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「すみません」
昼過ぎ、事務所を訪れた人物は宮崎静流だ。新藤は驚きに目を丸くしたが、彼女の無事な姿に笑顔を見せた。
「宮崎さん、もう大丈夫なんですか?」
「はい、今日から仕事に復帰しました。本当に、お世話になりました」
宮崎は簡単な手続きを進めつつ、あれからの出来事を話した。警察で事情聴取を受け、成瀬のおかげで、すぐに解放されたこと。数日は怒りと憎しみで、気持ちが不安定だったこと。そして、犯人の男が同僚だったことを。
「私は知らなかったのですが、あの男は、入嶋さんのことが好きで、かなり言い寄っていたみたいなんです。でも、あまり相手にされず、ストーカーみたいなことをして、最終的には犯行に至ったとかで」
「好きなら…どうして?」
「好きだったから…かもしれません」
「そうですね」
宮崎の言葉を肯定したのは、如月だ。
「相手への好意は、言い換えればただの執着です。その執着が納得する形で満たされないのであれば、殺意や敵意に裏返ってしまう。しかも、瞬く間に」
宮崎は頷いた。
「確かに、あの男…萩原さんは、自分の感情をコントロールできるタイプではなかったと思います」
そう言いならが、宮崎の顔が少しずつ変化して行く。怒りと憎悪に染まって行ったのだ。どうやら、犯人の名前は、萩原と言うらしい。
「宮崎静流さん。貴方はミャン太氏に憑依され、彼の心に触れ、同調した。今もその感覚が抜けていないのでは?」
「はい、その通りです。あのとき…ミャン太さんの感情が、私に流れ込んできました。入嶋さんとミャン太さんは、本当に幸せな生活を共にし、愛し合っていた。どちらが欠けてしまうことになっても、それは耐え難いものだったのだと思います。それなのに、あの男は自分勝手な感情だけで、二人からそれを奪った。許されるべきことでは…ないと思います」
「それは違いありません。でも」
そう言って、如月は顔の前で手を組んだ。
「なぜ、その男は、そこまで入嶋さんに執着してしまったのでしょうか」
「……分かりません。分かりたくもありません」
「そうですね。私もです」
如月はそう言って笑顔を見せたが、新藤は何か含みがある気がしてならなかった。そう感じたのは、宮崎も同じなのか、曖昧な笑みを浮かべて席を立った。手続きも終わり、話すことは話したのだろう。
「それでは、ありがとうございました。また…困ったことがあれば、お願いします」
「そんな日がこないことを祈っています」と新藤は答えた。
宮崎は頭を下げ、事務所を出ようとした。
「宮崎静流さん」
しかし、その背を如月が呼び止め、彼女は振り返った。
「そう言えば、事件があった付近で、一匹の猫が動物病院に保護されました。その猫は、酷い怪我を追って、治療を受けてしましたが、何度か気を失い、生死をさ迷ったそうです。それが、数日前…意識が完全に戻ったのだとか」
「それって…もしかして」
如月は頷く。
「今は引き取り手を探しているそうです。よろしければ、その動物病院の連絡先をお伝えしますが…」
「はい、お願いします!」
動物病院の連絡先を控えたメモを握りしめ、宮崎は今度こそ、事務所を後にした。
「ここ数日、姿を現さないと思ったら、ミャン太さんの行方を探していたんですね」
「猫の移動範囲は、それほど広くないはずだからね。あの近くで、きっと事故に合ったのだと思ったんだ。そしたら、無事保護されていた。不幸中の幸い、というやつだよ」
「そうか…だから、宮崎さんの意識はミャン太さんに乗っ取られたり、戻ったりを繰り返したんですね」
「そういうこと。ミャン太の本体が目覚めたとき、彼は自分の体に戻っていたんだ」
「でも…ミャン太さんの中に、憎しみが残ることには、変わりないのですよね?」
「今はただの猫だ。人に憑依する異能はない。それに、猫には人間ほど複雑な感情はない。彼があれだけの憎しみを抱けたのは、宮崎に憑依したからこそだ。あの二人が…新しい生活を手に入れてくれることを願うばかりだ」
「そうですね」
新藤は掃除を再開し、暫くは集中していた。だが、掃除を続けながら、今回の事件について一人振り返った。そこで、思い出したのは、如月がミャン太の怒りに理解を示したことだった。そこで、彼は如月に聞いてみた。
「如月さんは、何かを壊してまで、誰かを恨んだり憎んだりしたことは、あるんですか?」
彼にとっては、何気ない質問でしかなかった。如月も熟考する様子もなく、軽い調子で答える。
「あるよ」
その回答を聞いて、新藤は自分はどうだろうか、と考えた。
「僕には分かりません。どうして、そこまで怒りの感情を抱けるのでしょうか」
「君はまだ、本当の意味で大事なものを失った経験がないのかもしれないね」
「そうなのでしょうか」
「時々あるのさ。その人を失うくらいなら世界を壊してしまっても構わない、と思えることが」
新藤は考える。もし、誰かの手によって、如月の身に何かがあったとしたら。考えただけで身震いが起こった。だが、自分はミャン太のように、如月が言うように、恨みと憎しみで、何もかもを壊してしまおうと考えるだろうか。
うまく想像はできなかった。新藤は自分の想像力の拙さを誤魔化すように笑ってから言った。
「如月さんが世界の敵になったら、とんでもないことになりそうですね。考えるだけで怖いです」
「私は基本、無力だよ。まぁ…でも、その気になったら、どうだろうね」
「そんな日が来ないと良いですねぇ」
「そんな日が来てほしくないなら、死なないように強くなってくれよ。せめて、乱条という女には絶対負けない程度には」
「え?」
如月の言葉があまりにも意外で、新藤は彼女の言葉を聞き違えたのではないか、と何度も頭の中で繰り返す。茫然とする新藤の顔を見て、如月は首を傾げた。
「なんだ? 私は変なことでも言ったかい?」
「……いいえ、何でもありません」
新藤はただ笑顔を返した。




