トラック島の黄昏
「潜水艦の最優先攻撃目標は日本のタンカーである」
これは、アメリカ海軍作戦部長キング大将が昭和十八年九月に発した指令です。この時期、アメリカ海軍は太平洋方面に百十八隻もの潜水艦を配備し、大規模な通商破壊作戦を実施していました。その作戦範囲は、豊後水道の出口から沖縄、フィリピン、台湾、サイパン、トラック、パラオ、シンガポールなどの要地を結ぶ海上交通線です。優れた電波探知装置を有する米潜は日本軍の攻撃を巧みにかわしつつ、日本の輸送船を狙い撃ちました。このため日本側の輸送船被害が激増し、日本軍は消耗させられていきます。
橋本以行少佐が呂四四潜の艦長に任命されたのは、そんな頃です。呂四四潜は、玉野造船所で竣工したばかりの新鋭中型潜水艦です。中型ながら艦隊随伴能力を有しています。橋本少佐は直ちに訓練航海を開始し、潜航、浮上、砲戦、魚雷戦などの諸動作を繰り返し、練度の向上に努めました。
この日も洋上訓練で乗組員を散々に絞り上げると、訓練終了後、橋本少佐は呂四四潜を停泊させ、艦を先任将校に預けて陸に上がりました。
(電探が欲しい)
電探試験を何度も繰り返してきた橋本少佐は、いつしか潜水艦隊内でも指折りの電探通になっていました。電探を知れば知るほど欲しくなっていました。
(目視と電探では勝負にならない)
これが橋本少佐の実感です。目視での勝負ならば日本海軍の監視員は米海軍より優れた能力を発揮します。しかし、電探には敵いません。電探は霧でも夜闇でもスコールでも見通してしまう。敵が千里眼を持っているなら、こちらも持たねば勝負になりません。それが橋本少佐の持論です。
「呂四四潜に電探を載せてくれ」
橋本少佐は奔走しました。潜水戦隊司令部、呉工廠、呉航空隊などを巡り、技術将校に会っては懇請しました。呉航空隊に行ったところ、移動可能な対空電波探信儀が余っているというので見せてもらいました。思っていたより小さく、これなら潜水艦にも載せられると思いました。
「これをくれ」
橋本少佐は言ってみました。すると「かまわんよ」と色好い返事が返ってきました。
「きっとだぞ、すぐ手続きする」
橋本少佐は潜水戦隊司令部にとって返し、参謀に事情を話し、潜水戦隊司令部から呉航空隊に対して電探の借用を申し込んでもらいました。すると許可が下りました。橋本少佐は大いに喜びました。その電探を呉工廠で呂四四潜に装備し、十一月十三日から実験を開始しました。その日は調子が悪かったものの、十四日になると良好な結果が出ました。最大一万四千キロで機影を確認できたのです。平均でも五千メートルで機影を捕捉できました。
「不満は残るが、無いよりはマシだ」
対空電探が機能すれば、敵の航空攻撃をかわすことができます。潜水艦の隠密性が格段に向上するのです。橋本少佐は実験結果を整理し、第十一潜水戦隊司令部に提出しました。司令部は、橋本少佐の実験結果に「即時採用すべし」との意見書を添えて関係機関に通報してくれました。橋本少佐は良い返事を期待しましたが、結果は逆でした。
「艦本にことわりもなしに何故そのような実験をしたか」
艦政本部から呉工廠に叱責が舞い込みました。どうやら艦政本部と航空本部の縄張り争いが背景にあるようです。そうこうするうち呂四四潜にソロモン方面への出撃が下令されました。橋本少佐は是が非でも電探を装備したいと思い、東京で関係機関をまわり、懇願し、会議を開きました。しかし、結果は否です。
この例に限らず、現場から上級司令部へ具申された意見書のほとんどは拒絶されました。それはやむを得ないことでしょう。全ての意見具申を採用していたら際限がありません。ですが、戦況の悪化にともなって、上級司令部は意見具申を頭ごなしに否定するようになっており、ときに冷静で合理的な判断さえ失いがちになっていました。
たとえば、昭和十八年十一月、米機動部隊がギルバート諸島に来襲した際の潜水艦隊司令部の指揮ぶりです。マキン島とタラワ島が十一月十九日からアメリカ軍の爆撃隊による空襲を受け、二十一日にはアメリカ軍が上陸を開始しました。そのとき、潜水艦隊司令部は周辺海域所在の潜水艦九隻に急行を命じました。
「水上進撃せよ」
