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如月は言う。
「哲也少年、今の君には新藤くんの言っていることが理解できないだろう。私だって理解できないくらいだ。でも、大人になれば少しずつ理解できることもある。他人の善性だって信じられるようになるさ。だから、無理に彼の主張を聞き入れろとは言わない。今はただ…私たちに従ってもらうよ」
「従う? 僕は誰にも従わない。だって、僕は一番強いから!」
そう言って、哲也が手の平を新藤と如月の方へ向けた。強力な異能は、覚醒してからどんな人間であろうと、簡単に跪かせるものであった。しかし、その力は発動しない。哲也は怪訝そうな顔で自分の手の平を見ると、如月を見た。
「本当だったのか」
呟く哲也は驚愕の表情を浮かべていた。そして、新藤と如月に背を向けて駆け出す。新藤はすぐさま追うが、目の前にはフェンスがあった。新藤の身体能力にとって、そんなものは些細な障害でしかないが、哲也との距離はやや開いてしまう。それでも、如月の影響によって異能が使えない哲也は、ただの子供だ。新藤が本気で走れば、簡単に追いつくはずだった。
哲也はマンションの敷地を出て、車通りの激しい道へと走った。新藤は哲也が車に轢かれてしまうのでは、と冷や冷やしながら追ったが、彼は平然と車道へ飛び出す。新藤は逃がすまいと車道へ出ようとしたが、接近するエンジン音に気付き、足を止めた。一台の車がブレーキ音を立てて、彼の目の前で急停止する。
後少し、反応が遅れていたら、車に轢かれていたかもしれない。近くの信号が赤から青に変わったのか、新藤の前を何台もの車が通過した。新藤は別の道を探すが、哲也が視界から消えている。
追跡を諦めない、という選択肢もあるが…新藤は溜め息を吐いて振り向くと、如月がのろのろと走っている姿があった。本人としては全力疾走なのかもしれないが、既に息も切れていそうだ。この調子では、哲也を追いかけたとしても、如月の力は及ばないことになってしまうだろう。そうなれば、返り討ちになるだけだ。
「はぁはぁ…新藤くん、哲也少年は?」
何とか新藤に追いついた如月が息を切らしながら言う。
「駄目です。逃げられちゃいました」
「そうか…やっぱり…子供の、足は…速いな」
どうやら酸素が足りていないらしい。如月は今にも座り込んでしまいそうだった。
「すまない、私が…もう少し、走れれば…こんなことには」
「大丈夫です。きっと、成瀬さんが上手くやってくれてしますよ」
新藤は成瀬に電話をかけると、数秒で応答があった。
「あ、成瀬さん。どうでした?」
「問題なしだ。これで、あの少年は奏音の異能のターゲットとなった。つまり、どこに逃げ隠れしたとしても、お見通しと言うことだ」
「はぁ、奏音さん…本当に頼りになりますねぇ」
奏音…という女性は、異能対策課のメンバーの一人だ。新藤も如月も顔を見たことはないが、何度も彼女の能力の前に、仕事が邪魔されている。
なぜなら、彼女は異能者の位置を追跡できる異能を持っているからだ。それを誇るかのように、成瀬は言う。
「当然だ。異能対策課は僕と奏音、それに乱条という最強のチームだ。あのガキの力を最初から知っていれば、葵さんに協力を願うことなんてなかった」
事務所に転がり込むように現れたときは、気が動転していた成瀬だったが、今は十分に落ち着きを取り戻したらしい。成瀬があんな顔を見せるとは思わなかったので、新藤は思い出すとつい笑ってしまいそうだった。余程、乱条が怪我してしまったことに驚きを覚えたのだろう。
「それ、乱条さんに言ってあげたら、今の三倍くらい強くなると思いますよ」
「あいつが今以上に強くなったら、それこそこの街が滅茶苦茶になる。位置情報を送るから切るぞ」
電話が切れた。
どうやら、成瀬は乱条のことについて触れて欲しくないようだ。一時とは言え、取り乱したことも忘れたいことだろう。
「成瀬さん、上手くやってくれたみたいです」
まだ呼吸が落ち着かない如月だが、何か思うところがあるらしく、新藤の言葉には答えず考え込んでいるようだった。
「どうかしました?」
「さっきの哲也少年…あまりに反応が早すぎやしなかったかな」
新藤は先程のやり取りを思い返してみたが、哲也に早過ぎる行動があったようには思えなかった。頭の中で首を傾げる新藤だったが、如月にはそれが見えたらしく、小さく溜め息を吐いた。
「逃げるタイミングだよ。異能が使えないことに、疑いを持つ時間が極端に短かった。まるで、自分の異能が使えなくなることを、ある程度は想定していたかのようだった」
「……確かに、普通ならちょっと不調なだけかもしれないとか、もう一度やったらできるかもしれない、って何度か試してもおかしくないはずですね」
「そう、特に哲也少年は自分の力に酔っていたのだろう? その割には少し切り替えが早かったような気がする」
「どういうことなんでしょう…?」
「私と言う存在を知っている誰かから、聞いていたと考えるのが自然かもしれない」
「そんな人…いるんですかね?」
「いることにはいるだろうけど…今となっては異能を失った、普通の人間でしかないはずだ」
新藤は黙り込み、見えない敵の存在を微かに感じた。それに対し、如月は肩をすくめる。
「今考えても分からないことを考えても仕方がない。とにかく、この事件…解決するには、今まで以上の注意が必要かもしれない、ということは頭の片隅にでも入れておいてくれ」
「わかりました」
新藤は頷く。もちろん、最初から哲也の異能を甘く見るつもりはない。しかし、万全を期して戦ったとしても、イレギュラーが発生する恐れがあるのかもしれない。
それすらも、冷静に対応する必要があるのだろう。新藤は右の拳を握ると、それを温めるように左手で覆った。




