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地に満つるは槐花 『瀬原集落聞書』  作者: 櫨山奈績
エピローグ
1/2

佐藤宇子

『瀬原集落聞書』シリーズ、『相生の松』前日譚です。推理、という感じにはならないと思うので、ジャンルをホラーにしてみました。

 着けられた呼吸器の紐に、自分の髪が絡まって気持ちが悪い。


 しかし其れも、ほんの一瞬の事だった。

 急に、ぼんやりした気分になる。


 ぼんやりした後、目の前が真っ暗になった。


 目覚めると手術は終わっていた。

 術前の説明の通り、五分程度の手術だったらしい。


 手術室からストレッチャーで移動する途中、立ち合いと称して、手術中、モニターの在る部屋で見守ってくれていた妹の宙子(ひろこ)が、泣きそうな顔をしているのが見える。


 声が上手く出ない。お姉ちゃん、いいよ、喋んないで、という、宙子の涙声が聞こえる。

 夫の大輔(だいすけ)には、息子の(かおる)を預けてある。幼過ぎて、()だ待合室で大人しく出来ないのだ。病院にも迷惑になってしまう。


 また、トロトロと眠りにつく。


 しかし、こうして麻酔薬で眠らされるのと、自然に眠るのは違う(よう)だ。ぼんやりした感じが続く。横になっても、睡眠を取っているという感じはしない。




 六人部屋の一番奥の窓側で寝ていると、対角線上に位置する、病室の一番端のベッドから、一晩中、何か、小さな機械音がする。

 偶然同じ日に、同じ病室になった同姓の女性だが、手術は如何(どう)やら、相手の方が大きな手術で、時間も掛かったらしい。


 漏れ聞こえる会話から察するに、子宮全摘手術だった(よう)である。手術当日まで自分の親に説明しなかったそうで、看護師の女性に、酷く叱られていた。


 確かに、病院で手術の立ち会いを頼まれて、当日行ってみたら、自分の娘が子宮全摘すると知ったら、親は驚いたであろう、とは思うが、気持ちは分かる、と佐藤宇子(さとうたかこ)は思った。


 親を心配させたくない、という思いは有るが、それより何より、自分の気持ちの整理がついていないと、例え実の親と言えど、上手く説明出来ない事もある。自身は一日入院だったので、結局一度も其の女性と会話する事は無かった宇子だが、何と無く、其の女性は、子宮全摘手術を受ける事を、ギリギリまで受け入れられなかったのではないか、という気がした。




 今日は、三月二十九日で、本来なら宇子の誕生日だった。

 しかし、其の日が、自分の二人目の子供の命日になってしまった。


 稽留流産である。


 大量出血の恐れがある為、妊娠十週目で掻爬(そうは)する事になったのである。


 頭では分かっていた(はず)だった。

 其の手術をしない方が危険なのだと。


 大量出血した後は、きっと著しく体が弱る。


 そんな状態で、如何(どう)やって、今居る最初の子供、息子の(かおる)を育てれば良いというのか。


 其れなのに、感覚としては、全く納得していなかった。堕胎(だたい)と何が違うのだ、と。


 御腹の中で、子供の心臓が動かなくなっていると知った後も、ギリギリまで、其れは嘘なのではないか、と思い込む(よう)にしていた。如何(どう)にかしたら、ちゃんと産んであげられるのではないかと。


 しかし、術前の検査でも、やはり心臓は動いていなかった。


 理解はしていた心算(つもり)だった。宇子は、術前数日前から、少量の出血を起こすようになっていたからである。もう胎盤が、胎児の状態を保っていてくれない状態になりつつあったのだ。


 其れでも、自分が諦めてしまったから、諦めて手術をしてしまったから、御腹の子を流してしまった(よう)な気がしていた。泣くのは出来るだけ我慢していた。


 泣いても叫んでも、誰のせいでもないからだ。


 泣いている自分の姿は、支えてくれている家族に、自分を責めさせてしまうと考えたからだ。宇子のせいでないのなら、家族のせいでも、ましてや、手術を決めた医師の判断のせいでもない。