「水上強行移動せよ」
「水上待敵せよ」
潜水艦隊司令部が発したこれらの命令は、潜水艦の特性を無視していました。制空制海権のない海域での水上航行ほど潜水艦にとって危険な行動はありません。隠密性こそが潜水艦の強みなのです。ところが、その隠密性を棄てろという。
「死んでもよいから急げ」
というに等しい。常軌を逸した命令でした。電探を持たぬ日本海軍の潜水艦は、敵に所在を知らせぬことが生命線でした。まして「水上待敵せよ」は論外でした。結果的にギルバート方面へ向かった潜水艦九隻のうち六隻が消息不明となってしまいます。大損害です。
伊一七四潜もギルバート諸島への急行を命ぜられた一艦です。命令どおり、水上航行するうち敵機に発見されました。その後、数十時間にわたって執拗な敵駆逐艦の爆雷攻撃を受け、危機一髪のところをスコールに救われ、命からがら帰還することができました。伊一七四潜の艦長は南部伸清少佐でした。南部少佐は潜水艦隊司令部への報告に際し、次のように付言しました。
「飛行機と駆逐艦とを連携させた敵の対潜掃討戦術に対し、わが方は電探なく、水中速度は遅い。真正面からぶつかれば自滅することは明らかだ。未帰還艦は、ことごとく戦果をあげ得ずして沈んだと認めざるを得ない」
これに対して司令部参謀は声を荒げました。
「何を言うか。伊一七五潜は敵空母を撃沈して帰還している。帰らざる艦は、みな戦果をあげたるものと認む」
「馬鹿な。何を根拠に」
「黙れ」
南部少佐は無駄を悟って沈黙しました。未帰還艦に対する温情は理解できるとしても、命からがら帰投した潜水艦長に対する敬意は皆無でした。
英米海軍はすでに対潜水艦戦術を完成させていました。ハンター・キラー戦術といいます。護衛空母、駆逐艦、航空機がチームを組み、専ら敵潜水艦を探知するハンターと、攻撃専門のキラーとに役割を分担し、相互に連絡を取り合いながら敵潜水艦を追い詰めていくのです。護衛空母から哨戒機と攻撃機が飛び立ちます。駆逐艦は、哨戒と攻撃とに役割を分担し、敵潜水艦を確実に探知し、攻撃するのです。事実、この戦法によってドイツ海軍のUボートは完全に封殺されました。この完成された戦術の前には、旧態依然たる日本海軍の潜水艦戦術は一騎駆けの荒武者戦法でしかなかったのです。
こうした実情を戦場の潜水艦長たちは肌で感じました。だからこそ、南部少佐のような意見になります。しかし、潜水艦隊司令部は耳を貸しませんでした。むしろ伊一七五潜による敵護衛空母撃沈という奇跡的な戦果にすがりつき、自己正当化に血道をあげました。潜水艦隊司令長官高木武雄中将にせよ、参謀長仁科宏造少将にせよ、豊富な潜水艦経験の持ち主です。それが不思議なほどに現場を理解しませんでした。司令部勤務は人を変えてしまうもののようです。
こんな話があります。潜水学校戦術科教官だった井内四郎少佐は、ギルバート方面での敗北と大損害を知り、潜水艦隊の戦果不振を憂えました。井内少佐はすでに上級司令部にあてた意見書を書き上げていましたが、自信がありませんでした。そこで井内少佐は、その意見書を潜水学校甲種学生の川島立男大尉に見せ、意見を求めました。川島大尉は海軍兵学校六十四期を首席で卒業した秀才です。井内少佐と川島大尉は協力して「潜水艦戦戦果増進に関する意見書」を書き上げ、潜水学校幹部に提出しました。これを見た校長の山崎重暉少将は、昭和十九年二月、潜水学校の所見として同意見書を上級司令部および関係各部に提出しました。すると非難の嵐に曝されました。山崎校長は潜水艦隊司令部に呼びつけられ、叱責され、釈明させられました。その際、意見書の表紙には朱墨で「国賊」と大書されていました。敗北は、人も組織も狂わせてしまうようです。
「電探をくれ」
奮闘努力も甲斐なく、昭和十八年十二月二十五日、橋本以行少佐の呂四四潜は電探未装備のまま舞鶴港を出港しました。豊後水道を出るとすぐに橋本少佐は潜航を命じました。日本近海には米潜が数多く出没しており、むしろ危険なのです。橋本少佐は慎重に進みました。敵の哨戒圏内では潜航しました。トラック島への到着は予定より遅れますが、やむを得ません。赤道直下の無風地帯では海上航行しました。水温三十度です。艦内気温は冷却器のおかげで三十度に保たれています。艦内が四十度から五十度にまであがる老朽艦とは違います。
