アリューシャン気象偵察
キスカ撤退作戦は、潜水艦部隊から第一水雷戦隊に引き継がれました。第二次キスカ撤退作戦の骨子は、北太平洋の濃霧にまぎれて軽巡二隻と駆逐艦六隻をキスカ湾に高速進入させ、迅速に五千余名の守備隊を収容し、速やかに大挙撤退するというものです。海霧が成功の鍵でした。濃霧の中ならば敵の航空攻撃を受けることがありません。
第一水雷戦隊を率いるのは木村昌福少将です。木村少将は、わずか四ヶ月前、第三水雷戦隊司令官として南洋のビスマルク海戦に参戦し、敵機の絶え間ない空襲に曝された経験を持っています。ビスマルク海戦は惨敗でした。木村少将は、守るべき輸送船八隻と駆逐艦四隻を撃沈されてしまいました。しかも木村少将自身、敵機の機銃弾を左大腿部、右肩、右腹部に受けました。その重傷を癒やして現場復帰したばかりです。
キスカ撤退作戦の実施にあたり、木村昌福少将は気象専門士官の派遣と電探搭載艦の配備を強く要望しました。上級司令部はこれに応え、九州帝大卒業の気象士官と新鋭駆逐艦「島風」を第一水雷戦隊に与えました。「島風」には二十二号電探と三式超短波受信機が装備されています。
昭和十八年七月七日、幌筵を出撃した第一水雷戦隊は、キスカ島の南西千キロの海上に集結し、気象を見つつ突入の機会をうかがっていました。しかし、キスカ島では季節外れの晴天が続いています。このため突入の機会を得ぬうち燃料が不足してきました。木村艦隊はキスカ湾まであと二時間の地点にまで接近しましたが、キスカ島には肝腎の霧がありません。
「司令、突入すべきです」
参謀は突入を建言しました。ここまで来れば突っ込みたいのが人情です。駆逐艦の艦長たちも突入を進言しました。しかし、木村昌福少将はこれを抑えて幌筵への撤退を命じました。アメリカ軍の航空攻撃を骨身に染みて経験していた木村少将だからこそ為し得た決断です。感情に流されて突入していれば、木村少将はビスマルク海戦に続いて二度目の惨敗に直面していたかも知れません。
「なぜ突入しなかったか」
幌筵に帰った木村少将は上級司令部からの強い非難に曝されました。ですが、木村少将は相手にしませんでした。名将とは内なる敵に勝つ者です。現場たたき上げの水雷屋たる木村少将は、ビスマルク海戦の悪夢を経て、尋常ならざる精神力を身につけたようです。木村少将は、艦隊内の厳しい批判を耳にしても豊かなカイゼル髭のなかに表情を隠し続けました。そして、気象情報のみを重視しました。
その気象と悪戦苦闘していたのが気象予報官の竹永一雄少尉です。竹永少尉は非常な精神的重圧に苦しんでいました。
「いつになったら霧が出るんだ」
「お前が霧をつくれ」
心ない面罵にさらされ、時に自殺したくなるような精神的圧迫の下、竹永少尉は気象データを分析し続けました。そして、ついにひとつの判断を得ました。
「七月二十五日以降、キスカ島周辺に確実に霧が発生する」
木村昌福少将は決断し、第一水雷戦隊を七月二十二日に再出撃させました。霧に恵まれなかった前回とは異なり、今度はひどい濃霧に悩まされました。霧のために接触事故さえ発生しました。ともかく木村艦隊はキスカ島の南方沖に集結して突入の機会を待ちました。
「翌二十九日は濃霧の可能性大」
竹永一雄少尉の気象予報です。この予報は、気象偵察中の潜水艦およびキスカ守備隊の意見とも合致しました。木村少将は二十九日の突入を決断します。
軽巡二隻と駆逐艦六隻は濃霧の中を突進し、午後一時四十分、無事にキスカ湾へ入泊しました。陸上部隊五千余名の収容は迅速に行われ、午後二時三十五分に終了しました。木村艦隊はおよそ二時間でキスカ湾を出て、八月一日に幌筵に帰着しました。
木村艦隊によるキスカ撤退作戦を海中から静かに支援していたのは三隻の潜水艦です。伊二潜、伊五潜、伊六潜がアリューシャン海域での気象偵察に任じていたのです。キスカ島の天候を予想するためには周辺地域の気象情報が欠かせません。板倉光馬大尉の伊二潜が受領した命令は次のとおりです。
「アダック島の北方五ないし六海里に達し、爾後、概ね十海里圏内を機宜行動しつつ気象通報を実施すべし」
アダック島にはアメリカ軍の航空基地があるため、同島の天候は単なる気象情報以上に重要です。アダック島が濃霧ならば、敵軍の飛行機は飛べません。たとえキスカ島が晴天であっても、木村艦隊はキスカ島に突入できるかもしれないのです。
