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瀬崎ありすは何かを念じるように目を閉じたまま言う。
「少し…少しだけですが、コツを掴んだような気がします」
「うん。瀬崎さんならきっとできる。だから、今日はもう帰って休みなさい」
優しい口調で言って、如月は笑顔を浮かべた。
新藤は、事務所の隅で話す如月と瀬崎を見ていた。新藤は理解している。如月は口調も表情も優しい雰囲気だが、本当は「早く帰ってほしい」と思っているのだ、と。
「あ、もうこんな時間なんですね。今日は父と一緒に夕食を食べる予定がありました」
「お父さん、喜ぶでしょうね。なら、早く帰らないとね」
「そうですね。じゃあ、明日もお願いします」
「うん、帰りなさい。また、明日ね。……明日もね」
荷物をまとめる瀬崎を眺めながら、如月は呟くが、それは誰にも聞こえていないようだった。
「新藤さんもお疲れ様です。また明日」
瀬崎はわざわざ新藤の横に立ってから頭を下げ、やっと事務所を出て行った。事務所に沈黙が訪れ、瀬崎が階段を降りる音を聞き終えてから、如月は溜め息を吐く。
「はぁー、新藤くん。疲れたよ。私は疲れたよ!」
如月は応接用のソファに身を投げ出し、だらしなく寝そべった。
「如月さん、もしかして…瀬崎さんのこと、苦手なんですか?」
足をばたばたさせる如月だったが、新藤の質問に動きを止める。
「苦手って言うか…何か良い子すぎて窮屈なんだよ、彼女。君みたいな図太さがあれば、多少いじめても問題ないんだろうけどさ」
「図太さ、ですか」
如月にそう見られているとは思いもしなかったので、苦笑いがこぼれる。
「それで、瀬崎さんは何しに来たのですか?」
「異能力の特訓だって。彼女の能力、私に似ているから、勝手に先生扱いだよ」
「へぇ…。でも、瀬崎さんって自分の能力に興味がないと思っていました。実際、如月さんみたいに異能力者を相手にしない限り、使う機会もないじゃないですか」
「ちゃんと能力を使えるようになれば、守りたい人を自分で守れるかもしれない、って…そういう意気込みらしいよ」
「守りたい人?」
首を傾げる新藤を見て、如月は眉を潜めたあと、口を開きかけたが、そのタイミングで電話が鳴った。事務所の電話ではなく、新藤が仕事用として使っている、携帯端末の方だ。
「もしもし」
最近、名刺を渡した相談者だろうか、と電話に出てみるが、相手は何も言わない。
「もしもし。如月探偵事務所の新藤です」
「わ、私だ」
返事があった。
「えーっと、どちら様でしょうか?」
「私だ。クレアだ!」
「え、クレア? どうしたんですか?」
「自分用の携帯端末を確保した。だ、だから…現状の報告だ。あの店で働きにくくなったので、アルバイト先を変えた。コンビニと居酒屋の掛け持ちで生計を立てるつもりだ」
「はぁ、そうですか」
「あと、店長の協力で新しい拠点を得た。住所は」
なぜかクレアは自分の住所まで伝えてくる。新藤は意味が分からなかったが、取り敢えず控えておいた。
「あれ、そう言えば、どうして僕の番号を知っているのですか?」
「何を言っている。お前が名刺を渡してきただろうが。何かあったら連絡しろと。だから、わざわざ報告の電話を入れてやっているんだ。お前に言われたからだぞ」
そうだったか、と新藤は少しだけ考える、
「でも、僕の名刺、捨ててましたよね? いるか、こんなもの、って」
「……十一桁の番号くらい、一秒で暗記できる」
「……そ、そうですか」
「とにかく、ちゃんと報告したからな。もし、私の拠点に来るなら電話を一本入れるように。突然、くるなよ。まぁ、電話くらいならいつでも出てやる。よ、用がなくても電話くらいなら、許してやる。じゃあな」
唐突に電話が切れた。新藤が呆然としていると、如月が嘲るように鼻を鳴らした。
「最近、君…充実しているみたいだな」
「充実? こんなに事務所が暇なのに、充実なんてしてませんよ」
「……君に女心の機微なんて、わからないか」
「女心? 何の話ですか?」
惚けているのではなく、飽くまで真面目な新藤を見て、如月も溜め息を吐くしかなかった。
「えーっと、あの話だよ。高月文香の話」
「その後、何かあったのですか?」
「正しくは、高月文也の話なんだけど、まだニュース、見てないの?」
「ニュース? そんな大事になっているのですか?」
「まぁ、世間が好みそうなニュースだね」
新藤はパソコンを操作して、ニュースを探す。高月文也の名前で調べれば、その記事がすぐに出てきた。
「高月文也、美術家の超美人妻と破局……?」
あの事件から一ヵ月も経っていないはずだが、何があったと言うのだろうか。
「もしかして…会田さん、と?」
信じられない、といった様子で恐る恐る尋ねる新藤。しかし、如月は悪戯な笑みを浮かべながら首を横に振った。
「私もまさかと思ってね、ちょっと調べちゃったんだけど、会田真司とその妻は、今も平和な家庭を維持しているようだ」
「そ、そうですね。あー、びっくりした。人と人の関係が、くっついたり離れたり、そんな簡単なものじゃないですよね!」
「新藤くん、安心するのは少し早いよ。これはまだ表に出ていない情報なんだけれど、高月文香は他の男と暮らすために出て行ったそうだ。高月文也は、それを受け入れる形で、離婚を決意したとか」
「え? ……あの、もう一度確認しますが、相手は会田さん、ですか?」
「二十代の若手俳優だって」
絶句する新藤を、如月は楽し気に見つめる。数秒間、沈黙が続いた後、新藤はようやく口を開いた。
「……女心って、よく分からないですね」
やっとひねり出したのであろうその言葉を聞いて、如月は嬉しそうな笑みを浮かべ、満足気に言うのだった。
「それで良いと思うよ。君らしくてさ」
(いつか)第9話に続く