潜水艦での食事は缶詰食が中心です。だから乗員は生鮮食品に飢えてきます。そのため、呂四四潜艦内のありとあらゆる部屋にはバナナの房が吊されていました。熟れた房から食べていくのです。
昼間の海上航行は爽快でした。赤道の無風地帯でも十八ノットで航行すれば強い風を受けることになります。雄大な大海原の風景、ときどき出会うイルカやトビウオ、ときに戦争中であることを忘れてしまいそうになります。この日、呂四四潜は鯖の群れにぶつかりました。上甲板でたくさんの鯖が跳ねています。それを見張り員がチラチラ横目で見ていました。新鮮な食物に飢えているのです。
「あれを拾ってこい」
橋本少佐は見張員のひとりに命じ、自分が見張りを務めました。見張員は喜色満面で甲板に降りていき、帽子いっぱいに鯖を詰めてきました。この鯖は夜食になりました。
昭和十九年一月上旬、呂四四潜はトラック島に到着しました。戦艦「大和」をはじめとする連合艦隊の艨艟が停泊するトラック泊地の様相は壮観です。潜水艦用泊地に自艦を停泊させた橋本少佐は潜水艦隊司令部に出頭しました。司令長官高木武雄中将に申告した後、参謀に電探のことを相談してみました。司令部参謀は、電探装置の有無を関係機関に問い合わせてくれました。幸いなことにラバウルの南東方面艦隊司令部が呂四四潜に八木アンテナを提供してくれることになりました。
橋本少佐は呂四四潜をラバウルへ回航させ、さっそく八木アンテナを装備してもらいました。試験してみると結果は良好です。橋本少佐は直ちに実験結果をまとめ、潜水艦隊司令部に提出しました。そのデータを持って潜水艦隊参謀長仁科宏造少将が内地に飛びました。
「直ちに潜水艦に電探を配備してください」
海軍中央は、無情にも、この意見具申を却下しました。現場の潜水艦乗りは電探を渇望しましたが、上級司令部は頑固です。潜水艦隊司令部の立場も苦しいものでした。上と下から責められるからです。こうしたやりとりが繰り返されるうち、潜水艦隊の参謀は次第に無気力になり、上級司令部に迎合するようになっていきました。
「日本海軍の潜水艦にはレーダーがない」
この事実をアメリカ軍は把握していました。そのため、アメリカ軍の航空機には「水上航行中の潜水艦を発見したら直ちに攻撃して良い」という指令が出ていました。敵味方の識別は省略して良いとされました。なぜかといえば、すべての米潜にはレーダーが完備されていたからです。航空機の機影を見つけたら米潜は必ず潜航する。だから、浮かんでいる潜水艦はすべて日本軍と判断してよかったのです。これでは日本軍の損害が増えるのも当然です。
呂四四潜は、ソロモン諸島東方海面における通商破壊を命ぜられ、一月二十五日にトラック島を出港しました。一週間ほど駆け回りましたが、敵影を見ませんでした。
(電探が欲しい)
そんな不満が橋本少佐を慎重にさせていました。敵の要港に近づけば獲物は多いはずです。しかし、危険です。外洋を単独航行する敵商船を見つけられれば理想的ですが、容易には見つけられません。橋本少佐は無理を避け、外洋域で敵商船を捜し回りました。しかし、目標を発見できませんでした。やむを得ず戦果ゼロのまま呂四四潜はトラックへの帰路につきました。
トラック入港三日前、味方識別のため呂四四潜は入港予定を通信しました。翌日、味方哨戒圏内に入ったので昼間から海上航行しました。すると午後三時頃、東京からの緊急電を受信しました。
「トラック環礁外に敵戦艦、空母あり。呂四四潜は急行せよ」
トラック環礁に近づいた頃には夜でした。トラック島は炎で赤く照らされており、ときどき爆発音が聞こえてきます。橋本少佐は呂四四潜をトラック環礁の東方海上へと進ませましたが、すでに敵影はありません。
