最終話 私の恋が消えた春
「マリオン!」
私の中にユージン様への恋心が戻ってきました。
次から次へと涙が溢れます。
恋心が消えていなかったら今日も朝から泣きじゃくっていたに違いありません。家族に離縁の話をすることもできなかったでしょう。
「マリオン、泣かないでくれ。すまなかった。僕はおかしくなっていたんだ。……愛している。本当に愛しているのは君だけなんだ」
ユージン様が私に駆け寄って、抱き締めてくださいます。
彼の体は温かくて、懐かしい匂いがします。
二十歳になったなら、この腕の中で眠り目覚めるのだと信じていました。
「……触らないでください」
「マリオン……」
愛しています。恋に恋していたわけではありません。
本当に私はユージン様に恋し、愛していたのです。
恋心が戻った今は、彼の腕から離れるのが辛くてなりません。昨日、王立公園になど行かなければ良かったと思っています。一生騙し続けてくれるのなら浮気されていても良かったと思うくらい、私はユージン様を愛しています。
「離縁を受け入れてくださったのでしょう? 手続きはまだですが、ユージン様はもう私の夫ではありません」
涙が止まりません。
恋心が消えるのではなく、昨日聞いた会話の記憶が消えたのなら良かったのに。
だけど、今朝消えていたのは恋心なのです。昨日の記憶は消えていません。私は震える声で伝えました。
「……盛りのついた雌猫から、解放して差し上げます」
「っ! 違う、違うんだ、マリオン! 僕は、怖くて、君を失うのが怖くて、だから……愛しているんだ、マリオンッ!」
ユージン様が床に膝をつきます。
泣いている彼を抱き締めたくてたまりません。
ですが、恋心が戻っても壊れた心は戻りません。ユージン様の愛しているという言葉が嬉しくてたまらないのと同時に、その言葉を疑う気持ちがあります。きっと私は一生ユージン様の言葉を信じられません。
心に穴が開いて、冷たい風が吹き荒んでいます。
黒の魔道士イグナス様は、ご自分も傷ついたかのような顔をなさっていました。
嫌な気分にさせてしまったのでしょう。申し訳ありませんでした。
彼には恥ずかしいところをお見せしてしまいました。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
──王国に、また春がやって来ました。
私がユージン様と離縁してから一年が経ちます。
ずっと実家の伯爵邸で厄介になっているのも申し訳ない気がするので、そろそろなにかを始めてみようと思います。私が家で趣味のお菓子作り以上の家事をすると、働いてくれている使用人達の仕事を奪ってしまいますしね。
私は伯爵邸の図書室で、魔道学園のときの教科書を引っ張り出しました。
ライザ様から、帝国で魔道を学び直さないかという提案を受けたからです。
黒の魔道士イグナス様からも同じ誘いを受けています。なぜか彼は私を心配して、毎日のようにお手紙をくださるのです。
椅子に座って教科書をめくっていたら、去年戻した花の栞が見つかりました。
私は栞を取り出して、教科書を閉じました。持ってきていた宝石箱を開きます。
兄が贈ってくださった新しい宝石箱の中から、イグナス様にいただいた最初のお手紙を取り出します。契約書に使うような無骨な便せんには、少し乱雑な文字が綴られています。
『貴様の恋心は優しくて温かくて柔らかで、俺の中には芽生えるはずのないものだった。
俺の周りには汚くて醜くて身勝手な、あの女狐みたいな存在しかいなかったから、俺自身も似たようなものになってしまったんだ。
俺はだれも信じないし、貴様のように他人を思いやることもできない。
だけどな、俺の中に貴様の恋心があったとき、これを守りたいと思ったんだ。
貴様を信じることはできないが、貴様が幸せになるのなら裏切られてもいいと思うくらいには貴様を気に入っている』
どうしてそこまで過分なお言葉をくださるのかはわかりませんが、自分から離縁したくせに毎日ユージン様のことを思って泣き暮れていた私には、とてもありがたいお言葉でした。
おかげで立ち直れたような気がします。
イグナス様に初めてもらったお手紙の封筒に、教科書に挟んでいた花の栞を入れます。
ほかの栞はユージン様の家に置いてきた宝箱の中です。……もう捨てられていることでしょうね。
ですが、私の胸に残る恋した記憶は消えません。終わってしまっていても大切な思い出です。
私は花の栞を入れたお手紙を宝石箱に戻し、蓋を閉じました。
お手紙もひとつだけ残った花の栞も、私の恋が消えた去年の春の思い出です。
図書室の窓の外には、ユージン様と何度も見た春の光景が広がっています。
見つけた教科書で勉強するのは持ってきたお茶を飲んでからにしましょうか。
去年ライザ様にいただいた帝国の茶葉はもう飲み終わってしまいましたが、先日新しい茶葉を送ってくださったのです。
いつか優しい春の日差しが、心に開いた穴で吹き荒んでいる冷たい風を止めてくれる日が来るかもしれません。
……いいえ、きっと来ます。
だって春はまた、何度でもやって来るのですから──