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新藤にできることは、百地を抱き上げて、逃げることだけだった。
成瀬とやり合うことは、これが初めてではない。だから、彼の異能力がシンプルでありながら、どれだけ強力であるか、という点も理解していた。成瀬は鉄球を自由自在に操る。速度だけでなく、その軌道も。
今、成瀬は二つの鉄球を操っている。彼がその気になれば、一つで新藤を牽制し、その間に百地を襲うことだって可能だろう。だから、この状況では、逃げることしかないのだ。
新藤は百地を抱えて走り回るが、彼の体力は無限ではないし、成瀬もそれほど甘くない。鉄球は、着実に新藤を追い詰めて行った。
新藤は背後に迫る鉄球の気配を感じ、右側へ飛ぶ。すると、後ろから飛んできた鉄球が新藤のすぐ左を通り抜けた。しかし、鉄球は急停止すると、方向転換して新藤を追跡する。普通の物体であれば有り得ない動きだ。
それでも、新藤は対応してみせる……が、足の踏ん張りが利かず、回避行動がとれなかった。百地を抱きかかえたまま、動き続けた代償である。新藤は無理やり体を捻って、百地を庇った。
黒く重い鉄球が、新藤の横腹に食い込み、バランスを崩して倒れてしまう。彼に抱えられた百地の体も空中に投げ出され、固い地面に叩き付けられてしまった。
「百地さん!」
彼女は全身を打ったのだろう。痛みに顔を歪め、とても立ち上がって、逃げ出せるような状態ではない。新藤はすぐに彼女へと駆け寄ろうしたが、強い痛みが横腹に走る。
さらに、その痛みを与えた鉄球が、彼のすぐ頭上に浮いていた。新藤は痛みを無視し、地面を転がるようにして、何とか鉄球の襲撃から逸れる。だが、鉄球はしつこく彼を狙った。百地を守らなければならない。
しかし、その余裕は与えてもらえなかった。さらに、言えば…鉄球は一つではない。新藤はもう一つの鉄球の行方を確認するため、成瀬の方へ一瞬だけ視線をやった。だが、そこには狩りを楽しむように笑みを浮かべる成瀬の姿があるだけで、鉄球はなかった。
新藤は嫌な予感を抱きつつ、百地の方に視線を戻すと、今探していたもう一つ鉄球が、彼女のすぐそばを浮遊している。新藤は自分の体を盾にして、彼女を守ろうと考えた。しかし、先程から彼に付き纏う鉄球が許してくれない。
「逃げて!」
新藤が叫ぶが、百地はそれが耳に入らないどころか、自分に死の鉄球が接近していることすら、気付いていなかった。
鉄球が人の肉を打つ、鈍い音が聞こえた。
怯え切って蹲る百地だったが、どこからか現れた巨体が彼女を守っていた。
ゆっくりと目を開ける百地が見たその人物、木戸康弘は鉄球を正面から受け止め、それでも彼女を守るために、決して倒れることはなかった。
「な、なんで…?」
百地の問いかけに、木戸は何も言うことなく、彼女に覆い被さるようにして、その体を盾にする。彼の背後で、様子を窺うようにしていた鉄球が、再び彼の背を打つ。木戸は顔を歪めるが、膝を折ることもなければ、その場から逃げ出そうともしなかった。
「……どういうつもり?」
自分を守る木戸に対し、百地は吐き捨てるように言った。
「馬鹿なんじゃないの…? 今更、私の前に現れて…襲い掛かってきたと思ったら、今度は助けるつもりなの?」
再び背を打つ鉄球。木戸は黙っている。
「呆れる…本当に嫌な男よ、あんたは。早くどこか行ってよ。見ているだけで、吐き気がする!」
「どこにも行かない」
と木戸が言った。
「はぁ?」
「お前を…守る」
百地は自分に覆い被さる木戸の頬を手で打った。
「気持ち悪い! 死ね! あんたがいなければ、私は、幸せだったんだよ! 幸せになれたんだよ! それなのに、今更…全部お前のせいだ! 死ね! 死ね!」
木戸の体が崩れ、百地の前に倒れた。何度その身に鉄球を受けたのだろうか。百地は知らないことだが、彼はここに来る前に、新藤に殴られ、大きなダメージを負っている。その上で鉄球の攻撃を何度も受け止めたのだ。
ただ、そんなことを知ったとしても、百地は目の前の木戸を許さなかっただろう。