 誰かを責めるのだけは止めよう、と宇子は心に誓っていた。原因を探すのも止めよう、と。


 何をしても、子供は生きては戻らないのだ。


 手術の日が決まってから、手術当日まで、宇子は必死で調べたが、妊婦の六人に一人は経験している、妊娠初期の胎児の染色体異常だという事しか分からなかった。原因は特にない、自然淘汰の範疇(はんちゅう)の出来事なのだという。


 宇子には、なす術が無かった。

 自分の努力では如何(どう)にもならない事だった。


 逝ってしまった、と宇子は思った。


 夫に稽留流産を告げる時と、一人で調べ物をしている時しか泣かなかった宇子だが、夜の病室では、流石に一人で泣いた。


 手術した(はず)の場所は痛まなかった。


 説明でも、痛んでも生理痛程度の事が多いと聞いていたが、其れは本当だったらしい。成程、掻爬(そうは)も、仕組みとしては割と月経と近い。


 しかし、点滴が刺さっている腕が痛いし、宇子は惨めだった。


 一晩中、点滴の針が腕に刺さっている感覚が有る。眠りが浅い。鎖骨の上から何かに押さえつけられる様な感覚がして、ビクッとして起きたり、笑いながら起きたりする。何時(いつ)眠ったか、よく分からない。体に麻酔が残っているのかもしれない。


 目が覚める度に、宇子は泣いた。


 見回りの看護師に、何度も大丈夫か聞かれたが、大丈夫だと言うしか無かった。麻酔が体に残っている事も、眠りが浅い事も、手術するのが嫌だった事も、自分が子供を失った事も、今此の人に言っても何にもならないのである。看護師のせいではないし、話したところで気を遣わせるだけで、相手にも、何か出来る事は、少なくとも今夜は無いのだ。点滴しているとは言え、一人でトイレにも行けるし、夕食も美味しく頂いた。取り敢えず、子供の食べ(こぼ)しが付いた服の染み抜きや、誰かの食事を用意する、という、日常の雑多な事を、今夜だけは一切しなくても良い、というのは、純粋に有り難かった。今まで、一人で無理をしていたんだな、と宇子は思った。


 頭の中で、(いく)ちゃん、と呼び掛ける。


 息子の馨は、宇子の父の坂本(さかもと)紘一(こういち)が、宇子の好きな白い蓮馨草(さくらそう)から取って付けてくれた名前である。


 男女の何方(どちら)にも通用しそうな名前なので、宇子は気に入っていた。

 気が早いけど、二人目も名付け親になってくれないかなどと、入院中の父親に軽い気持ちで頼んでしまった宇子に、紘一は、宙子(ひろこ)の好きな郁金香(チューリップ)から取って、(いく)と名付けてくれたのだった。此れも、男女共に通用しそうだと思い、宇子は心から紘一に礼を言ったのだった。


 御父様、ごめんなさい、と思い、宇子は再び泣いた。


 気が早過ぎた。安定期に入るまで周囲にも黙っていれば良かった。期待させた分、喜んでいた父をガッカリさせたのだと思うと、自分のせいではないとは思っていながらも、何か、酷い親不孝をしてしまった(よう)な気持ちになるのである。


 偶然、大学時代の同窓会が二月にあったので、うっかり友人達にも妊娠中だからカフェインやアルコールが摂れないと言ってしまったのである。次会ったら、友人達にも気を遣わせてしまう事だろう。浅慮だった。


