幕間 私の知らないだれかの夜
南にある王国は、北の帝国よりも春が早い。
水は温み、風は和らぎ、夜になっても気温が落ちない。王国民は肌寒いなどと言うが、帝国民からすれば湖で泳げそうなくらいだ。
王都の公爵邸の客室で、黒髪の男は酒杯を傾けていた。
「王国の酒は甘いな。人も甘い。自ら帝国魔道士を呼び込んで、自分の国を差し出すつもりか」
向かいに座った赤毛の男が苦笑する。
「今の帝国と王国は友好国だよ。俺達を派遣した皇帝陛下は、隙を見て奪い取れだなんておっしゃらなかっただろ?」
「まあな。……貴様、本当にあの娘を弟子にするつもりか?」
黒髪の男が言っているのは、銀髪の公爵令嬢のことだ。
自領を大氾濫から救った赤毛の男に心酔した彼女は、彼に弟子入りして帝国へ来るという。
赤毛の男は頷いた。
「うん。そのつもりだよ」
「いいのか、『女嫌い』? あの娘もすぐ貴様に夢中になるぞ。いや、もうなってるかもしれない」
人間の魔力は感情と密接に結びついている。
赤毛の男が得意とする炎属性の魔力は人の感情を煽り興奮させることから、禁忌とされている魅了の術に近い結果をもたらすことがよくあった。
幼いころから一時的に燃え上がった薄っぺらい感情を女性にぶつけられてきた赤毛の男は、今では仲間内で『女嫌い』と呼ばれるようになっていた。
「そうだね、そうだといいな」
『女嫌い』の意外な返答に、黒髪の男は目を丸くした。
「貴様らしくない言葉だな」
「そう? 俺は魔力に騙されたニセモノの好意が嫌なだけだよ。本当に好きになってくれる相手なら、こっちだって本当に好きになる。……本当はね、好きになったのは俺のほうが先なんだ」
赤毛の男は窓の外の月を瞳に映して語る。
「ねえ、あの娘が帝国魔道を学びたいと望んだのは、一方的に婚約破棄してきた相手が将来治める国を守るためなんだよ? 莫迦だと思わない? でも莫迦な彼女はとても眩しくて……気が付くと好きになってたんだ。恋っていいものだよ、『人間嫌い』」
「ぬかしてろ。……俺はもう寝るぞ」
「おやすみなさい。俺はもう少し月を見てる。……月って、銀色で綺麗だと思わない?」
恋に浮かれた部下の言葉を無視して、黒髪の男は自分に用意されたベッドに入った。
黒髪の男が得意とするのは大地属性の魔力だ。
貧民街で生まれた彼は、その魔力による魔道でドブネズミを狩ったり、通行人を転ばせて財布を盗んだりしていた。ドブネズミの肉も盗んだ財布も、家へ帰ると母に奪われた。母は自分そっくりな黒髪の兄よりも、自分を弄んで捨てた恋人そっくりの弟のほうを可愛がっていたからだ。
ある年、いつもと同じ帝国の寒く長い冬に母と弟は死んだ。
清々したと思った。これからはドブネズミも財布も自分ひとりのものだ。
だけどそのときから、黒髪の男の胸で吹雪が止まない。黒髪の男は、本当は夢見ていたのだ。ドブネズミや財布の代償に、いつか母が自分を愛してくれることを。
吹雪が吹き荒ぶ冬は今も続く。
『人間嫌い』の男は、魔道の才能を見出して自分を拾ってくれた変わり者の皇帝も、自分と同じように強くなにかを嫌っている仲間達も信じられないでいる。
彼は優しく温かく柔らかな春の存在を知らないのだ。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
──翌朝、目覚めて黒髪の男は戸惑った。
自分の中に、優しくて温かくて柔らかな春のような感情がある。
だれかを思い、愛しいと思う心、恋心だ。そんな気持ち、黒髪の男は知らない。
「だれかの感情……婚約破棄のときの魔道と同じか? いや、もっと進化してやがる。あの女狐の仕業だな。魔道研究泥棒の件で俺が動いているからか」
昨日、ウーレンベック商会へ挨拶に行ったとき、出会った女の顔を思い浮かべる。
「どっちにしろ今日は狐狩りだ。あの女狐が処刑されれば、この感情も元の持ち主のところへ帰るだろう。しかし婚約破棄のときの魔導とは移動した魔力の大きさが違うな。……こんなに多くの感情が移動したら、恋心自体を失っている状態か」
魔力に変換されて黒髪の男に移動させられた感情は、日々消耗されていく。
この魔道は一年前のものよりも進化している。
犯人が白状しなければ、すべての感情が消え失せても持ち主は見つからないかもしれない。この恋心が消えてしまうのは悲しいと感じ、黒髪の男はそんな自分に狼狽えた。
彼はまだ、この春のような感情を得たせいで、自分の心の中の吹雪が止んだことには気づいていない。