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次の日、学校に行くといつもと変わらない日常が続いた。ランドセルを後ろから蹴り付けられ、前のめりになって転びそうになる。変わらない毎日。
宿題を写させろと言われたからノートを貸すと、すべてビリビリにやぶられて返ってきた。変わらない毎日。
給食もご飯に牛乳がかけられ全く美味しくないし、放課後も囲まれて殴ったり蹴られたりと散々だった。変わらない毎日。
あいつら、全員死んでくれないかな。そんな風に思うけど、先生に褒められるのは、いつもあいつらだ。明るくて元気。あいつらは、そんな風に思われているのだろうか。そう言えば、僕はイジメられていることを相談したことがあった。先生は少し困った顔をしてから、こんなことを言うのだった。
「哲也くんは元気がないから、からかわれているだけなんだよ。もっと元気に振る舞えば、からかわれることはない。もっと元気になりなさい。それでも、からかわれることがあるなら、また先生に相談するんだよ」
先生は「イジメ」という言葉を使うことはなかった。僕は飽くまで「からかわれているだけ」らしい。そして、元気になるまで相談するな、と言うのだから僕は途方に暮れるしかなかった。確かに元気になればイジメられることもないのかもしれない。でも、そんなことが簡単にできるなら、先生になんか相談しないのに。
四年生になってから、今の先生がやってきた。最初は、正義について、親切について、思いやりについて、そんなことばかり話す先生だったので、僕は尊敬したし、期待もした。僕も正義を抱き、他人には親切に、思いやりを持って人に接したい。そう思った。イジメられるようになってからは、先生がきっと助けてくれると期待したのに…結果がこれなのだから、僕は誰も正しさなんて求めていない、と知るのだった。
肩を落としながら、一人で帰る。ふと顔を上げると、前から大人の男女が手を繋ぎながら、こちらに歩いてくるのが見えた。僕は道を開けるように左へ避ける。その二人は僕の存在なんか見えていないかのように、笑いながら通り過ぎて行った。
また歩いて、前から人が来る度に道を開ける。誰も自分から道を開けようとはしなかった。必ず僕が先に避けて道を開けるけど、誰もがそれを当然のような顔をしていた。それは僕が見えていないからだろうか。それとも、僕なんてものは存在していてもいなくても、同じということなのか。
有象無象、という言葉があるらしい。テレビでその言葉を聞いて、辞書で意味を調べたことがあった。その意味を知って、きっと多くの人が僕のことを有象無象の一つとしか思っていないのだろう、と考えたら気持ちが重くなった。
いつかそれを否定できたら良い、と思う。僕こそが特別で、僕をイジメるやつら、僕に道を譲らせるやつら、先生、お母さん…そんなやつらこそが有象無象になる日が、やってくれば良いのに。
家に帰っても、僕は有象無象だ。
そんなことを考えると、歩くのが嫌になって、また川が見える土手に腰を下ろした。何も考えないで、穏やかな川の流れを眺める。何も考えていないはずなのに、勝手に川の水が増えて氾濫する妄想が頭の中に流れた。この街を飲み込んでくれないか。あいつらが悔い改めてくれるために。
「ねぇ、君…いつもここにいるよね?」
一瞬だけ…本当に一瞬だけ、この前の赤い髪の女の人が僕に話しかけてきたのかと思った。あのときと同じ場所だったから。
でも、今度は男の人だったので、すぐに違うことは分かった。声の方に振り向くと、やはり大人の男の人が立ってこちらを見ていた。たぶん、二十歳くらいの人だ。
「やぁ、僕は沢木って言うんだ。隣に座ってもいいな?」
「……はい」
学校では知らない大人が急に声をかけてきても、返事をしてはダメだと教わっていたけれど、眉が下がった優しい印象であるこの人が、僕に危害を与えるようには思えなかった。
「君さ…超能力って信じるかい?」
男の人…沢木さんは急にそんなことを言った。
「超能力…?」
首を傾げる僕に沢木さんは説明する。
「僕はね、超能力を研究しているんだ。毎日瞑想したり、超能力に関する本を読んだり…そして、いつか自在に超能力を使えるようになることを目指しているんだ」
「特別な力…ですか?」
僕が赤い髪の女の人に聞いた言葉をそのまま口にしてみると、沢木さんは何だか嬉しそうに目を輝かせた。
「そう、特別な力だよ。僕はね、君にもそういう力が眠っているように思えるんだ。良かったら、一緒に超能力を研究しないかい?」
沢木さんが僕に手を差し出した。握手を求めているらしい。
特別な力…。僕にあるもの…。それが本当なら僕は…。
僕は躊躇いながらも、沢木さんの手を握った。
「ありがとう。じゃあ、明日から毎日、ここで待ち合わせだ。良いかな?」
沢木さんの嬉しそうな顔に僕は頷く。
「良し、じゃあ宿題を一つ」
そう言いながら、沢木さんは肩に掛けたバッグから何かを取り出した。それは銀色に輝く特別なアイテム…のように見えたけれど、変哲もないただのスプーンらしかった。
「これ、ただのスプーンだけど、超能力を使えるようになればね、力を入れなくても曲げられるようになるんだ」
そう言って、沢木さんはスプーンの柄を指でこすり始めた。スプーンは細いけれど、鉄でできているはずだ。いくら大人でも思いっ切り力を入れないと曲がるわけがない…。
そう思いながら、僕は沢木さんの指先を見ていたが、どこか期待しているのが本音だった。すると、信じられないことが起こった。沢木さんは確かに力を入れていないのに、指で少し押し込んだら、スプーンがぐにゃりと曲がったのだ。驚いて絶句する僕に、彼はもう一本スプーンを取り出した。
「ほら、君も力を入れずにこれを曲げる練習をしてごらん」
「どうやってやるの…?」
「ただ念じるだけさ。最初は自身がないだろうけれど、大丈夫だよ。僕が君にパワーを送ったからね。たぶん、すぐに曲げられるさ。あ、お母さんとお父さんには内緒だよ。こういう力はね、練習中に色々な人に知られてしまうと、できなくなってしまうから」
「……うん、分かった」
僕は沢木さんからスプーンを受け取った。
僕は家に帰って、お母さんに叩かれてから、すぐに自分の部屋に篭ってスプーンを取り出した。念じる。念じる。きっと僕もできるはず。沢木さんも、あの髪の赤い女の人も、僕には特別な力があると言っていたじゃないか。だったら、僕にだってできるはずだ。もし、これを曲げられるなら、きっと僕は変われるはずだ。特別になれるはずだ。そして、特別になったら有象無象どもに、思い知らせてやるのだ。
スプーンは曲がった。ちょっとした練習だけで簡単に。きっと、僕は特別な存在になる。僕は初めて明日がくることを楽しみに思った。