気象通報というと楽な任務に思えるかもしれませんが、実際は命がけの任務です。アダック島はキスカ島よりも三百五十キロほどアラスカ側にあります。まさに敵中です。その敵中で気象を観測するために定期的に浮上し、観測結果を通信しなければなりません。これが危険なのです。浮上すれば、アメリカ海軍艦艇のレーダーにキャッチされます。また、通信すれば敵に傍受され、位置を特定されます。必ず敵の飛行機か駆逐艦がやってくるでしょう。それでも気象を通報せねばならないのです。伊二潜には十海里ほどの移動が許されていましたが、通報を繰り返すうちには行動パターンが敵に読まれるかもしれません。
昭和十八年六月二十九日、伊二潜は幌筵を出港しました。海上では濃霧が続きました。艦長の板倉光馬大尉はアムチトカ水道を北上してアダック島北方の観測地点に向かおうと考えました。しかし、濃霧が何日も続いたため天測ができず、艦位を特定できなくなりました。このためアムチトカ水道を突破できません。気は焦るものの、艦位不明のままアムチトカ水道に突入すれば座礁の危険がありました。十日ほどもアムチトカ水道の南に足止めされました。七月十一日の夜、わずかに霧が晴れました。
「しめた」
航海長が素早く天測し、艦位を確定しました。
「これで行ける」
伊二潜は潜航し、速度五ノットでアムチトカ水道へ進入しました。
(やれやれ)
板倉大尉は一安心して久しぶりの仮眠をとりました。しかし、間もなく叩き起こされました。
「艦長、敵の艦艇です。音源左七十度、感二」
「深度五十」
深度を五十メートルにとると、パイプの継ぎ目やバルブから漏水が始まりました。老朽艦の悲しさです。
「音源、感三」
「艦尾、別の音源二隻」
敵艦は三隻らしい。
「総員配置につけ。爆雷防御、魚雷戦用意」
敵艦のスクリュー音が耳に聞こえるほどになりました。三隻は頭上を通過していきましたが、爆雷は落ちてきません。いったん消えたスクリュー音が再び耳に入り、大きくなります。爆雷が海面に着水する音がしました。
「両舷前進一杯、取り舵一杯」
「爆雷、来るぞ」
激しい衝撃とともに艦内は真っ暗になりました。艦体は左右上下に激しく揺さぶられ、乗組員は正気を保つのも難しい。爆雷攻撃を受けると乗組員は爆発音の数を記録するのですが、その余裕さえありません。百発ほども爆雷が破裂したかと思われた頃、敵の攻撃が止みました。
「昔の船は頑丈に造ってあるんだ」
板倉大尉は老朽艦を誉めて乗員を安心させようとしました。これに航海長が和しました。
「凄かったなあ、てっきりやられたかと思いました」
「油断するな。またくるぞ」
案の定、スクリュー音が聞こえてきました。
「両舷強速面舵一杯、深度二十五」
「艦長、二十五ですか」
「二十五だ、急げ」
さっきの爆雷は下の方で爆発していた。そう感じた板倉大尉は、深度を浅くとって爆雷をかわそうとしたのです。しかし、敵は甘くありませんでした。伊二潜は、海神の巨大な手に握られ激しく揺すぶられるような激震に襲われました。一方的な防御戦です。潜水艦には反撃手段がありません。艦長の板倉大尉でさえ気が狂いそうになります。まして初めて爆雷を体験する乗員はどうなっているだろう。二度目の爆雷攻撃が止むと、海中は静かになりました。しかし、敵艦三隻はなおも付近に張りつき、こちらの様子をうかがっています。
「被害状況、知らせ」
地獄のような爆雷攻撃だったにもかかわらず被害は軽微でした。ですが、進退は窮まっています。逃げることもできず、戦う術もないのです。位置を知られた潜水艦は、一方的に攻撃される標的でしかありません。
「電池はあと何時間保つか」
「あと二時間で限界です」
すでに潜航時間は十時間以上に達しています。電池が切れたら「万事休す」です。進退きわまった潜水艦の最後の手段は浮上決戦です。勝ち目はなく、バンザイ突撃のようなものです。それでも一方的に沈められるよりは良い。一時間後、板倉大尉は意を決しました。
「いまより浮上決戦に転ずる。砲戦、魚雷戦、用意」
「深度、十六半」
「一番、あげい」
昼間用潜望鏡をのぞきます。何も見えません。爆雷の衝撃で壊れたようでした。
「二番」
夜間用潜望鏡をのぞきますが、同じでした。伊二潜は失明したのです。
