第十三話 私の夫を父が迎えに行きました。
昼休みの時間が来たが、ユージンの仕事は進んでいなかった。
マリオンになにかあったらと考えると、心臓の動悸が激しくなって思考が混濁するのだ。
せめて切りのいいところまで終わらせておこうと思ったのだが、見かねた上司に止められた。ユージンの顔色は真っ青で息が荒く、まるで病人のようだから無理をするなと言うのだ。言葉に甘えて、ユージンは残りの仕事を先輩所員に頼んで王立魔道研究所を出た。
「おお、ユージン。ちょうど良かった。一緒に王宮へ来てもらおうか」
建物を出たところで、舅の伯爵と出会う。
彼は馬車を降りたところだった。
伯爵家の馬車ではない。王家の紋章がついた馬車だ。公務なのだろうか。
「伯爵様、上司にはなにも聞いておりません。もちろん王国のためなら力を尽くしますが、私は午後休を取っております。登城の前にマリオンの見舞いに行かせてください」
「あの子もワルターと王宮へ向かっているよ」
「マリオンが王宮に?」
どういうことだろう、とユージンは顎を捻った。
マリオンの親友、公爵令嬢のライザが帝国魔道士の弟子になったという話は公私どちらからも聞いているので、そちらの関係だろうか。王国の高位貴族の令嬢が、帝国が秘匿してきた魔道の核心を学べるかもしれないのだ。国家事業扱いされてもおかしくはない。
今のマリオンは公的には伯爵令嬢というよりも男爵夫人という立ち位置だが、公爵令嬢の親友として招かれているのだろうか。
(僕はマリオンの夫として? これまでの魔道研究が認められて帝国魔道士と交流させてもらえるというのなら嬉しいのだけれど……)
思いながら馬車に乗ったユージンに、伯爵が言った。
「それとユージン。マリオンは、あの子は君と離縁したいそうだよ」
あまりに突然で、ユージンはしばらくその言葉の意味が理解できなかった。
馬車が動き出して、座った椅子に振動が伝わってくる。
伯爵の視線はユージンから離れない。乾いていく唇を開いて、ユージンは言葉を絞り出した。
「……そうですか」
「あまり驚かないのだね」
「いつかはこんな日が来ると思っていましたから。伯爵様だっておっしゃっていたではないですか」
そう、いつか、この日が来るとわかっていた。
マリオンはユージンよりも五歳も年下の伯爵令嬢だ。
父である伯爵を救った人間の息子と結婚するという芝居の題目のような状況に酔っているだけ、恋に恋しているだけだったのだ。伯爵家の人間はみんなそう言っていたし、ユージンだってわかっていた。本当の恋だと浮かれていたのはマリオンだけだ。
しかし、ユージンが思い込んでいる、思い込もうとしているそれは真実ではなかった。
ユージンは気づいていないが、伯爵家の面々がマリオンは恋に恋しているだけだと言っていたのは、彼が自分の気持ちを押し殺し、人前では彼女との間に距離を取っていたからだ。
想い人に相手にされていない(ように見える)可愛い娘を失恋で悲しませたくなくて、それは恋ではないと思わせようとしていたのだ。
本当はだれの目にも明らかだった。マリオンはユージンに恋をしていた。
向かいの席に座った伯爵がユージンの手元を見つめ、侮蔑を込めた息を吐いた。
「マリオンの目がないところでは、いつもその指輪をしていたのかね?」
「はい? 結婚指輪はいつも……」
自分の手を見て、ユージンはそこにあるのがリリスからもらった護符だと気づいた。
昨夜から嵌めたままだったのだ。
職場の人間がなにも言わなかったのは、妻と一緒におしゃれな護符に変えたのだとでも思っていたからだろう。ユージンは慌てて指輪を外そうとしたが、焦っているせいか、なかなか外せない。
「マリオンとは離縁するのだから、今さら外す必要はないよ。おそらくリリス夫人もウーレンベック商会の会頭に離縁される。これからはふたりで仲良く生きればいい。あの家と男爵位はこのまま提供しよう。手切れ金と……君のお父上の忠誠に対する報奨だ」
「リリス? なぜリリスの名前が?」
「自分の胸に聞いてみたまえ」
「……」
マリオンが足を捻ったのは王立公園へ行く途中だと聞いたことを思い出す。
その瞬間、血の気が引いた。あれは嘘だったのだろうか。
彼女は王立公園に行って、自分とリリスがいるところを目撃したのではないのか。ユージンの脳裏に、あのとき後ろのテーブルにいたヴェールの女性の姿が浮かび上がった。風に揺れたヴェールの下にはマリオンと同じ茶色い髪があった。
(……マリオン……)
彼女はユージンとリリスの会話を聞いてしまったのだろうか。
あのとき自分はなにを話していただろう。
リリスといると気が大きくなって、普段は言わないようなことを口にしてしまう。いつもより乱暴な言葉、他者を見下すような発言が多くなるのだ。マリオンを裏切っているという罪悪感から逃れるためかもしれない。
そもそもリリスとの関係が、マリオンに対する劣等感からの逃避だったと言える。
魔道の才能をウーレンベック商会の会頭に買われて魔道学園に入学したリリスだが、魔力量以外に特筆するものはなかった。リリスは地道に誠実に行動するのを嫌う。魔道実習は力押しで誤魔化せても、本質を理解する必要のある試験や提出課題は全滅だったのだ。
ほかの貴族子息よりも与しやすいと見なして同じ平民出の自分にすり寄ってきたのは当時から明白だったけれど、リリスの試験勉強や課題を手伝うことで得られる優越感をユージンは気に入った。
今も月に一度の逢瀬では、ウーレンベック商会の魔道開発部門でお飾りの部門長を任せられている彼女のために新製品案を出してやっている。
利用されているのはわかっていても、助けてやっている、という優越感と恋人ごっこの楽しさから抜け出せない。
リリスはほかにも何人かの情報提供者を確保しているようだ。それを浮気だと責める気はない。最初から嘘っぱちの関係なのだ。
(違う、違う、僕はリリスを愛している。彼女こそが本当に愛する女だ。だからマリオンに捨てられても平気なんだ。だって伯爵令嬢のマリオンが、僕なんかを本気で愛するはずがないんだから)
引き取られた伯爵邸では大切に育ててもらった。感謝しかない。
それでもときおり亡くなった父母のことを思い出して気持ちが沈むことがあった。
だけどそんなとき、気が付くといつもマリオンがいた。五歳年下の伯爵令嬢は、小さな体でユージンに抱き着いてぬくもりをくれた。
──急にどうしたんですか、マリオン様。
自分を慰めてくれているのだと気づきながらも聞いてみると、彼女は幸せそうに笑う。
マリオンの瞳に映る自分が微笑んでいるからだ。
記憶の中の光景は温かいけれど、伯爵と馬車に乗っているユージンの体は凍えそうなほど冷たかった。どんなに心が沈んで暗い闇に落ちていったとしても、小さな伯爵令嬢はもう裏切り者を抱き締めには来てくれない。




