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高校を卒業して、木戸は働き始めるが、やはり上手く行かない様子だった。友人や知人、木戸を知るものは全員、別れるように提言した。高校のときは、時々遠慮がちに言われるだけだったが、大人になってからはそうではなかった。
友人から木戸を否定される度に、百地の精神は疲弊して行く。自分の信念を否定され続けることは、苦痛だったし、仕事が続かない木戸を見ると酷く苛立った。
ある日、彼女は鏡の前に立ち、正面に立つ自分を見つめた。そして、自分に問いただした。このまま…木戸の傍に居続けたら、自分はどうなるのだろうか、と。
周りが言うように、不幸になってしまうのだろうか。確かに、苦しい日々ばかりだ。でも、彼の中には本当の優しさがある。私はそれを信じると決めたのではないか。
そうだ、約束しよう。
私は木戸康弘と一緒に道を歩み、それでも幸せになってみせる。誰もが木戸と一緒では幸せになれない、と言う。しかし、それは間違いだ、と証明してみせようじゃないか。
百地は鏡の前の自分に誓った。
木戸を裏切らない。
自分を裏切らない。
それが約束だ、と。
しかし、百地は約束を破った。木戸とは一緒にいられない。やはり、この男と一緒にいては、自分はいつまでも幸せにはなれないだろう、と思い直したのだった。
私はあいつに人生を狂わされていた。歪められていたのだ。そんな気持ちもあったが、木戸の呪縛から自由になると、ストレスから解放された。自由になった彼女は、立て続けに別の男たちと交際した。他の男たちは誰もが優しく、大人で、暴力の気配はなかった。男は自分に優しい。もっと優しくされたい、と百地は自由な交際を楽しむ。
そんな百地の奔放さは、友人や身近な人間を傷付け、距離を置かれることもあった。それでも、楽しければ良いではないか、と割り切る彼女だったが、物足りなさを感じている自分に気付く。そんなときは、なぜか木戸が懐かしくなり、彼を訪ねた。
木戸といると、不思議と充足感があったが、長くは一緒にいられなかった。なぜなら、彼と一緒にいては不幸になるからだ。彼と会うことは、少しずつ頻度を減らし、最後には関係を断った。
木戸以外の人間では、精神的な充足感を得ることはできない。そうなると、後は安心して人生を歩めるパートナーが欲しい、と思った。要するに金だった。
飯島清司は十分な金を持っていた。この男と結婚すれば、困ることはないだろう、と百地は思った。実際にそうだった。飯島はプライドが高く、多少怒りっぽいところがあったが、木戸に比べれば、扱いは簡単だ。暴力を振るう勇気もないようだから、むしろ安全である。
そして、陸が生まれると、愛情をそこだけに注いだ。後は彼の成長だけを楽しみに生きれば良い。毎日ご飯を食べて寝て、掃除をして料理を作って、洗濯を回して…それの繰り返しで良い。十分に人生は楽しいではないか。
そう言い聞かせる百地だが、時折考えることがあった。でも、もし…あのまま、あいつの傍に居続けらたら、自分はどうなるのだろう、と。
その、もしもが、言う間でもなく、優花梨だった。
優花梨は自分と交わした約束を守った。木戸がどんなに失敗しても、どんなに当たり散らしても、彼を信じた。
ただ、信じて、信じ続けても、木戸は変わらなかった。二十七歳になっても、彼は怒ってトラブルを起こし、職も定着せずに、まるでその日暮らしだった。時期によっては、優花梨の収入で食べさせることもあったし、むしろそんな期間が多かったかもしれない。
両親には絶縁されてしまった。それでも、よかった。木戸といると、自分が優しくなれた。これが自分の幸せなのだ。そう言い聞かせるが、殆どは意地を張り続けるだけの状態だった。それでも、彼女は後に退くつもりは少しもない。絶対に木戸と二人で幸せになる。ゴールのない戦いを延々と続けてみせたのだ。
でも、もし…どこかで、決断していたら、どうなっていたのだろうか。
そんなことを考えたとき、優花梨は百地の世界にいた。知らない自分が、周りの人間を傷付けた世界では、優花梨を助けてくれる人はいなかった。木戸一人を除けば。
自分に何が起こっているのか、何とか友人や知人を辿って、付き止めようとする中、一人の女に出会った。長くて黒い髪に、僅かに青い瞳は、どこか人間味がない、妙な女だったが、微笑みは救いの手を差し出すかのように優しかった。
「百地さんの家なら、私が知っています」
その女に教えられた通りの場所へ行くと、百地が住む一軒家を見付けた。そこで優花梨は見てしまう。自分と交わした約束を破って、幸せそうにしている百地を。
彼女が許せなかった。自分と違い、簡単に木戸のことを捨て、幸せそうな生活を手にしている女が。復讐しよう。そして、その復讐の協力者は、もちろん木戸でなければならなかった。彼も百地に裏切られた人間だ。そして、優花梨も自分を縛り続けた木戸へ復讐しなければ、気が済まなかった。
百地も木戸も…不幸になってしまえば良い。
自分の苦しみの分だけ、恐怖と罪を背負わせてやるのだ。




