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いつからそこに建っているのか分からないほど、古めかしい外見の等々力ビルは、今日も薄暗い印象を周囲に撒き散らしていた。
その三階に入っている明らかに怪しいオフィスは、如月探偵事務所と言う。
どう見ても怪しいし、儲かっているようにも見えず、薄汚れた等々力ビルの外見も手伝って、誰も調査を依頼しようなんて思わないだろう。
その如月探偵事務所は、案の定と言うべきか、何の調査依頼もなく、スタッフと言うべき二人の人物は退屈そうであった。
「ねぇ、新藤くん。もしだけどさ」
と欠伸を噛み潰すように喋り出したのは、この事務所の主である、如月葵だ。
「…なんですか?」
面倒くさそうに答えるのは、この事務所の唯一の社員である新藤晴人。
「もし、君がここで働いていないとしたら、どんな仕事に就いていると思う?」
「なんですか、急に」
新藤は心底面倒くさそうに答えた。依頼がないとは言え、彼にはそれなりの雑務がある。如月が少しも手伝ってくれることがない雑務が、それなりに。だから、可能であれば如月の無駄話には、付き合いたくないのだ。
「君の前職については…まぁ、触れないとしてだよ、どんな仕事にでも就けるって話になったら、何になりたいの?」
「えぇ…なんでしょう。普通にサラリーマンやっているんじゃないですか。僕ってほら、割りと真面目ですから、堅い事務職みたいなものが合っているような気はしますけど」
そう言いながら新藤は、普通のサラリーマンであれば今と大して変わらないのでは、とも思った。如月はその回答には満足できなかったらしく首を横に振る。
「違う違う。そういう夢のない話じゃないよ。仕事がどうとか言ったけど、そうじゃないの」
「…なら、どういうことなんですか?」
「うーん、言い換えればだよ、もし何でも良いから一流で最高の才能を手に入れられるとしたら、君はどんな才能が欲しいのか…という質問だよ」
「ああ、そういうことですね。そうですね…」
新藤は数秒ほど思考を巡らせて考え、何となく思いついた職業を口にした。
「絵描きとか?」
「へぇ、意外だね。どうして?」
「あれだけ美しく自己表現ができるって、絵描きくらいじゃないですか。僕みたいなものは、コツコツと仕事するしか脳がないので、何て言うか…自己表現によって他人の心を豊かにするなんて、少し憧れますよ」
「自己表現かぁ。君みたいなタイプでも、誰かに認めて欲しいとか、そういう気持ちがあるんだね」
「人並みにはありますよ。誰かに認めてもらえるのは、嬉しいですからね」
「それで、何で目指さなかったの?」
「才能、ありませんから」
「試したの? 努力したの?」
「試したってほどでも、努力したってほどでもありませんけど…そこまで打ち込もうと思える才能もなかったんじゃないですかね」
もちろん、新藤は本気で絵描きになろうなんて思ったことはない。本当に如月との会話の流れで、何となく出てきた職業でしかないのだから。
ただ、如月にとってその回答はそれなりに満足だったらしく「なるほどねぇ」と言った後に、新たな疑問が浮かんだらしかった。
「じゃあさ、もし人が無条件に才能を手に入れられるとしたら…どうなるんだろう」
「そりゃ、傲慢になるんじゃないですかね。努力を重ねれば、その過程で色々と挫折したり自分の未熟さを思い知らされたりするでしょうけど、それがなかったら、人はどこまでも傲慢になってしまう気がしますね」
「なかなかの慧眼。私も同意見だね」
「……それで、何の話なんですか?」
「私はね」
如月の目は窓の外に向けられた。
その表情は、新藤からは半分ほどしか見えないものだったが、どこか彼女らしからぬ、冷たいものであるように見えた。
「才能と言うものは、やはり努力が必要だと思うんだよ。それをせず、手にした力で何でも思い通りにすることはもちろん、それをばら撒いて人々を混乱させるのも、間違っていることだと思うんだ」
「それは…そうかもしれませんけど」
何の話だろうか、と新藤は改めて考える。彼女の言う、努力もせずに力を手にした人間というのは、異能者たちのことを言っているのだろう。
異能者。それは普通では考えられない、異常な能力を持った人間たちのことだ。もっと端的な言葉を使うなら、超能力者とでも言うのだろうか。
彼らは努力や修行するわけではなく、生まれつき、もしくは突発的にその力に目覚める。中にはその力を利用して悪事を働いたり自身の勝手を働くものもいる。確かにそういった人間は許せない、と新藤も思う。
だが、それをばら撒くとはどういう意味なのか、新藤には理解できなかった。
新藤は神妙な調子で物思いに耽っている如月に、どういった言葉をかけるべきなのか迷っていると、彼女の方から緊張を解いて笑顔を見せた。
「なんでこんな話をしたんだろうね。急に、昔会った嫌な女のことを思い出してしまったんだ」
「珍しいですね。どんな人だったんですか?」
「独善的で支配的で高圧的で、上から人を見下すような最低な女でさ。私はそいつのことが苦手だった。怖かった、と言っても良いのかもしれない。でも…それでいて、凄い慈愛に溢れているやつだった」
如月は忌々しいと言わんばかりに吐き捨てたが、最後の部分はどこか友人を懐かしむような目をしていた。新藤は単純に感心する。如月にそれだけの印象を与える人間がいるということに。
「如月さんをそこまで感情的にさせるなんて、きっと凄い人なんですね」
「ああ、本当に物凄くとんでもない女だったよ」
「今は何をしているんです?」
新藤の言葉に、如月は溜め息を吐いて、窓の外に顔を向けた。彼女の表情が見えなくなってしまったが、どこか暗い様子で呟くように言うのだった。
「死んだよ。君と出会う…少し前にね」
新藤が言葉に詰まった瞬間、事務所の目の前にあるエレベーターが開く音がした。
「新藤くん、客だ。私はできるだけ探偵らしくするから、君は接客をしっかりと頼むよ」
「は、はい!」