「艦長、どうですか」
航海長が声をかけてきましたが、板倉大尉は答えません。答えられませんでした。
「砲戦準備よし」
砲術長が大声で報告します。聴音員の声が続きます。
「音源なし」
この報告を板倉大尉は信じませんでした。おそらく聴音機も破壊されたのでしょう。
「艦長、電池がなくなりました」
機関長が悲痛な声をあげました。すでに潜航してから十八時間です。よく保ったものです。板倉大尉は死を覚悟しました。
「これより浮上する。機関長、浮上と同時に蓄電を開始せよ」
「砲術長、浮上したら砲撃を開始せよ。前部の砲は右、後部の砲は左の敵を撃て」
「航海長、俺が死んだら指揮をとれ」
あらかじめ指示を与えておいて板倉大尉は浮上を命じました。
「浮き上がれ」
「メイン、タンク、ブロー」
見張り員は浮上しきらぬうちにハッチを開け、海水をかぶりながら艦外に出ていきます。砲術員がこれに続きます。板倉大尉も艦橋に出ました。霧は残っていますが、はるかに水平線が見えます。どこにも敵艦がいません。
「両舷第一戦速。補気、充電はじめ。本艦は配備点に急行する」
故障した潜望鏡のうち第二潜望鏡が回復しました。これは夜間用潜望鏡ですが、昼間でも使えないわけではありません。潜望鏡が回復しなかったら、いかに強気の板倉大尉でも帰投するしかなかったでしょう。
七月十三日午後五時、伊二潜はようやくアダック島北方の配備点に到着しました。幌筵を出港してから二週間が経過しています。ようやくの任務開始です。
翌日の午前六時、伊二潜は気象電報を発信しました。板倉大尉はそのまま潜望鏡深度を維持し、海上の様子を注視しました。三十分後、敵の水上偵察機が現れました。
「潜航深度五十」
深度を五十メートルにすれば敵機に視認されることはありません。やがて海上から哨戒艇らしいスクリュー音が聞こえてきました。
(敵の警戒態勢は完璧だ)
舌を巻く思いです。ちなみにドイツ海軍総司令官デーニッツ提督が大西洋での群狼作戦を中止したのは昭和十八年五月です。もはや大西洋では英海軍の対潜兵器と対潜戦術がUボートを圧倒していました。英海軍によって開発された対潜兵器と戦術は米海軍に引き継がれ、太平洋へと転用されつつありました。それが日本海軍の潜水艦を苦しめているのです。
伊二潜は六時間おきに気象電報を発信するために浮上します。また、一日あたり最低でも三時間は海上航行して補気と充電を行う必要があります。この行動が命がけなのです。
七月十四日の夜は濃霧でした。板倉大尉は気象通報をすませると、そのまま海上航行して充電を開始しました。アムチトカ海峡で非常な苦境に陥ったにもかかわらず、板倉大尉の心中には、まだどこか甘いところがありました。間もなく充電が終わろうとする頃、いきなり艦首に至近弾を受けました。敵のレーダー射撃です。
「両舷停止、急速潜航」
命じつつ、板倉大尉は自分を叱りました。
七月十五日、伊二潜の電信員は第一潜水戦隊からの電報を受信しました。
「ケ号作戦を中止する」
キスカ島の晴天に阻まれ、第一水雷戦隊司令官の木村昌福少将が作戦の一時中止を決断し、帰投したのです。ですが、板倉大尉には詳しい事情が解りません。この短い電文の字間を読み、判断せねばなりません。
(これは一時中止の意味だろう。まさかキスカ島の陸上部隊を見殺しにはすまい。作戦再開時には電命が来るにちがいない。それまでは自由に行動してよいだろう)
板倉大尉は伊二潜をアムチトカ水道に向かわせました。敵の艦船を沈めてやろうと思ったのです。キスカ島海軍根拠地隊の電報を傍受したところによれば、敵はキスカ島への艦砲射撃を繰り返しています。運がよければ大物を仕留められます。伊二潜はアムチトカ水道で索敵しましたが、霧に阻まれて敵艦を発見できませんでした。
七月二十二日、第一潜水戦隊司令部から木村艦隊再出撃の電信が届きました。伊二潜は再びアダック島北方の配備点にもどり、六時間毎の気象通報を再開しました。その間に木村昌福少将に率いられた第一水雷戦隊が霧を冒してキスカ湾に進入し、約五千二百名の兵員を撤収させました。
キスカ撤退作戦に対する伊二潜の貢献度はどれほどだったでしょう。その危険度の大きさに比べれば、ごくわずかな貢献を果たしたに過ぎないかもしれません。しかし、それが潜水艦の気象偵察という任務でした。