そのまま哨戒を四日間つづけましたが、敵は現れません。やがて帰投命令を受信したのでトラックへ向かいました。沈没船を避けながら、トラック泊地へ慎重に進入すると、連合艦隊の主力は姿を消していました。見えるのは沈没した輸送船群のマストや煙突、そして転覆船の赤腹だけでした。潜水艦隊の基地では潜水母艦「平安丸」が桟橋に横付けしたまま沈んでいました。潜水母艦は、潜水艦に弾薬と給与物資を補給し、乗組員を休息させるのが任務です。生鮮食品だけでなく酒、ビール、羊羹、菓子から日用品まで何でもそろっていたし、入浴室や娯楽室まで備えられていました。潜水艦乗りにとってはかけがえのない船です。
「惜しいことをした」
平安丸での休養を楽しみにしていた呂四四潜乗員すべての感慨です。
空母九隻を主力とする米機動部隊がトラック島を空襲したのは昭和十九年二月十六、十七、十八日の三日間です。連合艦隊主力はパラオに退避して難を避けましたが、所在航空機百八十機が撃破され、輸送船二十六隻が沈められました。南洋方面における日本海軍最大の兵站基地が空襲され大打撃を受けたのです。敗勢は明らかです。
トラック基地の航空戦力が潰滅してしまったため、ラバウル航空隊がトラック島へ移駐することになりました。ラバウルの航空戦力は皆無となり、ソロモンおよびニューギニア方面の制空権は完全にアメリカ軍の手に落ちました。
輸送船も激減しました。昭和十八年における日本商船の被害は二百七万トンに達しました。戦前予想では六十万トンでしたから、その三倍以上の大損害です。開戦以来の累計では三百万トンを越えてしまいました。開戦時の船腹量のほぼ半分が沈められてしまったのであり、日本軍の兵站線は半身不随となりました。そのため最前線のソロモン、ニューギニア方面の陸上部隊は孤立しました。制空制海権がなく、輸送船が来ない。唯一の輸送手段はもはや潜水艦しかなくなりました。
海軍は輸送潜水艦の建造を進めました。輸送潜水艦は輸送目的のために設計、建造された潜水艦です。潜補、丁型、潜輸小といった艦型があります。潜補は伊三五一型とも呼ばれ、離島への燃料補給用に建造され、戦時中に二隻が就役しました。丁型は伊三六一型ともいい、兵員物件輸送用に建造されました。十一隻が就役しましたが、その一部は後に改装されて「回天」搭載艦となりました。潜輸小は小型艦です。波一〇一型と呼ばれ、十一隻が就役しました。
敗色濃厚なトラック島の潜水艦隊司令部に鳥巣建之助少佐が赴任したのは昭和十九年三月十日です。トラック島の諸施設はアメリカ軍の空襲によってあらかた破壊され、連合艦隊の雄姿はなく、航空隊にも心細い戦力しか残っていませんでした。環礁内には沈められた何十隻もの艦船のマストが立ち折れています。
鳥巣少佐は、潜水学校甲種学生として開戦を迎えました。卒業と同時に呂六五潜の艦長となり、ラバウル方面の監視任務に従事しました。次いで伊一六五潜の艦長となり、インド洋やスラバヤ海で通商破壊に任じました。昭和十八年に海軍大学校甲種学生となりましたが、戦局の悪化に伴って大学校が中断されたので、潜水艦隊司令部参謀を命ぜられたのです。
「鳥巣、貴様が来るのを待っていたぞ」
トラックでは海兵同期の井元正之少佐が出迎えてくれ、料亭パインで宴会を開いてくれました。井元少佐は伊三二潜の艦長です。宴席に集ったのは、伊四一潜艦長の板倉光馬少佐、伊二潜艦長の山口一生少佐、伊一六九潜艦長の篠原茂夫大尉、呂三六潜艦長の川島立男大尉です。
酒がすすむうち、手柄話のネタも尽き、話題は上級司令部に対する批判になりました。誰もが鬱憤をためこんでいます。
「輸送、輸送の連続で魚雷の持ち腐れだ。輸送、輸送、輸送ばかり。敵の爆雷で何度も死にかけた。生きているのが不思議なくらいだ」
大酒飲みの板倉少佐が浴びるように呑みながら言います。これに和したのは山口少佐です。
「俺は伊二〇潜の水雷長としてインド洋の通商破壊をやった。八隻やったよ。太平洋で貴重な潜水艦を沈めるくらいなら、インド洋に持っていって通商破壊をジャンジャンやらせるべきだ」
「インド洋の極楽戦、ソロモンの地獄戦というが、本当なのか。ペナンは良いところらしいじゃないか」
井元少佐が問うと、鳥巣少佐が答えました。
「ペナンは好いところだよ。季候は好いし、物資も豊富だ。俺もインド洋で通商破壊をやったが、投入艦数が少なすぎる。もっと戦力をインド洋に集中すべきだと思う。上の方はわかってない」