「何よ、気持ち悪い…そんなことで、許されようと思っているわけ?」
もうこの男は、自分にとって過去でしかない。しかも、忘却すべき過去なのだ。恨むべき過去なのだ。傷付けられたし、不安にさせられた。何度も裏切られた。
だから、もう二度と会わないって決めたのだ。この男には、僅かな好意も残っていないのに。それなのに…どうして。
百地の目から涙が流れる。そして、頬を伝う、その温かさに驚愕した。なぜ、自分は涙を流しているのだろう。
最後に涙したのは、いつだっただろうか。今日だけで、何度も死の恐怖を味わった。ここ一週間で何度も得体の知れない恐怖に襲われた。ここ数年で、何度も自分を惨めに思った。それでも流さなかった涙。
そうだ、最後に泣いたのは、木戸ともう二度と会うまい、と決めたあの日だ。結局、自分はこの男に捉われた人生を未だに歩んでいるのだ。結局、この男が相手でなければ、感情が揺さぶられないような人間なのだ。
そう思うと、悔しくて情けなくて、もっと涙が出てきた。
木戸の姿を見て、新藤は瞬時に決断し、成瀬の方へと地を蹴った。木戸と言う人間を知っているからこその決断だった。
また、ダメージを負ってスタミナも残されていない新藤にとって、成瀬を倒すには、この瞬間しかない。背後から迫る鉄球の気配を察知して、横に逸れる。鉄球が背後から目前に移動し、今度は正面から襲撃されたが、身を屈めてそれを避け、一気に成瀬へと距離を詰めた。
走る勢いに乗せて、右の拳を成瀬へと突き出す。だが、成瀬はステップでも踏むようにして、それを躱して、距離を取ってしまう。新藤はさらに踏み込み、追撃するつもりだったが、鉄球にそれを遮られてしまった。
鉄球は新藤の頭上で右へ左へと動き、隙あらば彼の頭を破壊しようとした。しかし、連続する鉄球の攻撃だったが、新藤ではなく、傍にあった木に当たった。しかも、めり込んでしまい、自由に動けないようだ。
どうやら、成瀬は同時に木戸を狙っていたため、集中力が分散した結果、ミスをしてしまったらしい。新藤は好機と見て、一気に距離を詰め、右の拳で成瀬を狙う。成瀬は身を屈めてそれを躱すが、新藤は逆の拳を放っていた。
それは成瀬の横腹を捉え、彼の顔を歪ませる。新藤は、痛みに膝が折れかけた成瀬の首を抑え込むと、今度は膝を付き上げて、その顔面を破壊しようとした。
しかし、致命的な一撃を受けてしまったのは、成瀬ではなく、新藤の方だった。横から襲ってきた死の気配。咄嗟に両腕で頭部の左側を守るが、その衝撃はとてつもないものだ。ガードの上からでも衝撃が伝わり、体が流れ、脳が揺さぶられる。
新藤はたたらを踏みつつも、何とか耐えてみせたが、成瀬は容赦ない。鉄球が二つ、新藤を挟むようにして浮いていたのだ。どうやら、成瀬は百地を狙うことは諦め、新藤の対処に集中することを選んだらしい。
「ふぅー、危なかった」
成瀬はスーツに付着したゴミでも取るように、肩の辺りを手で払う。
「顔面だけは殴られたくないからな。良かった良かった」
成瀬の軽口に、新藤は返す言葉がなかった。ダメージがなければ、二つの鉄球を掻い潜って、懐に飛び込むチャンスはあったかもしれない。
しかし、今の状態では九死に一生の賭けに出ても、鉄球の包囲網を破るイメージはつかめなかった。
「さて、仕事は終わりだ。新藤くん、君との戦いも…これで終わりだね」
成瀬の言葉に、血の気が引くような感覚を覚える新藤。しかし、同時に確信を得る。間に合った、と。
「その通りみたいですね、成瀬さん」
その声は新藤のものではない。だが、成瀬の動揺を誘い、同時にそれまで縦横無尽に動いていた鉄球が、
突然重力の存在を思い出したかのように、地面へ落下した。
どうやら、自由に飛び回る術を忘れてしまったらしく、ぴくりとも動かない。
「アンチ異能力…」
成瀬は何が起こっているのか、理解する。そして、その原因である人物の方へ視線を向けた。
「あと少しだと思ったのですが…早かったですね、葵さん」
「そういうことです。どうやら勝負は、私たちの勝ちですね」
闇の中から現れた声の主は、異能事件の専門家、すべての異能力者の頂点に立つ者。如月探偵事務所の所長、如月葵であった。