晩居られなかったのだ、と思うと、宇子は、何とも言えない気持ちになって、馨を抱き締めた。
手術後も、暫くは妊娠の陽性反応が出ていたので、二ヶ月程通院した。
妊娠十週まで進んでしまっていたので、体が妊娠している時のホルモンを出していたという事である。
そして、手術後は貧血が酷く、術後二ヶ月は本調子ではなく、術後半年経つまで、貧血に苦しみ、長い間鉄剤の御世話になった。
掻爬して此の状態なのなら、大量出血して流産してしまっていたら、どんなに酷い貧血になっただろうかと想像すると、医師の判断は的確だった、と思う宇子だったが、其れでも、気持ちは納得してくれなかった。
もう郁ちゃんは何処にも居ないのである。
思い出さない日は無い。
いや、きっと、一生忘れないのだ。
思い出す時間が、ただ減っていくだけなのだろう。
悲しいが、郁ちゃんには記憶の引っ掛かりが少ない。
母の成子が亡くなった時は、溢れる思い出に苦しめられた。
何を見ても成子を思い出す始末で、本当に、立ち直るまでに時間が掛かった。
郁ちゃんには、其れが無い。
一緒に遊んだ思い出も、慈しみ合った記憶も無い。
何かを見て郁ちゃんを思い出す事は有るかもしれないが、今のところ精々チューリップくらいのもので、其れも、チューリップの花を見て泣きたくなる様な事は無い。
チューリップの花の思い出と郁ちゃんが結び付く程の何かを、宇子は、遂に郁ちゃんと一緒にする事は出来なかったのである。
だから、次第に、郁ちゃんを思い出す時間は短くなっていくだろう。
立ち直る事は可能だろう。
馨の世話をするしかない状況は、宇子には、ある意味、無理矢理立ち直らなければならない状況であり、有り難い話でもある。他に何か楽しい事が有れば、幸福な気持ちにもなれるであろう。
しかし。
それでも。
忘れる事だけは、如何しても出来ないだろう。
一生だ。
以降、妊娠の兆候は無い。
宇子は、そろそろ決断するべきかもしれない、と思い始めている。
妊娠を望む一方で、妊娠が恐ろしくもあるのだ。
其れに、子供は欲しいが、体は辛い。
貧血状態の子育ては、如何しても、喜びより苦痛が多かった。
子供が起きている時間は満足に休めない。
そして馨は、宇子が入院して以降、不安からか、爪を噛む癖が出て、其れを矯正するのには酷く骨が折れたし、果ては、夜驚症まで起こす様になった。そうなると、宇子は夜も上手く眠れない日が有るのである。
貧血時に休めない、眠れないのは兎に角辛かった。
もう一人産んだとして、これを、もう一度出来るのか?と自問自答してしまいそうになる程、流産以降、体が弱ってしまっていた。
体調も崩しやすくなった。
―…もう、無理だと諦めるべきなのかしら。
既に一人は子供が居るのだ。そして其の、今居る一人を大事に育てられない様なら、もう一人子供を欲しがったところで、やはり、二人共大事に育ててあげられないのではないか、という気になる。
何にせよ、一度の流産で失ったものは、思っていたよりも多かった。
体力や子育てに対する自信すら失った。
そして、其の事は、やはり突き詰めて考えられないでいる。
もう妊娠を諦めるか否か、という重要事項を決断出来る程、宇子は、未だ自分の傷に向き合えないでいた。