これに同意したのは川島大尉です。
「上級司令部は無理解です。私は井内少佐とともに潜水艦用兵に関する意見書を書き、潜水学校に提出しました。校長は山崎少将でしたが、これを潜水学校の意見として各方面司令部にまわしてくれました。そしたら、けしからん、ということで山崎少将は潜水艦隊司令部に呼びつけられ、大目玉をくらったそうです。校長には気の毒なことをしました」
「その意見書には、どんなことを書いたんだ」
尋ねたのは篠原大尉です。
「ずいぶん気を使って書きました。潜水艦を輸送に使うのはやむを得ない。しかし、敵の後方を遮断するために余力を通商破壊に注ぐべきだ。そんな内容でした」
「ごく常識的な内容じゃないか。なにが悪かったんだ」
「わかりません」
上級司令部の考えがよく解らない。このこと自体が現場指揮官にとって大きなストレスです。この話題を板倉少佐が引き取りました。
「上が何を考えていようと輸送はやらねばならん。俺はブイン輸送を二回やったばかりだが、現地の陸上部隊は孤立無援で本当に苦労している。俺の潜水艦にやってきた連絡将校はボロボロの軍服を着ていた。俺たち潜水艦乗りも不潔だが、そんなものじゃない。ボロボロなんだ。その連絡将校は俺と握手してポロポロ涙を流したよ。声にならないくらい感激して。それほどに補給を待ちこがれている。あのときは敵の魚雷艇二隻に襲撃されたが、現地の武装大発が命がけで撃退してくれた。上陸用舟艇に機関銃を乗せただけの船だ。それで敵の魚雷艇を退けてくれた。それほどに現地部隊は輸送物資を待っている。ブインには第八艦隊司令長官の鮫島具重中将がいらしてね。俺は、少尉時代に酔った勢いで殴ったんだ、あの人を。鮫島さんは重巡『最上』の艦長で、俺は新米の少尉だった。俺は、鮫島さんが私用で内火艇を遅刻させたと思い込み、酔った勢いで殴ってしまった。帰艦時間が遅れると誰でも罰を喰らうだろう。でも、あの頃は上級士官だけ特別に許されていた。俺はその不公平が許せなかった。気づいた時には殴っていたよ。酔いが覚めて俺はクビを覚悟した。でも翌日、俺は重巡『青葉』への異動を命じられただけですんだ。鮫島さんの温情に救われたんだ。あれ以来、俺は鮫島さんに会っていなかったし、礼も言ってなかった。だから俺は鮫島中将宛に手紙を書いた。八年前に鮫島長官を殴った一少尉が潜水艦長となってブイン輸送に参りました、とね。ウイスキー一本と煙草一包みを添えて連絡将校に託した。そしたらラバウルの司令部に電報が届いた。『いまいちど伊四一潜の作戦輸送を切望す』とね。これじゃあ行くしかない。行ったら、今度は鮫島さんからの手紙を連絡将校が届けてくれた。『物資欠乏その極みに達し』と書いてあった。『ウイスキーは水に割り、煙草は細分して将兵に分かち』とも書いてあった」
板倉少佐の話に一同はしんみりしました。その沈黙を破ったのは山口少佐です。
「貴様が鮫島艦長を殴ったあと、海軍次官の通達が出た。高級士官も帰艦時刻を厳守すべし、ってな。貴様の大手柄だよ」
一同、哄笑しました。
「友軍が補給を待っている以上、輸送はやるべきだし、現に俺もやっている。だが、ギルバート諸島が襲撃されたときの連合艦隊はどうだ。戦艦は動きもせず、九隻の潜水艦が急行を命じられた。しかも水上航行していけと命令されたんだ。分厚い装甲に守られた戦艦は動かさず、装甲のない潜水艦を行かせる。しかも水上航行で。上命下服が軍隊の常とはいえ、あまりにも常識がない。連合艦隊はどうかしている」
憤慨する井元少佐に答えたのは鳥巣少佐です。
「連合艦隊は、その前にマーシャル方面へ出撃して空振りして帰ってきたところだった。だから燃料が空っぽだったらしい」
「そうだったのか。俺は、去年まで呉海軍工廠の魚雷部にいた。あそこでは人間魚雷を研究している。今にとんでもない作戦が始まるかも知れん。なあ鳥巣、おまえは潜水艦隊の参謀だ。頼むぞ。思いやりのないところに真の統率はない」
そう言った井元正之少佐は、この二週間後、マーシャル諸島で消息不明となります。山口一生少佐は四月に東カロリンで、川島立男大尉は六月にサイパン方面で、そして篠原茂夫大尉は昭和二十年三月に沖縄方面で行方不明となります。