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父の記憶から、すべてを知った私は、激しい憎悪にかられた。


あの女は、遠く離れた場所に暮らしているわけではない。私は電車を乗り継いで、あの女の家へ行った。大きい家だった。そして、夫の記憶の中で見た、あの女の言葉を思い出す。



「私、プロポーズされたんだ。真司とは比べ物にならないようなお金持ち。でも、少しもドキドキしないんだ。何かが違うって言うか…優しさがない気がする。ねぇ、真司。私はどうすれば良いと思う?」



夫にそんな質問をしながら、女は金を選んだ。あの女は、夫の優しさよりも、金を選んだのだ。


優しさは正しさだ。それを理解できない、あの女は正しいくない。



女が家から出てきた。そして、後を付けると大学に勤めていることを知った。どうやら、非常勤の美術講師で、空いた時間は自分の作品つくりに当てているらしい。またも、夫の記憶の中にあった女の言葉を思い出す。



「私は真司みたいに、いつまでも夢なんて追いかけていられないよ。生活のこともあるんだから。真司は幸せにしたいって思える人が現れたら、どうするの? 続けるの? それとも、生活のために働くの?」



夫は夢を諦めた。この女に結婚を申し込むために。


しかし、どうだろうか。女は金持ちを捕まえて、自分だけのうのうと夢を追いかけている。それは、許されることだろうか。正しいことだろうか。


そして、何よりも…どうして、夫はこんな女を忘れられないのか。私が傍にいるはずなのに。それが悔しかった。



殺してしまいたい。



そんな風に思っている自分に気付いて、恐れを抱きながら、その日は家に帰った。でも、この気持ちを抑えられそうにはない。無感情に近い夫を見ては、罪悪感に苛まれ、あの女のことを思い出しては、殺意に心を乱される。


そして、何よりも……夫の記憶が込められた石は、あの女の傍にある、と思うと、今度こそ気が狂ってしまいそうだった。



この後悔を、この嫉妬を、この怒りを、どうすればいい?


こんな気持ちを抱く人間は優しくない。


正しくないじゃないか。



何かのきっかけで、夫も父も手にかけてしまいそうな自分が怖かった。


せめて忘れることができれば。



忘れることが……?



私は気付く。どんな後悔も、どんな嫉妬も、どんな怒りも、忘れることはできない。


だけど、私ならできる。私だけができるのではないか。



でも、その後はどうする…?


そうだ、父と同じことをやればいい。せめて、この想いは…この怨みはあの女のもとへ。



「これ、後で高月さんの家に送る分の荷物だから、車に積み込んでもらえるか?」


「うん、分かった」



何も知らないふりをして、父の言う通り、骨董品をまとめる。そして、父が見ていないことを確認してから、私は自分の額に指先を入れた。


夫の記憶を覗き見してしまったこと。あの女を尾行したこと。抱いてしまった殺意。それらをすべて、一つの石にして、抜き取る。石を抜き取って記憶を失う寸前、骨董の一つにあった壺の中へ、それを落とす動作に入った。


カラン、と音を立てて私の記憶が壺に落ちた頃、私の記憶は消えていた。




ある日、居間のテーブルに置かれていた石を拾い上げてしまい、私の記憶が蘇った。蘇ってしまった。私の記憶が、私の体から離れていたとき、何が起こっていたのか。それも断片的ではあるが、知ってしまった。


店の方に目をやると、父が視線を逸らすところだった。次の日は、夫の石がテーブルに置いてあった。父は何も口にしないが、彼の記憶も戻すべきだ、と言いたいのだろう。私はそれを手にしてから、自室へ移動した。父に、感情的になっていない、とアピールするため、できるだけ冷静を装って。


しかし、一人になってしまうと涙が溢れてくる。声が出ないよう泣きながら、何をやっていたのだ、と心の中で自分を罵った。



私は夫の額から記憶を抜き取るまでは、こう思っていた。きっと、彼も忘れられない誰かがいるのだろう。きっと、夫は激しく後悔していて、それを見てしまった私は強く嫉妬するに違いない。だけど、彼の後悔も、私自身の嫉妬心も、すべて背負って今の幸せを守ってみせる、と覚悟を決めたつもりだった。それこそ、私が示せる最大限の優しさだ、と。



でも、結果はどうだろうか。私の記憶は人を殺し損ねるところまで行ったらしい。私は優しさも正しさも、持ち合わせていないのだから、夫になった人にすら、振り向いてもらえないことも当然なのかもしれない。それは、私の記憶の石を見ればよく分かる。形も歪で色も気味が悪かったのだから。



もうやめよう。今度こそ、優しくて正しい人間になろう。何もかも知って、それでも受け止められたら、本当の優しさを持っている証だ、と私は思っていたのかもしれない。だけど、それは間違いだ。知ろうとしないことで示せる優しさだってあるのではないか。



溜め息を吐いて、夫の記憶の石を見る。



何て美しいのだろうか。思わず、もう一度溜め息を漏らした。それは先程の溜め息とは違う。あまりの美しさに、心が溶け出してしまいそうな…そんな溜め息だ。



私はそれを手に取ったまま、クローゼットへ移動した。そして、その前に正座して、大きく深呼吸する。クローゼットを開いて、衣装ケースの裏側に手を伸ばした。


そこには、少し大きめのアタッシュケースがある。


父も夫も知らない、アタッシュケース。

それを取り出して、膝の前に置いてから、中身を確認した。



「何度見ても、綺麗だなぁ。どれもこれも、本当に綺麗なものばかり」



その中にある、光り輝く石たちは、いつものように私を迎えてくれる。



これは、初恋の人から取った石。


これは、酔う度に私を殴った男の石。


これは、嘘ばかり吐いて急にいなくなった男の石。


これは、何が良いのか分からない、ヒステリー女を最後まで捨てられなかった男の石。


これは、これは、これは……。



誰も彼も、こんなに美しい記憶を隠し持っている。私が知らないだけで、父も隠し持っているのかもしれない。


常連のあの人は、どんな石を隠しているのだろう。


いつも犬の散歩で店の前を歩くあの人は。


駅前のコンビニで働いているあの人は。



知りたい。この欲求の先に、これだけ美しい石があるのだとしたら、私はやめられるだろうか。


人の記憶をコレクションする、という悦びを。



私は夫の石を、アタッシュケースの中に入れてから、再びそれをクローゼットの奥へ隠した。


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