第十話 私の夫は出勤していました。
マリオンが図書室にいたころ、ユージンは職場の王立魔道研究所で仕事をしていた。
妻が体調不良で実家へ戻っているので早退して見舞いに行きたいという届け出は、すでに上司が受理してくれている。
幸い今日は時間の目途が立ちにくい魔道実験の仕事はなく、先送りしても問題のない書類仕事が主だった。とはいえ、なるべく残していきたくはない。退勤予定の昼休みに向けて、できるだけ量をこなしていく。
「……」
こなしていくつもりだったが、なかなか進まない。
「ユージン、一息入れてお茶でも飲まないか?」
声をかけられて顔を上げる。
相手はもうユージンの茶器に熱い茶を注いでいた。
ユージンが入所したときに教育係をしてくれた先輩だ。今も魔道研究に夢中になると周囲が見えなくなるユージンを陰に日向に支えてくれている。
「今日は随分手こずってるようだな。お前にしては珍しい」
「すみません。今日は早退させていただく予定なのに、全然仕事が進まなくて」
「気にするなよ。可愛い奥さんが病気なんだろ? そりゃ心配で仕事が手につかないさ。なんなら休めば良かったのに」
「はあ……」
ユージンは言葉を濁した。
王立魔道研究所は、ウーレンベック商会だけでなく多くの貴族や豪商から支援を受けている。ユージンの舅に当たる伯爵も大口の支援者だ。
リリスに対するようにマリオンへの不満は口にできない。そのため所内では愛妻家だと思われている。からかわれるたびに居心地の悪さを感じるユージンだった。
「おめでたか?」
「いえ、違います! 昨日人混みで転んだのが衝撃的だったみたいで……捻挫もしていなかったんですけどね。はは、うちの妻はお嬢様ですから」
「そのお嬢様が可愛くて仕方がないって、顔に書いてあるぜ」
「五歳も年下の子どもですからね。……可愛がるしかありませんよ」
「子どもって……魔道学園を卒業してるんだから大人だろ。それに五歳違いの夫婦って貴族でも平民でも一番いい歳の差じゃないか?」
「そうですかね」
「ウーレンベック商会の会頭夫婦ほど年が離れていれば、妻が子どもって言いたくなる気もわかるがな」
「……そうですか」
ウーレンベック商会の王立魔道研究所担当者はリリスではない。
魔道学園の卒業年度から同級生だと気づいていたとしても、ユージンとリリスの関係に気づいているはずはなかった。
しかし、王立公園はこの研究所に近い。昨日彼女とあの場所で会ったことをユージンは後悔した。
「そういえばお前、近くの王立公園で」
ユージンの心臓が跳ね上がった。
相手は笑顔で言葉を続ける。
「よく奥さんと散歩してるよな」
「え……」
「気づかれてないと思ってたのか。あそこの遊歩道、うちの窓から見えるんだぞ」
「そうでしたか」
「お前、奥さんが可愛くて可愛くて仕方がないって蕩けそうな顔して歩いてるよな」
「っ! そんなことはありませんっ!」
「ははっ、冗談だ。そこまで見えないよ」
生活魔道による衣料の大量生産は始まっていたが、貴族や裕福な平民は受注生産された服を着ている。
遠目でも服を見ればだれかわかるのだ。
ユージンは王立魔道研究所勤めの上に舅から男爵位も与えられている貴族だし、マリオンは伯爵家の令嬢で男爵夫人だ。当然受注生産で自分の服を用意していた。
「でも今の慌てようを見ると本当に蕩けそうな顔して歩いてるんだな」
「違います。……お茶をありがとうございました。仕事に戻ります」
「おう。無理するなよ。お前、朝から顔色悪いからな。奥さんが心配なんだろ?」
「……」
顔色が悪いとしたら、それは昨夜徹夜して今朝食事を摂っていないせいだ。
昨日の朝から丸一日以上、マリオンの笑顔を見ていないことは関係ない。
ユージンは、心の中だけで反論して仕事に戻った。
(僕はマリオンを愛してなんかいない)
父親の功績で引き取られただけの子どもが伯爵家の令嬢を愛するなんて烏滸がましい。
マリオンがユージンに好意を向けるのは、恋に恋しているだけだ。彼女以外の伯爵家の面々はみんなそう言って、ユージンに申し訳なさそうな顔をする。
ワルターに至っては、妹が迷惑をかけているからとリリスとの駆け落ちの手伝いまで言い出してきた。
マリオンは本当に恋に恋しているだけなのかもしれない。
ユージンとの結婚生活はおままごとに過ぎなくて、二十歳になった彼女と本当の夫婦になろうとしたら向こうに拒まれるかもしれない。
もちろん、それはそれでかまわない。ユージンはマリオンを愛していないのだから。ユージンが本当に愛しているのはリリスなのだから。──そのはずだ。
マリオンのことを考えていたら、腹に重いものが落ちていった。
彼女は本当に病気ではないのだろうか。
もしかしたら自分は、永遠にあの笑顔を失ってしまうのではないのか。朝もその考えが頭に浮かんだ瞬間吐き気がして、なにも食べられなくなった。
(大丈夫だ。伯爵家がついているんだぞ。マリオンはすぐ元気になる。そうしたら一緒に王立公園の遊歩道へ行こう。今年は去年新居に植えた花で栞を作ってもいい)
ユージンはマリオンを愛してはいない。
愛してはいないけれど、彼女のことを考えながら花の栞を作る時間は好きだった。
渡した瞬間の彼女の笑顔を思い浮かべると、それだけで胸が温かくなる。彼女は春のたびに贈り続けた栞を宝石箱に入れて、宝物のように大切にしてくれていた。