 しかし宇子は、二人目の妊娠が、あまりにも嬉しかったのである。


 特に、年老いた父には、早く教えてあげたい気持ちがあったのだ。

 妻の成子(みちこ)を亡くしてから気落ちしている紘一に、沢山孫を見せてあげたい、と常々思っていたのである。


 (いく)ちゃん、と、宇子は、もう一度頭の中で呼び掛ける。


 妊娠中は何となく感じていた胎児の存在を、今は微塵も感じない。


 駄目だ、と宇子は思った。


 此の気持ちに今、向き合えない。


 どれ程深く自分が傷付いたか確かめるのが怖いのだ。


 其れきり、宇子は泣けなくなった。




 退院の日、退院時の会計を待っていると、あんぱん、と言いながら、大輔に連れられてやって来た、笑顔の(かおる)が、チョロチョロと走って寄って来た。


 宇子は、馨を笑顔で抱き上げた。


 (かおる)は、何故か、宇子の事を、あんぱん、と呼ぶのである。大輔の事は、ママと呼ぶ。パパ、は、何故か()だ言えない。


 初めての言葉はママで、其の時は、ママとは、確実に宇子の事だった。

 しかし、両親共ママと呼び始めたかと思うと、パパを覚えてくれずに、アンパンマンを覚え、次に何故か、宇子の事は、あんぱん、と呼ぶ(よう)になった。


 アンパンマンくらい好き、という事なのだろうか。我が子の思考ながら、詳細は不明である。


―こんな、()だ、パパって言えないくらい小さいのに。


 夫が休みを取ってくれたとは言え、こんな頑是無(がんぜな)い息子がいるのに、一日入院して、家に一晩居られなかったのだ、と思うと、宇子は、何とも言えない気持ちになって、(かおる)を抱き締めた。


 手術後も、暫くは妊娠の陽性反応が出ていたので、二ヶ月程通院した。


 妊娠十週まで進んでしまっていたので、体が妊娠している時のホルモンを出していたという事である。


 そして、手術後は貧血が酷く、術後二ヶ月は本調子ではなく、術後半年経つまで、貧血に苦しみ、長い間鉄剤の御世話になった。


 掻爬(そうは)して此の状態なのなら、大量出血して流産してしまっていたら、どんなに酷い貧血になっただろうかと想像すると、医師の判断は的確だった、と思う宇子だったが、其れでも、気持ちは納得してくれなかった。




 もう(いく)ちゃんは何処にも居ないのである。




 思い出さない日は無い。

 いや、きっと、一生忘れないのだ。

 思い出す時間が、ただ減っていくだけなのだろう。


 悲しいが、(いく)ちゃんには記憶の引っ掛かりが少ない。


 母の成子(みちこ)が亡くなった時は、溢れる思い出に苦しめられた。


 何を見ても成子(みちこ)を思い出す始末で、本当に、立ち直るまでに時間が掛かった。


 (いく)ちゃんには、其れが無い。


 一緒に遊んだ思い出も、(いつく)しみ合った記憶も無い。


 何かを見て郁ちゃんを思い出す事は有るかもしれないが、今のところ精々チューリップくらいのもので、其れも、チューリップの花を見て泣きたくなる(よう)な事は無い。




 チューリップの花の思い出と(いく)ちゃんが結び付く程の何かを、宇子は、(つい)(いく)ちゃんと一緒にする事は出来なかったのである。




 だから、次第に、(いく)ちゃんを思い出す時間は短くなっていくだろう。


 立ち直る事は可能だろう。


 馨の世話をするしかない状況は、宇子には、ある意味、無理矢理立ち直らなければならない状況であり、有り難い話でもある。他に何か楽しい事が有れば、幸福な気持ちにもなれるであろう。




 しかし。


 それでも。


 忘れる事だけは、如何(どう)しても出来ないだろう。


 一生だ。




 以降、妊娠の兆候は無い。


 宇子は、そろそろ決断するべきかもしれない、と思い始めている。


 妊娠を望む一方で、妊娠が恐ろしくもあるのだ。


 其れに、子供は欲しいが、体は(つら)い。


 貧血状態の子育ては、如何(どう)しても、喜びより苦痛が多かった。


 子供が起きている時間は満足に休めない。


 そして(かおる)は、宇子が入院して以降、不安からか、爪を噛む癖が出て、其れを矯正するのには酷く骨が折れたし、果ては、()(きょう)(しょう)まで起こす(よう)になった。そうなると、宇子は夜も上手く眠れない日が有るのである。


 貧血時に休めない、眠れないのは()(かく)(つら)かった。


 もう一人産んだとして、これを、もう一度出来るのか?と自問自答してしまいそうになる程、流産以降、体が弱ってしまっていた。

 体調も崩しやすくなった。


―…もう、無理だと諦めるべきなのかしら。


 既に一人は子供が居るのだ。そして其の、今居る一人を大事に育てられない(よう)なら、もう一人子供を欲しがったところで、やはり、二人共大事に育ててあげられないのではないか、という気になる。


 何にせよ、一度の流産で失ったものは、思っていたよりも多かった。

 体力や子育てに対する自信すら失った。


 そして、其の事は、やはり突き詰めて考えられないでいる。


 もう妊娠を諦めるか否か、という重要事項を決断出来る程、宇子は、()だ自分の傷に向き合えないでいた。


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